めんどり聖書研究会/めんどり通信

めんどり通信/2005年10月23日。主が復活された記念すべき日曜日です! ハレルヤ!

★新約聖書 第一テモテへの手紙 2:4〜6
   神は、すべての人が救われて、真理を知るようになるのを望んでおられます。
   神は唯一です。また、神と人との間の仲介者も唯一であって、それは人としてのキリスト・
   イエスです。
   キリストは、すべての人の贖いの代価として、ご自身をお与えになりました。これが時至っ
   てなされたあかしなのです。

●マタイの福音書18章に、王がそのしもべたちと清算をした時の話しがたとえとして書かれて
いる。 1万タラント(現在の6兆円)の借りのあるしもべが、返済できなくて、主人の前にひれ伏
して『どうかご猶予(ゆうよ)ください。・・・・』と言うと、しもべの主人は、かわいそうに思って、彼
を赦し、借金を免除してやった。 ところが解放されたそのしもべが、百デナリ(現在の百万円)
を貸していた同じしもべ仲間に出会った。 すると、彼はその人をつかまえ、首を絞めて、借金
を返すように迫った。 「もう少し、待ってくれ。そうしたら返すから。」と頼む彼を、牢(ろう)に投
げ入れた。 その事の成り行きを見た仲間たちは、その一部始終を主人に話した。 王は彼を
呼びつけて「・・おまえがあんなに頼んだからこそ借金全部を赦してやったのだ。・・仲間をあわ
れんでやるべきではないか。」こういう話しである。

★新約聖書 ヘブル人への手紙 9:27
   そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように、

★新約聖書 ローマ人への手紙 14:12
   こういうわけですから、私たちは、おのおの自分のことを神の御前に申し開きすることに
    なります。

●借金とか、清算とかは、罪をお金の支払いにたとえている。 罪は借金みたいなものである。 
我々人は、必ず王(神)の前で清算の時が来る。 地上での事柄、自分が行なったこと、言っ
たこと、思ったことなど等について、必ず清算の時が来るのである。 

世界中の臨死体験者による統計からはっきりわかったことは、その人の人生が走馬灯のよう
に映し出される。 誰も皆、忘れていた、そんなこと言った? そんなことした? そんなこと
思った? とは言い逃れができないという。 そして、さらにわかったことは、霊魂は、肉体が
終わっても存続すること。 肉体がなくなる(死ぬ)ことは、無になるのでも、何もわからなくな
るのでもないということ。 肉眼で見えるものではない、何か偉大な存在する者がおられると
いうこと。 

罪は、この肉体の命がある間に清算しておかなければ、神の前で裸で立つことになってしまう。
人間には、誰にも見せられないところ、人には、とても言えないことろ、人にはとても言えない弱
いところがある。 旧約聖書では、それを人間の体の部分にたとえて、そこは下着(ももひき)を
はいて隠すべきと書かれている。 祭司は、亜麻布のももひきをはかねばならない。

★旧約聖書 レビ記 6:10
   祭司は亜麻布の衣を着なさい。また亜麻布のももひきをその身にはかなければならな
   い。そして、祭壇の上で火が焼き尽くした全焼のいけにえの脂肪の灰を取り出し、祭壇の
   そばに置きなさい。

★新約聖書 第一ペテロの手紙 2:24
   そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが
   罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いや
   されたのです。

●「亜麻布のももひきをはきなさい」と神は言われるが、そのももひきは、神が用意してくださる
のである。 このももひきは、「義の衣」である。 イエス・キリストは我々の罪をおおうため、十
字架で罪を負い義の衣を用意してくださったのである。 十字架で借金を払ってくださったので
ある。 

もう今や、借金は払われ、醜いところを隠すももひき(衣)は、用意されているのである。 王の
婚姻の席に出られるのは、借金が払われている者で、義の衣を与えられている者だけである。
王の婚姻の席についた者が、クリスチャンの最終目的、ゴールである天の御国にはいれるの
である。 

 ★旧約聖書 詩篇 32:1,2
   幸いなことよ。そのそむきを赦され、罪をおおわれた人は。
   幸いなことよ。主が、咎をお認めにならない人、心に欺きのないその人は。

●我々は、罪の問題を軽く流してはならない。 罪の問題を解決しないで神の前に出るとたい
へんなことになる。 しかし、主は、悔い改める者を、かわいそうにと赦してくださる。 そして、
神の前に求めていくと、義の衣が与えられていく。 聖霊によって正しいものが与えられていく。

ただ、気をつけなければならないことは、冒頭のしもべのように、一度ゆるされた借金が、また
戻ってくることがある。 人からひどいことを言われる場合、 それは借金。 しかし借金を返せ
とその人の首を絞めることは、自分の赦された借金を自分に戻してしまうことになる。 人の罪
を心からゆるさないなら、天の父も同じようにする。 ゆるすこととゆるされることとはワンセット
である。 

一度、悔い改めてクリスチャンになれば、もう何をしたって大丈夫、ゆるされているんだからな
どと、昨今、多くのキリスト教会でまかり通っている神学、教えにだまされてはいけない。 
我々人は、救われたからと言って、完全になるのではない。 ゆるされた罪人であってもまた
罪を犯してしまう弱さがある。 だから、ゆるされること(悔い改めること)は、一度で終わること
ではない。 だからこそ、絶えず、主イエス・キリストに求め続けていくのである。 祈っていくの
である。 神は、義なる神であられると同時に、愛の神であられる。 愛の神であられると同時
に、義なる神であられる。 

我々の罪をおおってくださり、神の恵みを聖霊にあって与えてくださる主イエス・キリストに頼っ
ていきたいものである。 

★新約聖書 ピリピ 人への手紙 3:20
   けれども、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主としておい
   でになるのを、私たちは待ち望んでいます。