めんどり聖書研究会


めんどり通信/2015年5月17日。主が復活された記念すべき日曜日です!ハレルヤ!
<なぜ、心の奥底にあるものが砕かれ、清められなければならないのかについての思考>



★旧約聖書 詩篇 139:1〜4 
   主よ。あなたは私を探り、私を知っておられます。 あなたこそは私のすわるのも、立つの
   も知っておられ、私の思いを遠くから読み取られます。 あなたは私の歩みと私の伏すの
   を見守り、私の道をことごとく知っておられます。 ことばが私の舌にのぼる前に、なんと
   主よ、あなたはそれをことごとく知っておられます。
 
●先週5月10日のめんどり通信「神である主は、人の心、それも『人の心の奥底』を見ておら
れる。(口語訳:黙示録2:23)」と書いた。 事実、主がこの)地上におられたとき、人々に対し
て、人の深層部(心の奥底)にある思い、願い…など、その人が気づいているいないにかかわ
らず「本心」を見られていた。 中風の人がイエスの御前に運び込まれたとき、周りにいた数人
の律法学者が口には出していなかった「心の中の思い」を、イエスご自身の霊の力で見抜いて
指摘されたことが書かれているが、このように主は、常にご自身の霊の力で見抜いておられ
た。(マルコ2:3〜12) 
 
また、レギオンと呼ばれる悪霊どもに取りつかれ墓場で住みついていた人が、イエスによっ
て、悪霊を追い出してもらったということがマルコ5章ルカ8章に記されている。(HPめんどり通
信/2013年1月27日。<墓場に住んでいた悪霊につかれた男からの学びの中の一つ「願い」
>)を参照してほしい。 イエスを見た墓場に住んでいた人は、叫び声をあげ、御前にひれ伏し
て「・・どうか私を苦しめないでください」と大声で言ったと書かれているが、このように言ったの
は悪霊に取りつかれた人ではなく、レギオン(悪霊ども)であった。(ルカ8:28) 
 
このところから わかるように 悪霊が完全にその人の主導権を取っていたこの人に対して、
主は 彼の明確な「意思表示」がなくても、また「信仰」を表明していなくても悪霊どもを追い出し
ておられる。 主は、その人の「心の奥底にある思い、願い、すなわち、その人の本心」を見て
おられたからではないかと思われる。 ということは、神である主は、人の「心の奥底にあるも
の、本当の心」を問題視されているということだ。 
 
この人が何故、悪しき霊に取りつかれたのかは書かれていない。 レビ記などには、様々な神
の戒め、規定が書かれているが、そこからすると豚は「ひづめが分かれており、ひづめが完全
に割れたものであるが、反芻しないので、あなたがたには汚れたものである。」とある。(レビ記
11:3) レギオンが豚の中に入りたいと願ったということで、もしかしたら、この人は、いろいろ
な形、いろいろな方法で語られ示されていたであろう「神のことば」に対して無頓着であったの
かもしれない。 「ゲラサ人」という異邦人の地にいたから、この人も異邦人なのかもしれない
が、それでも神は人間に いろいろな方法でご自身を示しておられる。(ローマ人1:19,20) 
 
または、そういうことではなく、神のご計画があったゆえに、あえて悪しき霊に取りつかれること
を神は許されたのかもしれない。 いずれにしても、悪しき霊に取りつかれる前から持っていた
ものなのか、取りつかれた後に持ったものかは わからないが、この人の「心の奥底にある思
い、願い」が、神の目に留まったことは確かである。 レギオンを追い出してもらったこの人は、
真っ先にイエスのお供をしたいとしきりに願った。(ルカ8:38) いかなる事情があろうとも こ
のときに発せられた言葉は、彼の「心の奥からの素直な意思表示、本心、本音」だったであろ
う。 彼が、このような(神を最優先する)願いをすること、神に対してへりくだることを、主は、ご
存知であったのかもしれない。 主はすべての人の心を知っておられるからである。(U歴代
誌6:30、詩編44:21) 
 
「あなたの家、あなたの家族のところに帰り、主があなたに、どんなに大きなことをしてくださっ
たか、どんなにあわれんでくださったかを、知らせなさい。(マルコ5:19)」とイエスは彼に仰せら
れた。 この「あなたの家族」ということばは、原語では「あなたの人々」となっており、一般的に
いう家族だけでなく、自分に属する人々、という意味があるという。 彼のその後のことは書か
れていないが、彼はイエスのことばに従ったのではないだろうか。 そして、主の良くしてくだ
さったことを忘れることなく、絶えず感謝にあふれ、主への愛をもって歩んでいったのではない
だろうか。(詩篇103:2) 悪しき霊に取りつかれたことさえ、この人にとっては、永遠につながる
ほどのすばらしい益になったということである。
 
また、ルカ9章、マルコ9章、マタイ17章に、子どもがイエスによって悪しき霊から解放されたこと
が記されている。 父親が 息子から悪しき霊を追い出していただくために連れてきたが、ちょ
うどイエスは、ペテロとヨハネとヤコブとを連れて、山に登られており、3人以外の弟子たちや群
衆しかいなかった。 イエスが山から降りて来られたので、父親はイエスにお願いした。 父親
の話しでは、霊は、幼い時から、子どもを火の中水の中へと投げ込んで滅ぼそうとしたという。 
そして、キリストの弟子たちは、子どもから悪霊を追い出すことができなかったという。 それ
で、主にお願いしているが、父親は主を目の前にしても、「ただ、もし、おできになるものなら、
私たちをあわれんで、お助けください。」と言った。 
 
イエスは、その父親の不信仰を責められた。 すぐさま父親は、「信じます。不信仰な私をお助
けください。」と言ったが、この父親は、「群衆のひとり」と書かれている。(マルコ9:17) 群衆
は、天の御国の奥義を知ることが許されておらず、最終的にはイエスを裏切る。(マルコ4:1
1、15:13,14) そのようなことから、主は、父親をあわれんでくださり、息子から霊を追い出して
くださったが、むしろ、父親以上に この子どもを あわれんでおられたのではないだろうか。 
主が、墓場の人のように 主ご自身から この子どもに近寄って行かれたわけではないが、この
子どもは、主に出会うように神の采配があったのではないかと思われる。 主イエス・キリスト
がこの地上におられたとき、主ご自身に関することで偶然など何一つない。 すべては、神の
ご計画の中にあり、神の采配がある。 特に、主にお会いすることにおいては、「わたしを遣わ
した父が引き寄せられないかぎり、だれもわたしのところに来ることはできません。」と主は言
われた。(ヨハネ福6:44)
 
この子どもの場合も、なぜ悪しき霊に取りつかれたのかは書かれていないが、墓場の人も、こ
の子どもも、主は彼らの「心の奥底」を見ておられたのではないだろうか。 悪霊に取りつかれ
ていても彼らの「心の奥底にあるもの(思い、願い、考え・・)」は、主が目を留められるものだっ
たということではないだろうか。 からだも心も悪しき霊の影響を受けていたとしても、「心の奥
底にあるもの(思い、願い、考え・・)」は、神から見られて悪霊と結託しておらず、そういう意味
での悪霊の影響を受けていなかったということである。 
 
その反対がある。 心の表面の方では悪しき霊の影響を受けていなくても「心の奥底にあるも
の(思い、願い、考えなど)」が、肉からのもので それを押し通すために悪しき霊と結託した
り、様々な形で悪しき霊の影響を受けているということがある。 案外、「私の本心は、…です」
と言う当の本人さえ、それを心の表面の方で言っていることに気づいておらず、「心の奥底」
「本当の自分の思い、願い、考えなど」があるということにも気づいていない場合がある。 
 
そのような人は、ある物事に対して、ある人に対して、最初は自分の「心の奥底にあるもの(思
い、願い、考え,、感情など)、すなわち、本当の心」をわかっていた時があるはずだ。 しかし、
ある物事、ある人に対しての肉から来る自分の思いや感情、考えが起こってくるたび、それら
を表面的に解決するも真からの解決ができず、何とか道徳で処理したり、他のことに目を向け
たりしていくうちに、肉からのものを、「心の奥」に仕舞い込むようになる。 最初は意識して「心
の奥」に仕舞い込むが、次第に無意識に、心の奥へ奥へ仕舞い込むようになる。 
 
仕舞い込んだものに触れられると、怒りさえ起こってくることもある。 誰にも表明していなかっ
た自分の「本心(本当の心。真実の気持ち)」を、誰にも知られたくないし、自分でも認めたくな
いからだ。 結局、そのことで仕舞い込んだものは、主が「良しとされないもの」であることを認
めていることになる。 しかし、そのようなもの、「自分(自我)」こそ、砕かれ、清められ、変えら
れなければならないものである。
 
また、厄介なことに「心の奥底」に隠されている肉からの思い、願い、考え、感情などをサタン
や悪しき霊も見ている。 奴らは、そこに働こうと構えている。(Tペテロ5:8) その深層部「心
の奥底」に隠されているものと結託したり、結託しないまでも、それらを足場として働こうとす
る。 悪しき霊がその人に働いたなら、ますます、その人が自分の心の奥底にあるものに気づ
くことができなくなる。 そして、無意識に 肉から出てくる「自分の思い」「自分の願い」「自分の
考え」「自分の計画」…など、それらを押し通したいという「自我」が強くなる。 悪しき霊は、人
心の奥底に仕舞い込んだ肉からの思いや考え、感情を助長させるように働くからだ。 だか
らこそ、「自我」は、砕かれ、心の奥底から清められなければならないのだ。
 
めんどり通信/2015年5月3日に書かれていたビジョンAの御座の前で 薄汚れた服を着て う
なだれていた男の人(クリスチャン)は、主から「わたしはあなたがたを全然知らない。 不法を
なす者ども。 わたしから離れて行け。」と裁きを受けた可能性がある。(マタイ7:23) 彼の地
上での生き方は、マタイ7章22節に記されているように、主の名によって預言をし、主の名に
よって悪霊を追い出し、主の名によって奇蹟をたくさん行なった思われる。 だから、めんど
り通信/2015年5月3日ビジョンBめんどり通信/2015年5月10日の更に詳細なビジョンの通
り、金や宝石みたいな(本物ではない)宝石、装飾品を身にまとっていたのだと思われる。 
 
そのような者に対して、主は「わたしはあなたがたを全然知らない。」と言われるが、「不法をな
す者ども」と更に厳しいことばを言われているのは、「心の奥底にあるもの(思い、願い、考
えなど)」が、悪しき霊と結託していたか、影響を受けていたかであるからだ。 第二テサロニケ
人への手紙2章9節「不法の人の到来は、サタンの働きによるのであって、あらゆる偽りの
力、しるし、不思議がそれに伴い、・・・」と書かれている。 このようにパウロは、「不法」「サタ
ン」とは大いに関係があることを指摘している。
 
主は、何度も何度も、人が悪しき霊の影響から解放されるよう、忍耐をもって何らかのかたち
で、清められるべきところ、砕かれなければならないところを教えておられたはずである。 彼
らに気づくチャンスを大いに与えておられたはずである。 しかし、何度もあったと思われる。 
チャンスを逃してしまったのは、その人の責任である。 真にそのことに取り組んで、主に求め
ていたのであれば、必ず、解放されたであろう。 このことを警告として受け取っておきたい。
 
いずれにしても、「心の奥底」に隠れているかもしれないもの、すなわち、サタンが働き、悪しき
霊に使われるような「思い」「願い」「考え」・・・など浮き彫りにされるようにと願う。 主が「自
我」を砕き、主に従うことができない肉(生まれながらの性質)を切り取ってくださることを願う。 
日々絶えず、主イエス・キリストから目を離さず、主の御前にへりくだって祈り、キリストにとどま
り続けていきたいものである。 
 
★新約聖書 マルコによる福音書 12:30
   心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。
 





めんどり聖書研究会