めんどり聖書研究会


めんどり通信/2011年12月18日。主が復活された記念すべき日曜日です! ハレルヤ!
神の御業、神の栄光を褒めたたえる以上に、神ご自身を褒めたたえる



★旧約聖書 詩篇 34:1
   私はあらゆる時に主をほめたたえる。私の口には、いつも、主への賛美がある。

★旧約聖書 詩篇 94:14
 まことに、主は、ご自分の民を見放さず、ご自分のものである民を、お見捨てになりません。

ヨハネによる福音書5章と9章に登場してくる、イエスにいやされた二人の場合を比べてみ
る。 5章では三十八年年もの間、病気にかかっている人がイエスによっていやされたことが書
かれている。 エルサレムには、羊の門の近くに、ヘブル語でベテスダと呼ばれる池があった。 
ここでは大勢の病人が「いやされたい」という気持ちで、水が動くときを待っていた。 水が動い
た時、最初に入った者はどんな病気でもいやされるという言い伝えがあった。 ところが、皮肉
なことに、そこではベテスダ(あわれみの家という意味)という名前とは裏腹な光景、水が動くた
びに我先に水の中へと、人を押しのけ合う修羅場が繰り広げられていたと思われる。 

そこにイエスが来られ38年間も病気で伏せっている人を見られ、「よくなりたいか。」と問われ
た。 彼の答えは、素直に「治りたいです。」ではなく、誰も助けてくれない、他の人が先に行く、
などと何故、自分がよくなることができないかぶつぶつ言った。 彼はいやされたいという病人
たちとの競争で長年のストレスとあきらめの境地に達していたようである。 治りたいのに希望
が持てなくなっていたようである。 

そのような者に対しても主は「起きて、床を取り上げて歩きなさい。」と声を掛けられた。 する
と、その人はすぐに直って、床を取り上げて歩き出した。 
失望の中にいた者が自分の力では
従うことはできない。 しかし、聞き従おうとしたとき、従うことができる力を主が授けてくださっ
たのである。 ところが安息日の律法を破って病人のいやしを行なったことを、ユダヤ人たち
は問題にした。 

いやされた人は、自分をいやしてくださった方がだれであるか知らなかった。 その後、イエス
に会い「あなたはよくなった。もう罪を犯してはなりません。そうでないともっと悪い事があなた
の身に起こるから。」
と言われたが、その「ことば」を聞き捨てにして、ユダヤ人に、自分をいや
したのはイエスだと告げに行った。 事実、告げてからユダヤ人たちは、イエスを迫害した。 
ユダヤ人にイエスのことを告げに行ったということは、ユダヤ人社会から追い出されたくなかっ
た、すなわち、安息日の律法を破ったのは、イエスであって自分ではないということで、自分の
身を守ろうとした可能性が強い。 

確かに、38年という長い間、水が動いたとき、真っ先に入って治りたいと願っても駄目だったが
ゆえに、自分に対しても、人に対しても、失望し、力も失い、信仰を持つことさえ難しかったの
かもしれない。 しかし、自分を守るために、いやされる前も他人のせいにし、いやされてから
も他人のせいにする、という彼の本性は、あわれみ深い神の一方的ないやしのみわざを体験
しても、頑として変わっていない。 

次に、ヨハネによる福音書の9章に書かれている生まれつきの盲人の場合。 彼は生まれつき
の盲人だった。 イエスはこの人に「わたしは世の光です」と言って、地面の泥につばきをして、
それを盲人の目に塗り、シロアム(遣わされた者という意味)の池で洗うよう言った。 その通り
にした彼は見事にいやされ、目が見えるようになった。 そのことを知った回りの人々はみな驚
き、彼をパリサイ人のところに連れて行った。 彼は自分の身に起こったことをそのまま告げ
た。 この日も安息日だった。 それで安息日に働きをする者は神から出ていないと言い張り、
パリサイ人、ユダヤ人たちは、神のみわざを目の当たりに見ても信じなかった。 彼の両親
は、5章の男と同様、ユダヤ社会から追い出されることを恐れ、イエスがキリスト、主であること
を告白しなかった。 

しかし、いやされた人は、イエスという方がだれであるかは知らなかったが、ユダヤ教の会堂、
ユダヤ社会から追放されても毅然としていた。 イエスはその人が追放されたことを知って、
イエスの方が彼を見つけてくださって、ご自身が「主」であられることを示してくださった。 彼
は、最初「イエスという人」と呼んでいたが「預言者」と変わり、そしてついには自分の「主」と信
じてイエスを拝した。

38年間病気だった人と生まれつき盲人だった人、両者とも奇跡的ないやしを体験したが、両者
の違いは、イエスを「主」としたかどうかということであろう。 いやされたとき、第一にいやされ
たこと、いやしに注目するのではなく、いやしてくださった方に注目することが重要である。 も
ちろん、いやしは神のみわざであり神の栄光の現われであるから、当然、注目すべき、褒めた
たえるべきことである。 しかし、それ以上に、そのみわざを現わしてくださった主なる神ご自身
に注目し、褒めたたえるべきである。 それが本当にへりくだった者の姿である。 それが神の
恵みをむだにしないことである。 

主は、一人でも滅びることを望んでおられず、苦しむ者がいやされることを願っておられる。 
だから、ご自身を尋ね求める者、ご自身に頼って来る者を見捨てられない。(詩篇9:10)   し
かし、ともすれば人の方が主なる神を捨てている可能性がある。 いやしのみわざを現わして
くださった方を差し置いて、いやされた自分に注目することは、的がはずれている。 「罪」を表
わす聖書の言葉ギリシャ語で元々の意味は、「的外れ」である。 すなわち、「いやしてくださっ
た主イエス・キリストに注目しない者」は罪を犯していることであるといえる。 イエスがこの男に
言われた「もっと悪いこと」とは「罪を犯す」ことである。 以前よりもっと深刻な主なる神との断
絶であり、永遠のいのちを失う危険性があるということであろう。

とにかく、重要なことは、我々が信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さない
とである。
(ヘブル12:2) 何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全な
ことであるかをわきまえる
ことができるようになるため、日々、へりくだって絶えず祈と願いを
し、どんな時でも御霊によって祈り
、聖書を読み、聖霊の流れに乗っていきたいものである。
(ローマ12:2、エペソ6:18)
 
★新約聖書  ローマ人への手紙 8:3
   肉によって無力になったため、律法にはできなくなっていることを、神はしてくださいまし
   た。神はご自分の御子を、罪のために、罪深い肉と同じような形でお遣わしになり、肉に
   おいて罪を処罰されたのです。

★新約聖書  ローマ人への手紙 1:21
   それゆえ、彼らは神を知っていながら、その神を神としてあがめず、感謝もせず、かえっ
   てその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなりました。





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