めんどり聖書研究会


めんどり通信/2013年9月1日。主が復活された記念すべき日曜日です!ハレルヤ!
<「死後の行き先」についての思考>



★新約聖書 ヘブル人への手紙 9:27
   そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている
 
★旧約聖書  申命記 30:19
   私は、きょう、あなたがたに対して天と地とを、証人に立てる。私は、いのちと死、祝福と
   のろいを、あなたの前に置く。あなたはいのちを選びなさい。
 
★旧約聖書 伝道者の書 11:5
   あなたは妊婦の胎内の骨々のことと同様、風の道がどのようなものかを知らない。そのよ
   うに、あなたはいっさいを行なわれる神のみわざを知らない。
 
●「死後」「死」について、ある未信者の方々と雑談を交わす機会があった。 一人の人は、
「死んだらそれまでのこと。 それで終わり。 死後のことなど誰にもわからないから。」 もう一
人の人は、仏教などいろいろな宗教の知識や臨死体験についての知識を話された。 「死後
に行き先がある」ことを若干、認めてはいるが結局、死んだことがないのでわからない、完全
に死んで帰ってきた人はいないのでわからないということだった。 この地上の人生をどう生き
るか、どう生きているかというテーマであるなら、実際に見えること、感じること、体験したこと、
多くの人が確実に体験したことと現実味を帯びているのでわかりやすい。 しかし、「死後のこ
と」は、見えないこと、感じないこと、体験したことのないこと、霊に関することなので、わかりづ
らい。 死後ずっと永遠に天国か地獄でその先はどうなるのか、と人の考えられないこと、推測
しかできないこと、想像しづらいこと、すなわち霊の世界のことになると、わからないということ
であろう。 仏教のように、何万年かかっても輪廻転生するという、とてつもないようなことでも、
日本人にとっては、人が推測できる範囲のことであり、ある程度、答えがわかっているというの
でキリスト教よりは受け入れやすいということであるようだ。 
 
我々には「聖書」という「神のことば」が与えられ、実際、2千年前、人の目に見える存在として、
「神のひとり子イエス」がこの地上に来てくださった。 このイエスは30歳になられて公に「キリス
ト(油注がれた者、救い主)」として立たれ、人間の身代わりとなられて十字架で死んでくださっ
た。 そして3日目に、よみがえられて今も生きておられ、人を救うために今なお働いておられ
る。 「イエス・キリストは実在された」という事実を多くの人が認めている。 しかし、この方が
「救い主、主なる神」であられることは、目に見えないこと、「信仰」のことであり、人の頭で理解
できることではない。 この「イエスは主である」という「信仰」は、聖霊によるのでなければ、だ
れも言うことはできないからである。(Tコリント12:3) しかし、人は、自分の頭で理解できない
こと、納得できないことは、なかなか受け入れがたいものである。  
 
結局、何を基準に生きていくかであろう。 人は、この世にある膨大な数の教え、何かの経典、
自然、もしくは、それらから自分が選び出し、自分で納得したものを自分流に解釈して、それを
基準にするのか、「聖書(神のことば)」「聖書の神、主イエス・キリスト」を基準にするのかで
考え方も生き方も違ってくる。 聖書を基準にするとき、本来、すべての人は罪人である。 人
はこの地上生活が終われば、死を迎える。 そして死後、どのような人も皆、神の前に立つ。 
すなわち裁判、裁きの場に立つ。 そして、神の裁きを受ける。 人の見解が入る余地は全く
ない。 聖書的死生観とこの世的死生観は全く違うからである。 神が裁かれるのである。 行
き先は少なくとも天国か地獄かいずれかである。 ただ、「死と死後について」、神にしか分か
らない部分がある。 神の領域というものがある。 基本的には、聖書に書かれている通り、
「もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせ
てくださったと信じるなら、あなたは救われる(ローマ10:9)」である。 天国と地獄はある。 しか
し、誰が天国へ行ったか行くか、誰が地獄へ行ったか行くかは、神のみぞ知る、である。 
我々クリスチャンと言えども、聖書のすべてを知ることはできない。 ほんの少ししか知ってい
ないと思われる。 「死と死後について」も同様である。 人には知り得ない神の領域というもの
があるが、我々が知ることを許されている範囲、主なる神は、求める者には、ご自身のご計
画、御心を教えてくださるだろう。
 
さて、ルカによる福音書16章に、「死後の行き先」について書かれている。 登場人物は、金持
ちと貧乏人ラザロ。 死後、ラザロは御使いたちによりアブラハムのふところ、すなわち天の御
国へ連れて行かれ、金持ちはハデス、炎の中で苦しみ、「ラザロが指先を水に浸して私の舌を
冷やすように、ラザロをよこしてください」と願うも、天国と地獄の間には、大きな淵(ふち)があ
り、互いに行き来することができないということであった。 金持ち、貧乏人とは、単にお金があ
るないということだけでなく、才能や賜物を持っているか持っていないかということをあらわして
いる。 金持ちの場合、何も神に頼らなくても、自力で十分、事を成しえることができる者をあら
わす。 自力で成功すれば、当然、その栄光はその人のものである。 神に栄光を返して神の
前にへりくだるということをしないであろう。 誉(ほま)れも賞賛もその人が受ける。 貧乏人ラ
ザロの場合、全身おできができている、すなわち自分では何もできない弱さがあり、神に頼ら
なければならない状態をあらわしている。 いずれにしても、人の「死後には行き先がある」こと
を、ここで主は語られた。 このことは、人が信じ受け入れるかどうかは、その人自身に任され
ている。 人には自由意志が与えられているからである。 ただ、人が信じる信じないに関係な
く、聖書に書かれている通りになる、と著者は信じている。 
 
著者の体験。 思春期の頃(救われる前)、「死」について考えた。 考えれば考えるほど「死」
が恐くなった。 死後の行き先がわからなかったからである。 「死後の行き先」について、その
「答え」を求めて追求を始めた。 講演会で話を聞いたり、本を読んだり、考えたり・・・等々。 
「答え」が見つからないので、挙句の果て 占い、霊媒へと心の赴くまま出かけて行った。 人
によって、言うことが違うので、信用できず、本を読み自分でも占い統計を取ったりと知らな
かったとはいえ、神の忌み嫌われることを繰り返していた。 当然、「答え」は得られないばかり
か、心の奥は満たされず苦しんだ。 占い師か霊媒師の中の一人が言ったことば、「あなたの
先祖には白装束の人(神事に携わった人?)がいる。 先祖があなたの肩にかかっている」が
妙に心に引っかかった。 その後、「答え」を求めるだけでなく、「先祖が浮かばれたら、自分も
幸せになれる(心が満たされる)」と思い、写経、様々な方法での先祖供養、八十八箇所巡り、
高野山参り・・・。 よくぞ、主はこのような著者に対して、忍耐をしてくださり、救ってくださった
ものだと心から感謝している。 
 
そんな著者が、初めて連れて行ってもらったキリスト教会で聖霊に触れられた。 牧師の話し
の一言も覚えていないが、聖霊に触れられた感覚だけは鮮明に覚えている。 それから、言葉
ではうまく表現できないが、「死後の行き先」についての「答え」を少し見出せた。 またその5年
後くらいに、「答え」は明確になり、確信となった。 あの飢え乾いていた苦しみから解放され
た。 それから、いろいろな体験を通り、聖霊に触れられて20年経った頃、心の深いところから
願いが出てきた。 「自分の寿命が終わったとき、『答えを下さった』主イエス・キリスト様のに
こっと微笑まれたお顔をはっきりと見たいこと、その御前でお顔を拝すること、『よくやった』と主
からのお褒めのことばをいただきたいこと」である。 今、思うに、これらの願いは、主がくだ
さったものだということである。 本当に、主に感謝である。
 
いずれにしても、イエス・キリストを信じた真のクリスチャンであるならば、自分が死んだときの
裁きのこと、死後の行き先に焦点を定めることは大切である。 真のクリスチャンにとって、天
の御国がゴールであるからだ。 また、未信者の方々もあやふやな世の中だからこそ、「死後
の行き先」のことは、空想話や作り話ではなく、「真実」であることを認めて、自分の死後への
行き先を考えてみてはどうだろうか。 「神はまた人の心に永遠を思う思いを授けられた(伝道
者の書3:11)」と書かれている。 人の本音を探れば、「死後の行き先」について案外気になっ
ている思いがあるのではないだろうか。 とにかく、永遠のいのちを獲得していくために祈り、
聖書を読み、クリスチャンとして神の喜ばれる生き方をしていき、この地上生活を心の底から
有意義に過ごし、神が定めておられるこの体の寿命が尽きる時が来たならば、真の天の御国
へとたどり着きたいものである。
 
★旧約聖書   詩篇   25:12
       主を恐れる人は、だれか。主はその人に選ぶべき道を教えられる。
 
★旧約聖書(口語訳)  出エジプト記  20:6
        わたしを愛し、わたしの戒めを守るものには、恵みを施して、千代に至るであろう。
 
★旧約聖書 詩篇 92:5
 主よ。あなたのみわざはなんと大きいことでしょう。あなたの御計らいは、いとも深いのです。



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