めんどり聖書研究会


めんどり通信/2012年3月4日。主が復活された記念すべき日曜日です!ハレルヤ!
<神の領域、死後>




★旧約聖書 伝道者の書 3:11
   神のなさることは、すべて時にかなって美しい。神はまた、人の心に永遠への思いを与え
   られた。しかし、人は、神が行なわれるみわざを、初めから終わりまで見きわめることが
   できない。

★新約聖書 ローマへの手紙 12:3
   ・・・だれでも、思うべき限度を越えて思い上がってはいけません。いや、むしろ、神がおの
   おのに分け与えてくださった信仰の量りに応じて、慎み深い考え方をしなさい。

●「人は必ず死ぬ」ということについては誰もが認めるところである。 しかし、「死後」とか「死
後の世界」についてはいろいろな意見がある。 死後の世界については、だれも実際に行った
ことがないので分からない。 臨死体験者であっても、死後の世界の一部を見たかもしれない
が、完全に死んで死後の世界を全部、見て体験してきたわけではないので、すべてを知るこ
とは不可能である。 死後の世界は生きている人間にとっては未知の世界と言えよう。 だか
ら、いろいろな人間の推測や考えが起きてくる。

人は何事もなく暮らしているときには、「死、死後」を意識しなくても、病気や困難、苦難などに
出くわした時、「死んだらどうなるのか」との思いがよぎることがある。 死後のことについて、多
くの人は漠然としていて、答えが出ないまま、いつの間にか取り立てて関心を持たず日々の生
活をしていくということが多いと思われる。 中には死の恐怖を和らげようと宗教に入ったり、調
べたりする人もいる。 かく言う著者も病気をしたわけでもなく苦難や困難があったわけではな
いが、学生時代から、「死んだらどうなるのか?どこへ行くのか?」ということが気になり、真剣
にその答えを求めて仏教修行じみたことをしたり、講和を聞いたり、本を読んだり・・・など時間
とお金をかけた。 しかし、明確な答えは得られなかった。 

そんなとき、キリストに出会った。 そして初めて、「死の恐怖」から解放された。 30年前のこと
である。 そして、信仰を成長させていただき、成長すればするほど、ますます「天国」と「地獄」
が「本当にあるんだ!」と心底、そう思えるようになった。 聖書に登場してくるアブラハム、イ
サク、ヤコブ、ヨセフ、ダビデ他多くの神を真に信じる者たちは、この地上で生きる上での本当
の目的地は、後の世界と心が定まっていたが、著者も同様である。(ヘブル11章)

聖書には、人間が行くべく究極の場所として、「天国」と「地獄」(火の池)があること(ルカ16
章)
、アダムとエバ以来のすべての人は、罪を犯したので、永遠の滅び(地獄)に行くべき存在
であったこと(ローマ3:23)、どのような人も神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力
と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められる
のであって、
に弁解の余地はないということ(ローマ1:20)人間には、一度死ぬことと死後
にさばきを受けることが定まっている
こと(ヘブル9:27)、など書かれている。 

また、神が私たちを愛してくださって、御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のい
のちを持つため、御子を遣わされ
たこと(Tヨハネ4:10、ヨハネ福3:16、17章)、口でイエスを
主と告白し、心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、救われる
こと(ローマ10:9)、など書かれている。 要は、救われるため、基本的には「主イエスを信じる
」ことである。 また自分は罪人だと認め、悔い改めること、主イエス・キリストは我々の罪のた
めに十字架にかかられ、3日目によみがえられて今も生きておられることを信じること、自分の
主として受け入れることである。 その通りである。

20年以上も前のこと。 伝道した若い女性が「私のやさしかった兄は死んだ。そのとき神はい
ないと思った。 今、キリストを受け入れて、自分だけ救われて・・・そんなことはできない。兄は
どうなったのか、答えてほしい」と言った。 当時、著者は「わたしを愛し、わたしの戒めを守る
ものには、恵みを施して、千代に至るであろう。(出20:6)
というみことばがある。「千代」は子孫
だけでなく先祖も入っている。だからまずあなたが救われることが肝心・・・・」などと話したと思
うが、それらのことばが相手の心に入っていかなかった。 そのことがずっと気になっていた。

著者がなぜ、その女性の心に福音のことばを受け取らせることができなかったのかの原因、
理由は明確には分からない。 その人は主が救おうとしておられる人ではなかった?、その人
にとってその時が救われる「時」でなかった?、・・・などの可能性はあるが、救われ信仰に堅く
立って間もない頃だった著者自身の問題もあったかと思う。 その後、主からの様々な経験、
体験による訓練、試練を通って自我が砕かれ、肉が切り取られ、死後のことについても「分か
らないことは分からない」「確信を持っていることはキリストにあって確信を持つ」と自分の信仰
のスタンスを明確に持ち出した。 もしかしたら今の著者が、語っていたならば無下に拒否され
ることはなかったのかもしれない。 彼女は求めていた部分があったので何か違っていたかも
しれない。 しかし、そのような著者の伝道のまずささえ主は許してくださったと思う。 「語る
者」がどうなのか、どういう者が語るのか、ということが結構、重要であることを痛感し、いよい
よ清めを祈ったものだ。 数年前、思い出したので、その人のことを主にゆだねた。 

最近、思う。 「死と死後」の問題は、非常に厳粛なことがらである。 「死と死後」に関すること
の多くは神の領域ではないだろうかと。 人は神から個人的に知らされたなら、恐れをもって受
けたらよいが、推測や思い込み、考え、肉の感情などで神の領域を超えることがないように気
をつけなければならないのではないだろうかと。 わからないことは分からないで置いておき、
主にゆだねて主が教えてくださるまで待つべきではないだろうかと・・・などと思う。 

我々は、主が示された道を歩み、祈り求めていくうちに、神の領域だったと思われることも、主
が良しとされるなら、一つ一つ開かれ、教えられるだろう。 一人一人、天国へ行ったか地獄へ
行ったかを、正確に知っておられるのは神である。 これも神の領域である。 確かなことは、
死後の世界は無ではなく、明確に二つの世界「天国と地獄(火の池)」があるということだ。 そ
れを信じるか信じないかは自由だが、死ぬ間際になって、「しまった」と思わないようにしておく
ことは賢い生き方ではないだろうか。 日本には、お盆、彼岸、葬儀、法事、・・・などの行事が
多々あるが、そういうときを、真剣に自分の死後の行き先を考えてみる機会にしたいもので
ある。

いずれにしても日々、絶えず、主イエス・キリストから目を離さず、主に尋ねること、いつも祈る
こと、神に依り頼むことをしていきたいものである。 また、神のことばと信じて聖書を読み、聖
霊の流れに乗っていきたいものである。 主は生きておられる。

★新約聖書 黙示録 1:5
   ・・・イエス・キリストは私たちを愛して、その血によって私たちを罪から解き放ち

★旧約聖書 伝道者の書 11:5
   あなたは妊婦の胎内の骨々のことと同様、風の道がどのようなものかを知らない。そのよ
   うに、あなたはいっさいを行なわれる神のみわざを知らない。




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