めんどり通信/2016年5月15日(日曜日)主が復活された記念すべき日曜日です!ハレルヤ! <終末について:聖書、祈り、霊的感覚によって推考> 2018年3月25日付修正文。 |
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★新約聖書 マタイ による福音書 7:13,14 狭い門からはいりなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこか らはいって行く者が多いのです。 いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見い だす者はまれです。
★新約聖書 ヘブル人への手紙 9:27 そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている
●先週に引き続き「めんどり通信」の中で「終末」や「裁き」や「死後」に関連あるものを幾つか 振り返ってみた。 ★めんどり通信/2015年5月3日<再臨について、裁きの座についての 思考>/2015年5月10日<死後の裁き。悲しい結果になる中にクリスチャンもいることについ ての思考>/2015年5月24日<いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者は まれである、について思考>/2015年7月5日<「備えができた」「準備ができた」と主が見なさ れる時、聖霊の注ぎと主に大いに用いられることがあっても高ぶらないことについての思考:使 徒行伝、聖霊降誕から学ぶ>/2007年9月30日<神が裁かれるものに属さず裁きを逃れよ> /2014年2月2日<神から与えられたもの「タラント」「ミナ」に忠実になれ!/2013年9月1日 <「死後の行き先」についての思考>/2008年11月30日<御国を相続する報いか苦しみの報 いか、どちらの報いを受けるのか>/2012年3月4日<神の領域、死後>/2008年4月6日< 煉獄、セカンドチャンスは惑わしの教え>/2005年10月23日<借金の清算と返ってくる借金> /2008年6月1日<招かれる者は多いが、選ばれる者は少ない>など以上である。
終末について、キリスト教会でもいろいろ解釈が違うようだ。 聖書がいう「終末」とは、アダム以 来続いていた人間の歴史の終わりの日々のこと。 現在の世界が終結し、新しい世界として始 まるときのことであると言われている。 「終末」に起きる様々な出来事を、旧約聖書(エゼキエ ル書、エレミヤ書、ダニエル書など)に預言され、イエスも語られているが、時間的なこと、背景、 場所など、たとえで書かれている部分も多くわかりづらい。(マタイ24,25章、マルコ13章、ルカ 12,17,21章、黙示録) だから、キリスト教会でもいろいろ解釈が分かれているところである。
「人は必ず死ぬ」ということについては誰もが認めるところだが、「死後」とか「死後、自分はどう なるのか」についても、いろいろな意見がある。 死後については、だれも実際に行ったことが ないし、臨死体験者であっても、死後のほんの一部を体験しただけであるから、すべてを知る ことは不可能である。 「死後、自分はどうなるのか」は、「神のみぞ知る」、ある意味「神の領 域}であると著者は考えている。 もちろん、キリスト教会では、クリスチャンは、みな救われて いるから聖書に書かれている通り、「もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない」主のところ に行けると教えている。 しかし、通常、クリスチャンと呼ばれている者たちがみな、神から見ら れて「クリスチャン」とは言えないと考えている。 「クリスチャン」とは、原語ではクリスティアー ノス「キリストに従う者」という意味がある。
キリストに従っているのかどうかの最終判断は主がなさるのではないだろうか。 ただ、心から 主に従おうとする者を主は捨て置かれない。 心の奥底から、そのような決意と思いを持つ者 が、もし、主の喜ばれない道を歩んでいたならば、必ず主の方法で正しい道へと導いてくださる であろう。 また、主が選ばれた「神の子」としてふさわしい者、すなわち、神の愛のうちに、光 の子どもらしく、賢い人のように歩むことができるように整えてくださるであろう。(エペソ5:2、 8、15)
聖書は、世界には目に見えない霊の世界があり、霊の影響があることを教えているが、著者は 昨今、より一層、心の深みから本当にその通りだと思っている。 また、裁きの座に立った時の ことなど想像すらできないが、「人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まって いる」の聖書のことば通り、すべての人が神の前に立つのだと、本当にそう思う。 だから、イエ ス・キリストを信じている自称他称クリスチャンであろうがなかろうが、神は、人の心の奥底、霊 を見ておられるのだと思う。
また、「狭い門」にたどりつくには、それまでに「狭い道」を通った、すなわち苦難を通り、試 練訓練を受けて苦労した人がたどり着くのだと考えている。 「狭い門」の「狭い」は、字義の通 りであるが、「道が狭い」というときの「狭い」の原語は、「狭い門」の「狭い」とは違う語が使われ ているという。 その原語には「苦難が多い」「苦労する」という意味合いがあるという。(2015 年5月24日参照)
終末に関して、「教会の建て上げ」、「信仰の成長」、「霊の深みに入ること」について、キリスト 教会にいろいろな教えや聖書解釈がある。 どれもこれも、なるほどと思われる教理ではあるが、 見極めていくことが重要である。 だからこそ、より主と親しく交わっていくことが必要であると考 えている。 多くの巧妙な惑わしがあるゆえ、なおさら正しく主の導きを求めることが必須であ ろう。 ただ、このことは、結構、難しいことも事実であるが、決してあきらめずに求めていきたい ものである。
いずれにしても、聖書に書かれている通り、死後には、はっきりとした行き先があり、主がおら れる祝宴会場に入れる者は、一人一人に応じて、主から衣が与えられるということである。 一人一人の個性を主は尊重してくださって、皆一様ではないということである。(黙示録3:5、T コリント15:41) 今、この地上で生きている間に、自我が砕かれ、肉が切り取られながら主の 喜ばれる者となって、「いのちに至る門」「狭い門」をくぐり、明確にキリストとしっかり繋がり続 けて、キリストと共にこの地上での残りの道を歩んで行きたい(生きたい)ものである。
★旧約聖書 申命記 30:19 私は、きょう、あなたがたに対して天と地とを、証人に立てる。私は、いのちと死、祝福と のろいを、あなたの前に置く。あなたはいのちを選びなさい。
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