めんどり聖書研究会


めんどり通信/2008年6月1日。主が復活された記念すべき日曜日で
す! ハレルヤ!
<招かれる者は多いが、選ばれる者は少ない>


★新約聖書  ローマ人への手紙  9:27
       イスラエルについては、イザヤがこう叫んでいます。「たといイスラエルの子どもたちの数
       は、海ベの砂のようであっても、救われるのは、残された者である。

★新約聖書  ローマ人への手紙 11:5
       それと同じように、今も、恵みの選びによって残された者がいます。
 
マタイ22章でイエスは結婚式のたとえを語られた。 その結婚式とは、キリストと教会の結婚
式、小羊の婚姻の時のことをさす。 結婚の披露宴を設けたので、王は招待しておいたお客を
呼びに、しもべたちを遣わしたが、招待客は来たがらなかった。 それで、もう一度、別のしもべ
たちを遣わして呼びに行かせた。 

ところが、彼らはその招待を無視し、ある者は畑に、別の者は商売に出て行き、 中にはその
招待状を渡しにきたしもべを殺してしまった人たちもいた。 王の支配や王子の幸福は彼らに
とってなんの意味もなかったばかりか、彼らはその行為を通して王を嫌っていることを明らか
にしたのである。王はそれを聞いて激怒し、その人殺しどもを滅ぼし、彼らの町を焼き払った。  

それから、王は当初は予定に入っていなかった人々を招待した。 その人々は披露宴に来
た。 しかし、その中に礼服を着ていない人がおり、黙って反抗するこの人は手足を縛られて
宴会の席から追い出された。 このたとえを語られたとき、イエスは言われた。 「招かれる者
は多いが、選ばれる者は少ない。(22:14)」
と。

初めの招待客の畑に行った人とは、畑=麦(みことば)を食べて育つクリスチャンがいる教会
で働く人をあらわし、また、商売に出て行った人とは、商売=購い(買うの意味)と関係する、
具体的に言うなら伝道をしているクリスチャン、つまりどちらかというと牧師、教師、伝道者と思
われる。 どちらの人々も聖書をよく知り、イエス・キリストを人々に伝え、神に従っていると見
受けられる。 しかしそういう人々が、王(=神)の招待を断るというのである。 神に仕えてい
ると言いながら、その神の招待を断り、あろうことか神から遣わされたしもべを殺してしまうとい
うのである。 神に滅ばされても仕方がないことである。 

マタイ7:22、23にも 「その日には、大ぜいの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちは
あなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇蹟
をたくさん行なったではありませんか。』しかし、その時、わたしは彼らにこう宣告します。『わた
しはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。』
と書かれてい
る。 彼らは神もキリストも真理も見えていない。 盲目というのは恐ろしいものである。 

次に、当初は予定に入っていなかった人々が招かれたが、礼服を着ていなかった人は結局、
滅ぼされてしまったということである。 当時、招待する側は、その時着てくる礼服も準備する
という習慣があったといわれている。 それで、「礼服を着ていない」というのは、準備されて
いた礼服を着て来なかったという意味がある。 

ここでは神は我々を招待するだけでなく、我々の礼服、つまり義の衣をすでに用意してくださっ
ていたということである。 キリストが十字架にかかってくださったことによって作られた、いわ
ば犠牲の衣、義の衣、礼服である。(Uコリント5:21、ローマ 3:22) またこの衣は小羊、キリス
トの血で洗って白くされた、罪のない白い衣でもある。(黙示録 7:14) 着るか着ないかは、そ
の人の判断に任せられている。 しかし、この礼服を着なければ、決して神の国に入ることは
できない。 

ここで言われていることは、当初婚姻に招かれていた客は、王の招待を拒否し王からの怒りを
かい、替わりに当初予定に入っていなかった人々が婚姻の席の客になるという逆転のことであ
る。 自分はクリスチャンだから、大丈夫というわけではないと思われる。 また、このことと、も
うひとつ注目すべきことは、やはりイエスの言われたことば、「招かれる者は多いが、選ばれる
者は少ない。」
である。

★新約聖書   マタイ による福音書  7:13,14
   狭い門からはいりなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこか
       らはいって行く者が多いのです。  いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見い
       だす者はまれです。

「招かれる者は多いが、選ばれる者は少ない。」は、要は救われる者、永遠の命を獲得する
者が少ないということである。 同じようなことばを主は山上の垂訓で言われている。(上記の
みことば) ちなみに山上の垂訓(さんじょうのすいくん)とは、新約聖書のマタイによる福音書5
章から7章
にある、イエス・キリストが山上で弟子たちと群集に語った教えのことである。 

聖書のみことばはどの時代の人々にとっても重要なものであるが、特に終末に生きる者たち
にとっては永遠の命を得るか失うかということにおいて、それまでにないほど重要なものであ
る。 聖書は焦点が終末の人々に宛てて書かれているといっても過言ではない。 今やもう終
末に入っていると多くのクリスチャンが考えているようであるが、著者もそう思う。

主イエス・キリストを信じて救いを得てもそれを最後まで全うできる人が少ない、永遠の命を獲
得できる人が少ないことを主は言われている。 畑に出て行った、商売に出て行ったというたと
えも彼らが明らかに主にしっかり仕えているクリスチャン、それも伝道者、牧者、つまりキリスト
の弟子と呼ばれる人々である。 だから当然、主イエス・キリストを信じ、行いも伴っていたと思
われる。  しかし、滅ぼされた。 神のみこころがわからず、神からのしもべを正しく悟れなか
ったからである。  

また、当初の招待客が拒否して神の怒りにあったので、宴会の当日、しもべたちは、通りに出
て行って、良い人でも悪い人でも出会った者をみな集めた
、と書いている。(マタイ22:10) つ
まり、最後の最後になってイエスを信じ救われた人々である。

イエスを信じたこと、それはある意味で「選ばれた」と言えよう。 著者も人々に伝道し、その人
たちが「イエス・キリストを信じて救われた」とき、「あなたがたがわたしを選んだのではありませ
ん。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。(ヨハネ福15:16)」
のみ言葉を
話してきた。 それは決して間違いではないと思われるが、しかし「招かれる者は多いが、選ば
れる者は少ない。(マタイ22:14)」
のみことばを考えてみるとき、「選ばれる」ということは「最後
まで残る」ということであろうと思う。 また神に「選ばれた」ということは「最後まで主を信じ続け
た」とも言えるのではないだろうか。

著者の経験からだが、実際多くの人々が福音を聞いてイエス・キリストを信じた。 洗礼も受け
た。 にもかかわらず、その中の多くの人々はキリストから離れてこの世へと帰って行ってし
まった。 主が言われる「招かれる者は多いが、選ばれる者は少ない。」のことばは、本当にそ
の通りだとつくづく思う。 

また、イエス・キリストを信じ、日曜礼拝もきちんと守って、献金もしている、奉仕もしている多く
のクリスチャンたち、キリストの弟子たちが、聖霊の第三の波他、様々なトレンドに惑わされ、
艱難前携挙説やら艱難中携挙説や怪しい教理にだまされ、牧師など人間の器の強い影響を
必要以上に受けて、真理からはずれている多くの人々を身近に見てきた。 どうしてだろうかと
よく考え込んだものだ。 

著者も12年も前になるが、惑わされてその渦の中にいたが、ただただ、神のあわれみによって
引き出された。 このような愚かな者をどうして引き出してくださったのか、ともよく考え込んだも
のだ。 一つ思うことは、実際の力量や能力はなかったが、心からキリストに喜ばれる者になり
たいと願っていた、その思い、心を主が見てくださったのかもしれないということだ。 

また、その思い、心が本物であるかどうかの主からの試しがあったときに、自分や家族、その
他のものを選ばず、主イエス・キリストを第一にしてきたと主が認めてくださったから、今日、こ
うして立っておられるのだとつくづく主に感謝するのみだ。 また、その試しのときに自我が砕
かれ、清められてきたこともただただ神に感謝するのみである。 

我々は日々の生活の中で、キリストを第一にしていきたいものである。 それは神の前にへりく
だることにもなる。 いのちの書に名前が記されること、つまり永遠の命を獲得することに目を
向けていきたいものである。 そのため、主イエス・キリストから目を離さず、絶えず祈ること、
神のことばである聖書を読むことに時間をかけていきたいものである。 

★旧約聖書   イザヤ書  4:3
       シオンに残された者、エルサレムに残った者は、聖と呼ばれるようになる。みなエルサレ
      ムでいのちの書にしるされた者である

★新約聖書  ヘブル人への手紙 12:2
       信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自
   分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座
    の右に着座されました。


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