めんどり聖書研究会


めんどり通信/2016年9月11日(日曜日)主が復活された記念すべき日曜日です!ハレルヤ!
<悪しき霊につけ込まれること、誘われることについての思考>


★旧約聖書 詩篇 34:18 
   主は心の打ち砕かれた者の近くにおられ、たましいの砕かれた者を救われる。
 
★旧約聖書 箴言 4:23
   力の限り、見張って、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれからわく
 
●イエスは、キリストとして立たれた後、「荒野の誘惑」を受けられた。(マタイ4:1-13) 荒野で
40日間の断食後の空腹の絶頂のとき、サタンからの誘惑を受けられた。 イエスは、聖書のみ
ことばをもって勝利されたが、このサタン、悪しき霊は今も存在する。 聖書に聖霊の奇蹟、不
思議など神の御業が多く書かれているが、悪しき霊の働きも多く書かれている。 この目に見
える世界に生きている我々人間には、信じがたいことかもじれないが、悪魔や悪霊は空想の
産物ではなく、架空の存在でもない。 実在する。
 
厄介なことに、悪しき霊どもは、人間に悪影響を及ぼす。 何か悪いことが起きたりして人を苦
しめる。 その他、思考や感情が操られたり、正常な判断力が失われたり・・・などいろいろな
悪影響を及ぼす。 たとえ、悪霊からそのような悪影響を受けたとしても、その人が天の御国
へ向かって歩むのに道を逸れないならいいのだが、悪しき霊どもは、別の方向へ行かせようと
巧妙に働いてくる。 人を地獄への道連れにしようと躍起になっているからだ。(Tペテロ5:8) 
 
悪魔や悪霊について、いろいろな方向から見て考えていくべきであると思うが、今回は、人が
悪しき霊に付け込まれることについて思考してみる。 「この世の君」「世の支配者」は悪魔で
あり、世界の国々のいっさいの権力と栄光が任されている。(Tヨハネ5:19) だから、この地
上で生きている以上、人は悪しき霊の影響を受け、悪しき霊につけ込まれ誘導されることは、
いつでもどんな人にも起こり得ることである。  
 
悪しき霊の方策は、誰が見ても明らかに「悪である」という分かりやすいことばかりではない。 
むしろ、人が見て、「善」「美徳」と思われるような思想を掲げてくる場合が結構、多いかもしれ
ない。 だから、まんまと騙される者も多い。 もちろん、騙されたと言っても、この世から見て、
皆が皆、悲惨な状態になるというのではない。 そのようになる場合もあるかもしれないが、サ
タンは一人でも多くの者を道連れにしたいから、後々のことを考え、この地上で悲惨な目にあ
わすということは一部の者たちだけかもしれない。 多くの場合、案外、この世からは羨望の目
で見られるような者もいるかもしれない。 しかし、はっきり言えることは、そのようにサタンの
思う壺に入った者たちは、神から遠ざかっているということである。 神に背を向け、神から離
れているということである。 
 
今、救われていない者も、今後救われるため、神が何らかの働きをしてくださって、その人を神
に近づけようとしてくださっている。(Uペテロ3:9) キリストを信じているという者でも、当の本
人が思っているほど神に近づいていない者も多い。 しかし、そのような者たちのためにも主
は働いてくださっているが、人が、悪しき霊に付け込まれてしまい、知らず知らずに神から遠ざ
かっているということがある。 知らず知らずにサタンの誘う道へ進んでいるからだ。 なぜ、人
は、悪しき霊に付け込まれるのか? 悪しき霊に誘われるのか?
 
2つのケースを見てみる。 @人の側に問題があって、悪しき霊に付け込まれる。 A人の側
に特に問題はないが、あえて、神が悪しき霊がつけ込むことを「良し」とされている。 ただ、こ
の場合は、悪しき霊がつけ込むというより、悪しき霊からの攻撃を受けることを神が「良し」とさ
れているという方が適切な言い方かもしれない。
 
@の場合。  罪を犯している者は、もちろんだが、たとえ、罪を犯していなくても、人の心の奥
底にある思いや生まれながらの性質(肉)を、神が見られると問題があるということだ。 すなわ
ち、悪しき霊に付け込まれる要素があるということ。 いわば、砕かれていない自我、肉が問題
であるということだ。
 
Aの場合。 神が見られて、その人には悪しき霊に付け込まれるような要素、すなわち、「思
い」や「考え」、・・などはないが、今後、神がその人を用いるために、あえて悪しき霊の攻撃を
受けさせ、その人が「苦しみを通る」ことを「良し」とされる。 Aのケースの人は、多くはないか
もしれない。 そういう人は、最初の頃、「苦しみを通る」ことで、自我は砕かれ、生まれながら
の性質(肉)は切り取られていく。 だから、その後は、ただただ「苦しみを通る」ことを神はその
人に体験させる。 もちろん、後に現われる神の栄光の為、神の尊いご計画のためにである。 
 
このことを聖書の人物から見てみる。 @の場合に当てはまる人物。 ベテスダの池の回廊
で、38年間病気で伏せっていた人。(ヨハネ福5章) 彼は、イエスによっていやされた。 イエス
の、「あなたはよくなった。もう罪を犯してはなりません。・・・」のことばにより、38年間も病気で
伏せる要因が、この人の罪にあったと思われる。 ただ、この人は、せっかく、神のみわざの
癒しを体験したのだが、病で苦しんでいる間、自我や肉が砕かれることがなかったようである。 
イエスの、「よくなりたいか。」という問いに、素直に「治りたいです。」ではなく、誰も助けてくれな
い、他の人が先に行く、などと、癒されない原因は他の人にあるように言っているからだ。 ま
た、癒してくださった方が、イエスであるとわかっても、主の御前にへりくだるわけではなく、ユ
ダヤ人に、自分をいやしたのはイエスだと告げに行ったからだ。 そこには、ユダヤ人社会か
ら追い出されたくなかった、すなわち、安息日の律法を破ったのは、イエスであって自分ではな
いということで、自分の身を守ろうとした可能性が強い。 
 
@の場合に当てはまる人物。 旧約聖書 民数記22章-24章に登場するバラム。 当時、バラ
ムは、モアブの王バラクからイスラエルをのろうようにとの依頼を受けた。 このときは、主のこ
とばに従い、イスラエルを祝福したが、後に、バラムは、殺された。 彼は、お金、銀や金に対
して盲目となり、モアブの王バラクに助言して、イスラエルの宿営にモアブの娘を起こり込ま
せ、彼らと不品行を行わせ、偶像礼拝の罪を犯させたからだ。 バラムの心の奥にあった「思
い」「願い」が、モアブの王バラクから依頼を受けたときの経緯の中で、見える。(民数記22:4-
35) (めんどり通信/2015年9月13日<すべてをゆだね切った祈りについてバラムから思考>
/2013年5月12日<心の深層部まで清められることの必要性:サウルとバラムから学ぶ>
/2014年4月13日<心の深層部に潜む思い、願いが試されることによって変えられる:バラム
の失敗から学ぶ>を参照)
 
イエスの12使徒だったイスカリオテのユダも@の場合に当てはまる人物と言えよう。 主イエス
のすぐそばで権威ある教えを聞き、奇蹟など神のみわざを見たにも関わらず、彼の心の奥に
は、反感と不満の「思い」を潜ませていた。 だから、イエスを裏切った。 神に用いられたか
ら、ずっと神が「良し」とされているわけではない。(めんどり通信/2008年6月22日<ペテロとイ
スカリオテのユダ>/2013年8月4日<自我が砕かれ肉が切り取られるのに悪霊の影響があっ
たとしても主の御前にへりくだって取り組むことが大切!>を参照) 
 
Aの場合に当てはまる人物。 マグダラのマリヤ。 マグダラのマリヤについて聖書からの情
報は少ない。 七つの悪霊を追い出してもらったこと、十字架に磔(はりつけ)にされたイエスを
最後まで見守ったこと、週の初めの日の早朝、墓に行ったこと、イエスの復活のことを他の弟
子たちに伝えるように御使いから言われたこと、復活の主の顕現を一番最初に受けたことで
ある。(マタイ27、28章、マルコ15、16章、ルカ8:2,24:10、ヨハネ福19,20章) 
 
推測ではあるが、七つの悪霊に憑かれていたとき、相当な苦しみを通ったと思われる。 七つ
の悪霊に憑かれたのが、マリヤの罪や彼女の心の奥底に潜んでいた「思い」「願い」「考え」
どが要因というより、神のご計画の上でのことなのではないかと思われる。 キリスト教の神髄
と言われる「十字架の死と復活」に関わっている。 「復活」があるから、主イエス・キリストを信
じる者の罪は赦され、生きることができるのである。 その「復活」の主に最初にお会いしたと
いうことは、神のご計画の中で重要な役割を担い、重要な位置を占めている。 
 
もちろん、我々すべての人間は、アダムとエバ以来の性質(罪の性質)を受け継いでいるか
ら、マグダラのマリヤも同様である。 しかし、彼女が、相当厳しい苦しみを通ったとき、その
ような自我は砕かれ、肉は切り取られたのではないかと思われる。 そして、ただただ、苦しみ
を通ることで、重要な役割、重要な位置に留まるに、ふさわしい者になったのではないだろう
か。(めんどり通信/2015年4月12日<なぜ、復活の主は最初にマグダラのマリヤに現われた
のか?>/2012年12月16日<復活のイエスを見て、御父と御子イエス・キリストとの交わりをす
る>/2015年11月1日<神が選ばれた者の中には、悪霊の影響を受けて苦しむことが砕かれ
ることになっている者がいる:墓場に住んでいた悪霊につかれた男とマグダラのマリヤから思
考>を参照) 
 
Aの場合に当てはまる人物。 墓場に住んでいた悪霊につかれた男。(マルコ5章、ルカ8章、
マタイ8章) 彼は、悪霊にがんじがらめにされていたので、彼から、主イエスに解放を求めた
わけではないが、彼の心の奥にある真実な叫びを主イエスは聞き取って下さり、解放してくだ
さった。 彼が悪霊にすべて支配されたのは、何が要因だったのかは、わからないが、主の方
から彼のところに来てくださった。 解放されて彼が第一に願ったことは、家族に会うことでもな
く、家に帰ることでもなく、「(イエスの)お供をしたい。」だった。 悪霊に憑かれて、墓場や山で
叫び続け、石で自分のからだを傷つけていた彼は、地獄のような苦しみをする中で、自我は砕
かれ、肉は切り取られて、主が与えてくださる「神の恵み」「信仰」を、しっかりと彼の心の奥、
霊で受け留めたのであろう。 (めんどり通信/2013年1月27日<墓場に住んでいた悪霊につ
かれた男からの学びの中の一つ「願い」>/2015年5月17日<なぜ、心の奥底にあるものが砕
かれ、清められなければならないのかについての思考>を参照)
 
このように見ていくと、いかに自我が砕かれ、肉が切り取られていくことが、重要であるかがわ
かる。 アダムとエバ以来の罪の性質は、神と反対方向へと誘う悪霊に、簡単に乗せられてし
まう。 悪しき霊が強いからである。 悪魔、サタンの目的は、人を神から引き離すこと、人を
神から遠ざけることである。 いずれにしても、真剣に自分の内側のことに取り組んでいくべき
であるということだ。 そして心の奥底に主の喜ばれないもの、悪霊につけ込まれる隠されたも
のがないか主に教えてくださるよう求めていきたいものである。 ますます焦点を「信仰の創
始者であり、完成者であるイエス」に向け、留めていきたいものである。 聖霊が存分に働か
れ、悪霊に付け込まれることがないようにと心から願う。
 
★旧約聖書 詩篇 119:71
苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました。



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