めんどり聖書研究会


めんどり通信/2014年2月2日。主が復活された記念すべき日曜日です!ハレルヤ!
<神から与えられたもの「タラント」「ミナ」に忠実になれ!>


★新約聖書   マタイによる福音書 25:29
   だれでも持っている者は、与えられて豊かになり、持たない者は、持っているものまでも
   取り上げられるのです。
 
★新約聖書 コリント人への手紙 第二 5:10
   なぜなら、私たちはみな、キリストのさばきの座に現われて、善であれ悪であれ、各自そ
   の肉体にあってした行為に応じて報いを受けることになるからです。
 
マタイによる福音書25章には「タラントのたとえ」、ルカによる福音書19章には「ミナのたと
え」が記されている。 要約すると、「タラントのたとえ」は、主人がしもべたちに、おのおのその
能力に応じて、それぞれに5タラント、2タラント、1タラントを渡してから、旅に出かけた。 5タラ
ント預かった者は、すぐに行って、それで商売をして、さらに五タラントもうけ、 2タラント預かっ
た者も、同様に、さらに2タラント儲けた。 ところが、1タラント預かった者は、出て行くと、地を
掘って、その主人の金を隠した。 よほどたってから、主人が帰って来て、彼らと清算をした。 
5タラント預かった者は5タラント、2タラント預かった者は2タラント、儲けたことを報告した。 2
人とも主人から「よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私
はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。」と言われた。 ところ
が、1タラント預かっていた者は、主人は厳しい方、恐ろしい方なので、預かった1タラントを地
の中に隠しておいたと言った。 すると、主人は「悪いなまけ者のしもべだ。」と、その1タラント
は取り上げられ、10タラント持っている者に渡されたというたとえである。 
 
「ミナのたとえ」も同じようなたとえだが、違いといえば、「タラントのたとえ」では、しもべたちの
能力に応じてタラントが与えられていること、5タラント預かった者と2タラント預かった者は、主
人から同じお褒めのことばを受けていること、役に立たないしもべは、外の暗やみに追い出さ
れていることである。 「ミナのたとえ」では、能力に関係なく、10人のしもべたちに平等に1ミナ
ずつ預けられていること、10ミナ儲けた者には「あなたはほんの小さな事にも忠実だった」と褒
められ、10の町を支配させてもらい、5ミナ儲けた者には5つの町を支配させてもらえることなど
である。 
 
2つのたとえの共通するところは、「タラントのたとえ」の旅に出かけた主人も、「ミナのたとえ」
の遠い国に王位を受けに行った身分の高い人も、「イエス・キリスト」のことであり、しもべ(キリ
ストを信じたクリスチャン)のところに帰って来て、しもべたちと清算をするということである。 
預けておいたタラントやミナで儲けた者は報いを得ること。 両方とも、商売をするように主人
から資金を預かったこと。 ここで商売するとは、聖書の中から見ると、贖(あがな)いに関す
る。 すなわち、イエスの十字架の死という命の代償により、人が暗闇の支配から買い取られ
ること、救いを得ることである。 神は人を救うために、キリスト者を用いられる。 だから商売
をするとは、そのため、主の働きをすること、主に仕えることであるとも言える。 
 
預かったタラントやミナは、神から見られると「わずかなもの」であり、それらの資金で商売する
ことは「ほんの小さな事」である。 また、さらに共通するところは、1タラントを隠しておいた者も
1ミナを風呂敷に包んでしまっておいた者も、主人は厳しい方で恐ろしいと思っていたこと。 そ
して、それぞれ主人に対する怠惰、不忠実で、その1タラント、1ミナが取り上げられ、それぞれ
10タラント持っている者、10ミナ持っている者に渡されたことなどである。 
 
これらのたとえから学ぶべきところは多いが、その中でも、1タラント、1ミナが取り上げられたこ
と。 また、それらが、10タラント持っている者、10ミナ持っている者に渡されたことに注目して
みたいと思う。 1タラントも1ミナも主人である「主イエス・キリスト」から、「キリストのしもべ(クリ
スチャン)」に与えられる。 この1タラント、1ミナは、「キリストの救い」であると思われる。 「主
イエス・キリスト」から与えられた「信仰」とも言えるかもしれない。 タラントは、一人一人金額
が違うが、ミナは10人とも同じ金額である。 当時の1日分の賃金1デナリを仮に1万円として計
算すると、1タラントは約6千万円、1ミナは約130万円であるという。 タラントは、能力に応じて
与えられているということで、一人一人個人差があるということである。 キリストのしもべであ
るキリスト者(クリスチャン)は、キリストのからだの部分、ひとりひとり互いに器官であり、その
一つ一つの器官には、それぞれ働きの違いがあるのと同様である。(エペソ4:16、5:30、ロー
マ12:5) 「ミナのたとえ」で、1ミナで10ミナ儲けたり、5ミナ儲けたりと、儲けの額が違うのは、
それぞれの能力差もあるだろうが、むしろ、信仰や商売する、すなわち主の働きをする、主に
仕えて行くにあたっての苦労などの違いによるものと思われる。  
 
大事なことは、一人一人に与えられている能力、賜物の違い、差があったとしても、与えられた
ものに対して、どれだけ「忠実」であるかということだ。 主は、決して無理なことを言われない。 
与えられた能力、賜物以上のものを強要されない。 主に寄りすがっていくなら、それ以下にな
ることはない。 「忠実」とは、5タラント与えられた者は5タラント、2タラント与えられた者は2タラ
ント儲けるということである。 主によりすがって聖霊の導きに従っているなら、与えられた能
力、賜物分を儲けることができるからである。 だから1タラントの者は1タラント儲けるべきだっ
た。 しかし、このしもべは「ご主人さま。あなたは、蒔かない所から刈り取り、散らさない所か
ら集めるひどい方だとわかっていました。 」と主人に言った。 
 
このことは、主イエス・キリストに信頼しないばかりか、「救い」を受けることができたのは、イエ
スが自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われたからという「神の愛」を認めず、
わかってもいない、いや、わかろうとしない者の姿である。 神への感謝が少しも感じられない
者の姿である。 1ミナを風呂敷に包んでしまっておいた者と1タラントを地の中に隠した者は、
主人の「ことば」「不忠実」というだけでなく、主人に対して「悪意」を持って主人を「非難」して
いる。 また、自分の身をかばうために、非難しながら言い訳をしている。 すると、そのような
者は、その1タラント、1ミナさえ取り上げられてしまう。 1タラント預かっていて、主に寄りすがら
なかった者、すなわち使わなかった者は、外の暗やみに追い出されると書かれている。 「救
い」「信仰」が取り上げられるということは、「天の御国」に入れないということかもしれない。 
ちなみに、暗闇の王は「サタン」である。
 
「キリストの救い」「キリストの信仰」は、「神の恵み」である。 「神の恵み」は閉じ込められる
ものではない。 隠されるものではない。 光が周りを照らすように、「神の恵み」は広がってい
くべきものである。 だから自分に与えられた1タラント、1ミナだけを守っていけばよいというの
ではない。 キリストの体、すなわち神が建て上げようとされている教会は、一人だけでは成り
立つものではないからだ。 だからと言って、どんな教会でもいいから所属するべきだとは思わ
れない。 終末に入ると、むしろ主がの喜ばれない、聖霊の働かれない教会から出て来ること
は、主のみこころと思われるからだ。(民数記35:25-28) イエスは「わたしはこの岩の上にわ
たしの教会を建てる。(マタイ16:18)」と言われた。 すなわち、真に主に従っている弟子の上
に、主イエスご自身が、ご自身のからだなる教会を建てられるということである。 今後、それ
がどのようなかたちであるのかが、見えてくるのではないだろうか。 そのような時代に突入し
ていくのであろう。 
 
また、それぞれ5タラント儲けた者、2タラント儲けた者、10ミナ、5ミナ儲けた者は、「忠実」であ
ること、主に従って仕えることを、大それたこととは思わず、むしろ「ほんの小さな事」、当然の
こととして捉えていたと思われる。 「タラントのたとえ」に続いて書かれていることだが、神の御
国が始まる前に、すべての国々の民がイエスの御前に集められ、永遠の命に入る羊と永遠の
刑罰に入る山羊に分けられる。 そのとき永遠の命に入る者たちに、主は、「あなたがたは、
わたしが空腹であったとき、わたしに食べる物を与え、・・・・わたしが牢にいたとき、わたしをた
ずねてくれたからです。」と言われた。 すると、永遠の命に入る者たちは、「主よ。いつ、私た
ちは、あなたが空腹なのを見て、食べる物を差し上げ、渇いておられるのを見て、飲ませてあ
げましたか。・・・(マタイ25:31-46)」と言った。 彼らは、日々の生活の中で、主に寄りすがっ
て、聖霊の導きによって生きていたが、それを主が見ておられたのである。 決して、この世が
褒める「善」をしたわけではない。 ただ聖霊の導きに従って生きてきたのである。 だから当
然のことを行なったと思っていた。 儲けた者たちは、その者たちと同じような謙遜を身に着け
ていた者である。 そして、そのような者が、ますます与えられて豊かになる。 
 
我々は知っておかなければならないことは、「神の恵み」は失うことがあるということだ。 ま
た、すべてではなくても、「神の恵み」が他へ「移されて」、減ってしまうということもあり得る。 
そして、そうなるのは、ひとえに「不忠実」、「怠惰」、「不信仰」、「反抗」、「神への愛がない」、
「神への感謝の欠乏」、「非難」、「つぶやき」、「ひがみ」、「傲慢」、「強欲」・・・などの「思い」
心の奥に潜んでいるからだ。 だから、神は1タラント、1ミナを与えた者、すなわち「神の子」
訓練試練を通らせる。 我々の自我が砕かれたり、肉(生まれながらの性質)が切り取られた
りすることは、「神の愛」からであることを知っておきたいものである。 また、5タラント、2タラン
ト、10ミナ、5ミナを儲けるために体験してきた様々な困難、苦難、苦しさ、中傷、・・・など主は
すべてご存知で知っていてくださることも、「神のあわれみ」であり、「神の恵み」である。 確か
に5タラント、10ミナ儲けるには、相当の苦労があったと思われる。 相当の痛みもあるだろう。 
その深い苦労に主は報いてくださる方であることが、1タラント、1ミナが、10タラント、10ミナ持っ
ている者に与えられたことでよくわかる。 主に忠実に仕えていこうとする者の苦難や困難だけ
でなく、生きてきた過程の中で起こる事柄の何一つ、主は無駄になさらず益にしてくださるので
ある。(Tコリント15:58、ローマ8:28)  
 
とにかく、今はまだ神の方が、ひとりも滅びることがないようにながく忍耐しておられるのだ
から、我々は、あきらめずにしっかりと、自分の内の「罪」「肉」「自我」に向かい合って、主
が示してくださることを素直に認めて、清めていただきたいものである。 「不忠実」、「怠惰」、
「不信仰」、・・・などに血を流すまで抵抗して、主が喜ばれる者に整えられたいものである。 そ
して、自分に与えられている「タラント」、「ミナ」を隠すのではなく、「神の恵み」が、恵みから恵
みへと、「救い」が、救いから救いへと広がって行くようにしていただきたいものである。
 
★新約聖書 エペソ人への手紙 2:8
   あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出
   たことではなく、神からの賜物です。



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