めんどり通信/2017年8月27日(日曜日)主が復活された記念すべき日曜日です!ハレルヤ! <分け隔てをされない神のいやしを受ける側の人に違いがあることについての思考> |
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★新約聖書 ガラテヤ人への手紙 2:6
・・・神は人を分け隔てなさいません。・・・
★新約聖書 ヨハネの黙示録 2:29
・・こうしてすべての教会は、わたしが人の心の奥底までも探り知る者であることを悟るで
あろう。そしてわたしは、あなたがたひとりびとりのわざに応じて報いよう。
●四福音書には、イエスがなさった奇跡的なわざが多く書かれている。 ヨハネは、「イエスの
なさったことをもしいちいち書きつけるならば、世界もその書かれた文書を収めきれないであろ
う。」と言っている。(ヨハネ福21:25) その中でも人のいやしや悪霊からの解放は人々に深い
安心と慰めを与えることとなった。 人のその後の人生に大きな影響を与えた。 あらゆる病
気や汚れた霊に悩まされていた多くの人々が、イエスによって、いやされた。 イエスの内から
出て、みんなの者がいやされたので、群衆はイエスにさわろうと努めた。(ルカ6:9) らい病、
中風、長血、水腫、高熱などで苦しんでいる人がいやされた。(マルコ1:40-45、2:3、ルカ1
7:11-19、14:2-4他) また、盲人は目が見えるようになり、耳が聞えず口のきけない人は、
耳が聞こえるようになり、ものをいうことができるようになった。
ただ、多くの人がイエスによって癒されたが、これらの人が、いやされた後の態度、行動、変化
はどうであっただろうか。 イエスが十字架にかけられる前、エルサレムに入城されたとき、多
くの人たち、群衆は、「ホサナ、主の御名によってきたる者に、祝福あれ。」と喜んでイエスをお
迎えした。 しかし、その舌の根の乾かぬうちに、イエスに傾注していた人々、群集は、パリサ
イ人たちの扇動にのせられ、「十字架につけろ。」と叫んだ。 その中には、イエスに病を治し
てもらったり、その奇跡を目撃して神をほめ称えた者もいたであろう。
また、いやされた時、イエスから「・・・」と命じられても、そのことばに従わなかった者たちもい
た。 ひとりのらい病人は、いやされたとき、イエスが、彼をきびしく戒めて、「何も人に話さない
ように、注意しなさい。・・・」と言われ、すぐにそこを去らせたが、彼は出て行って、自分の身に
起ったことを盛んに語り、また言いひろめはじめた。(マルコ1:40-45) いやされた二人の盲人
に、イエスは「だれにも知れないように気をつけなさい」と言われたが、彼らは出て行って、その
地方全体にイエスのことを言いひろめた。(マタイ 9:27-31)
ベテスダの池で38年間、病気で苦しんでいた人の場合。 いやされた後、イエスに会い「あなた
はよくなった。もう罪を犯してはいけない。何かもっと悪いことが、あなたの身に起るかも知れな
いから。」と言われたが、その「イエスのことば」を聞き捨てにして、ユダヤ人に、自分をいやし
たのはイエスだと告げに行った。 その人は、安息日にいやしを受けたが、それは自分のせい
ではないと自分を守り、矛先をイエスに向けた行動であった。 この人も「十字架につけろ。」と
叫んだ人々の中にいたかもしれない。(めんどり通信/2011年12月18日。/めんどり通信/2016
年9月11日。参照)
ガリラヤの海べで、人々が、耳が聞えず口のきけない人を癒してほしいとイエスのところに連
れてきたが、イエスは、彼ひとりを群衆の中から連れ出し、その両耳に指をさし入れ、それか
ら、つばきでその舌を潤し、天を仰いでため息をつき、その人に「エパタ(開けよ)」と言われ、
その期待通り、彼をいやされた。 イエスは、この事を「だれにも言ってはならぬ」と、人々に口
止めをされたが、口止めをすればするほど、かえって、ますます言いひろめた。(マルコ7:32-3
7) 彼らもまた、「十字架につけろ。」と叫んだ人々の中にいたかもしれない。
一方、生まれつきの盲人が、「シロアム(つかわされた者、の意)の池に行って洗いなさい。」と
言われ、そこで彼は「ことば」通り行って洗い、見えるようになって、帰って行った。 この人も、
いやされたのが安息日であったので、ユダヤ人たちは親を呼んで誰がいやしたのかを問い詰
めた。 彼の両親は、もしイエスをキリストと告白する者があれば、会堂から追い出すことに、
ユダヤ人たちが既に決めていたので、追い出されることを恐れて、息子に聞いてくださいと自
分たちの身をかばった。 しかし、いやされた息子は、癒してくれたのがイエスと知らないときに
も、自分をいやしてくれたのは、神からきた人であると堂々と宣言した。 結果、彼はユダヤ人
たちから外へ追い出された。 すなわち、ユダヤ人社会から追い出された。 しかし、追い出さ
れた後、イエスがご自身のことを告げると、彼は「主よ、信じます」と言って、イエスを拝した。
(ヨハネ9:1-38)
また、エリコでこじきをしていた盲人バルティマイは、いやされるとすぐさまイエスに従って行っ
た。(マルコ10:46-52) 12年間も長血をわずらっていた女は、いやされたとき、恐れおのの
きながら進み出て、みまえにひれ伏して、すべてありのままを申し上げた。 要は、心からへり
くだったのである。 すると、イエスから「娘よ、あなたの信仰があなたを救ったのです。安心し
て行きなさい。すっかりなおって、達者でいなさい。」とことばを頂いた。
墓場に住んでいた悪霊につかれた男の場合は、いやされたとき、まず発した言葉は「(イエス
の)お供をしたい。」だった。 彼は、そのことを「しきりに願った」。 イエスは、「あなたの家族
のもとに帰って、主がどんなに大きなことをしてくださったか、またどんなにあわれんでくださっ
たか、それを知らせなさい。」と言われた。 「あなたの家族」ということばは、原語では「あなた
の人々」となっており、一般的にいう家族だけでなく、自分に属する人々、という意味があるとい
う。 それで、彼は、イエスの言われたことばに従い、自分にイエスがしてくださったことを、こと
ごとくデカポリスの地方に言いひろめ出した、ということである。(めんどり通信/2013年1月27
このように見てみると、いやされた後、いやされた者の行動や態度などに違いが出てくる。 当
然、いやす側の神には何の問題もない。 神は分け隔てをなさらない。 病のいやしや悪霊か
らの解放においても求めてくる者を癒され解放された。 時には、当の本人は悪霊にがんじが
らめで求めることすら難しい状態の者でも、その人に対しての神のご計画があると主の方から
近づいて下さり、一方的な神のあわれみにより、いやしてくださった。 主が目を開かれる時、
つんぼを直される時、霊の目、霊の耳も開かれているのではないかと思う。 主がなさる癒し
は、どの人に対しても完全であるからだ。 分け隔てはない。
ただ、基本的に神は分け隔てをされないが、区分はある。 弟子と群衆の区分である。 イエ
スは、みもとに集まってきた群衆に、種まきのたとえを語られた。 イエスは舟に乗ってすわら
れ、大勢の群衆はみな岸に立っていた。 たとえを語られた後、近寄ってきた弟子たちに、言
われたことは、弟子たちには天の御国の奥義を知ることが許されているが、群衆には、その奥
義を知ることが許されていないということである。(マタイ13:10,11) しかし、神は弟子であっ
ても群衆であっても、いやしについて、分け隔てをなさらない。 主は、群衆を見て、かわいそう
にと思ってくださるあわれみ深い方である。
だから、問題は、癒しを受ける側が どこまでのことを求めているかどうかかもしれない。 体
の目、体の耳と同様、心(霊)の目、心(霊)の耳も開かれることを望んでいるのかどうか。 そ
うは言っても、多くの人は、霊のことを知らないし、霊のことをわかっていない。 だから、霊の
目を開いてほしい、霊の耳を聞こえるようにしてほしいという願いそのものを持つことができな
いであろう。 しかし、いやされた後、すぐに主イエスに従うことができるのは、ある程度、霊の
目、霊の耳が開かれているからだと思われる。
こういうふうに考えてみると、やはり、当の本人も知らない「本心」が、主に従うか自分の思いを
最優先するかのどちらかであり、その「本心」からの行動なり、言動なりになるのではないかと
思う。 自分は本当のところ何を求めているのか。 主のために仕えたい、主のために生きた
い、主のために働きたいと願うクリスチャンが多いと思うが、実際のところはどうなのだろうか、
と自問自答することも必要かもしれない。 表面上の思いが自分の本当の思いと勘違いしてい
るキリスト者も多いことは事実だからである。 我々人には、心の奥に、その人の本当の「本
心」、「本音」、また「本性」がある。 案外、当の本人は、その自分の心の奥底にある、「本
心」、「本音」、「本性」に気づいていない場合もある。
「主と主のことば」は、隠されているものを明らかにする。 その人自身もそれまでに気づいて
いなかった本音、本心がさらけ出されるが、ある意味、いやしを受け入れることも、心の奥底に
ある「本心」、「本音」を明らかにするかもしれない。 人の心は奥深く、まだまだ見えていない
部分はたくさんある。 それらは主に示していただかなければ、気づかないし、わからないこと
が多い。 自分の本音、本心に気づかずに、神のみこころに沿わない方向へ向かっているとい
うこともあり得る。(めんどり通信/2017年2月19日。/2011年7月24日。参照)
いずれにしても、我々は、主に触れられた時、それを跳ね返す者ではなく、へりくだって素直に
受ける者でありたいものだ。 我々は、心の底から聖められたいものである。 そのためにも、
自分の願望や考えに固執せず、主イエス・キリストから目を離さず、キリストとの交わりを深くし
ていき、主に心から感謝しつつ、正しい聖霊の流れに乗っていきたいものである。
★旧約聖書 詩篇 19:14
わが岩、わがあがないぬしなる主よ、どうか、わたしの口の言葉と、心の思いが/あなた
の前に喜ばれますように。
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