めんどり聖書研究会


めんどり通信/2011年2月13日。主が復活された記念すべき日曜日です! ハレルヤ!
<神は、病があるないにかかわらず、心の奥を見ておられる>


★旧約聖書 Tサムエル記 16:7
   ・・・・人はうわべを見るが、主は心を見る。

★旧約聖書   詩篇 139:1、2
   主よ。あなたは私を探り、私を知っておられます。あなたこそは私のすわるのも、立つの
   も知ってお  られ、私の思いを遠くから読み取られます。

●聖書を見るなら、身体の病や精神的な病も含め、病がいやされることは神の御心である。 
主に仕えて行くのに妨げるものが、主が見られたら「病」と言われるのかもしれない。 中には
身体の病があっても主に仕えていくのに(特に主の働きをしていくのに)妨げとなっていない人
たちがいるからだ。 一生のほとんどが病気であった三浦綾子さん、3重苦だったヘレン・ケ
ラー、他にもおられるだろう。 パウロもそうである。(Uコリント12章、Uテモテ4:8) ただ、精
神的な病があっても主に仕えていく、主の働きをするのに妨げとなっていない人たちもいるの
だろうか? 

さて、悪霊を追い出した箇所を追って読んでいくうちに考えさせられることがあった。 一つは
タイ8章、マルコ5章、ルカ8章
に記載されている。 あらすじはこうである。 ガリラヤ湖の東側
にあるガダラ地方(ゲラサ地方)で悪霊につかれている男がイエスに出会った。 彼は、長い間
着物も着けず、家には住まないで、墓場に住んでいた。 彼は鎖や足かせでつながれて看視さ
れていたが、それでもそれらを断ち切っては悪霊によって荒野に追いやられていた。 
イエス
「汚れた霊よ。この人から出て行け。」と命じられるとレギオンと名乗る悪霊どもは、この地
から追い出さないよう、むしろ豚の中に入らせてくれるよう願った。 願いが許され、悪霊ども
は豚の中に乗り移った。 すると豚どもは、がけを駆け下って湖に入り、溺れ死んだ。 

飼っていた者たちは、この出来事を見て逃げ出し、町や村々でこの事を告げ知らせた。 する
と人々が、この出来事を見に来て、イエスのそばに来たところ、イエスの足もとに、悪霊の去っ
た男が着物を着て、正気に返って、すわっていた。 人々は恐ろしくなり、イエスに
この地方か
ら出て行ってくれるよう願った。 正気になった人は、お供をしたいとしきりに願ったが、イエス
「家に帰って、神があなたにどんなに大きなことをしてくださったかを、話して聞かせなさ
い。」
と言って彼を帰された。 彼はイエスが自分にどんなに大きなことをしてくださったかを、デ
カポリスの地方で言い広め始めた
、ということである。 

もう一つは、マルコ1:21〜28、ルカ4:31〜37にある。 イエスが安息日に教えをされたとき、そ
の場に汚れた悪霊につかれた人がいて、大声でわめいていた。 イエスが、「黙れ。この人か
ら出て行け。」
と言われると、その汚れた霊はその人をひきつけさせ、大声をあげて、その人
から出て行き、その人には何の害もなかった。 そしてイエスのうわさは、回りの地方の至る所
に広まった
、ということである。

この2つの出来事は、何かある意味、対照的な感じを受けた。 当時、豚はモーセの律法から
すると汚れた動物とされていた(レビ記11:7)ので、豚を飼っていたこのガダラ地方(ゲラサ地
方)は、異邦人の地であった。 またこの人が言い広めたデカポリスは、住民の大半はギリ
シャ人であり、ユダヤ人にとっては異邦人の地域だった。 

墓場に住んでいた人は、たとえとして見たとき、彼は教会(家)には行っておらず、主の贖いの
義の衣(着物)を着ていなかった。 すなわち真の救いを得ていなかった。 そして、ゲラサ地
方の人たちは奇蹟を見ても神を賛美するのではなく、イエスを追い出した。 主イエスに対する
この態度、それは今も昔も変わらないこの世の有り様である。

しかし、イエスはユダヤ人が避けていた地方へ来られ、悪霊につかれていた人を憐れに思い、
この人から悪霊を追い出され、使命を与えられた。 この人を、神の憐れみと恵みによって救
われたことをデカポリス中の人々に宣べ伝えるという、キリストの弟子として生きることができる
ようにされた。

一方、汚れた悪霊につかれた人は、安息日に会堂の中にいた。 今日でいうなら教会の礼拝
に出席していたということであろう。 イエスのおられる教会の中に悪霊など留まるべきではな
い。 イエスはこの人からも悪霊を追い出された。 ただ、その後、イエスからこの人への使命
については書かれていない。 もうすでに教会の中にいるから、改めて与えられる必要がな
かったからだろうか? また(会堂にいた)人々はみな驚いて、互いに論じ合って言った。「こ
れはどうだ。権威のある、新しい教えではないか。汚れた霊をさえ戒められる。すると従うの
だ。」
と書かれている。 

この両者を比べると、両者とも意思確認や信仰確認などを求められず悪霊を追い出されてい
る。 すなわち奇蹟が現れている。 しかし、一方は、正気になって、主のお供をしたいとしきり
に願った。 それは、それまで悪霊に脳神経を完全に支配され、意思や感情、思考さえ自由な
選択ができず、混沌と孤独と叫びで人間らしく生きることを取り上げられていた彼の本音、本
心であったと思われる。 

「悪霊によって荒野に追いやられていたのである」という言葉から彼の心の奥底では、悪霊に
同意していたのではなく、むしろ悪霊から、悪霊がもたらしてきた病から解放されたかったこと
が伺える。 「石で自分のからだを傷つけて」平安なわけはない。 苦しみだけだったであろう。 
イエスは彼の悪霊に支配されているところではなく、心のもっと奥、心の奥底をご存知だったの
ではないだろうか。 それで彼がキリストの弟子として生きることができる使命と共に道を与え
られたのではないだろうか。 12弟子のようにイエスにくっついて行くのではなく、パウロのよう
に異邦人のところへ遣わされたのではないだろうか。 どちらもキリストの真の弟子である。 
彼も自分の願いより、主のことばに従い、イエスが自分にどんなに大きなことをしてくださった
かを、デカポリスの地方で言い広めた。 
ちなみに「言い広めた」は説教する言葉と同じギリ
シャ語が使われているという。

もう一方の者は、いやされた後の使命については触れられていない。 安息日に会堂の中に
いたということから見ると、それほど重症ではなかったのかもしれない。 周りの人たちは、全
面的に神を賛美するというより驚きの様子であるが、とにかくイエスのうわさは広まった。

これらのことから、主は人の心の奥底にある思い、本音、本心を見ておられるということであ
る。 たとえ悪霊につかれていても、病で覆われていても、本心が主に対してどうかということで
あろう。 我々の本心が、自分の願望や考えに固執せず、日々の生活の中で、主の主権を認
め、主の前に自分のむなしさを徹底的に知り、神に全面的に委ねていく生き方、すなわち「主
を恐れ、主の御前にへりくだる」ことを徹底していきたいものである。 

★旧約聖書 申命記 32:39
   今、見よ。わたしこそ、それなのだ。わたしのほかに神はいない。わたしは殺し、また生か
   す。わたしは傷つけ、またいやす。・・・

★旧約聖書 詩篇 147:3 主は心の打ち砕かれた者をいやし彼らの傷を包む。




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