めんどり聖書研究会


めんどり通信/2015年11月15日。主が復活された記念すべき日曜日です!ハレルヤ!
<「神への愛」が心の奥底に据えられることについての思考>


★旧約聖書 申命記 6:5
   心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。
 
★新約聖書 コリント人への手紙 第一 13:1〜3
  ・・たとい私が預言の賜物を持っており、またあらゆる奥義とあらゆる知識とに通じ、また、
  山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、何の値うちもありません。
 
★新約聖書 コリント人への手紙 第一 13:4〜7、13:13
   愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりま
   せん。 礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、
   不正を喜ばずに真理を喜びます。 すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、
   すべてを耐え忍びます。 こういうわけで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。
   その中で一番すぐれているのは愛です。
 
●主にいやされた後、主から、その癒(いや)しのことを口止めされた人たちのことから思考し
てみる。 マタイによる福音書9章27節〜31節。 あらすじは、こうである。 ふたりの盲人が大
声で、「ダビデの子よ。私たちをあわれんでください。」と叫びながらついて来た。 「わたしにそ
んなことができると信じるのか。」とのイエスの問いかけに、ふたりの盲人は「そうです。主よ。」
と答えた。 イエスは彼らの目にさわって、「あなたがたの信仰のとおりになれ。」と言われる
と、彼らの目があいた。 見えるようになった。 イエスは、彼らをきびしく戒めて、「決してだれ
にも知られないように気をつけなさい。」と言われたが、彼らは出て行って、イエスのことをその
地方全体に言いふらした、ということである。 
 
「ダビデの子」という呼び名は、神がダビデに約束されたことば(Uサムエル7:12,13,16)から、
メシヤ(救い主)の称号 、「キリスト=王=ダビデの子孫」ということを、当時のイスラエル人は
誰もが知っていた。 当時、ガリラヤは「異邦人のガリラヤ」と言われていたように、異邦人の
多いところだったので、このふたりの盲人は、ユダヤ人だったのか異邦人だったのかは わか
らない。 ただ、当時、主イエスに向かって「ダビデの子よ」と呼びかけるのは、イエスへの「信
仰」からくるものだった。 ふたりの盲人も、「ダビデの子よ」と叫びながらついて来たことから、
この点でイエスへの「信仰」を持っていたと言えるし、その「信仰」は、ほめられたものである。 
 
しかし、このふたりの盲人は、目が見えるようになった後、「決してだれにも知られないように」
という主イエスのことば正反対の言動を取っている。 あまりにも うれしくて黙っておられな
かったという意見もあろうが、かと言って、癒し主のことば無視して自分のうれしさ優先で、イ
エスのことを言いふらしたとして主がそれを喜ばれるだろうか。 主なる神が喜ばれることは、
「主の御声(みことば)に聞き従うこと」である。(Tサムエル15:22) 結局、彼らは、いやされた
ことといやしてくださった主に感謝はするが、いやしてくださった主ご自身を「メシヤ(救い主)」
して受け入れることをせず、主ご自身に目を留め続けることをしなかったということであろう。 
 
マルコによる福音書7章31節〜37節の場合。 デカポリス地方のあたりのガリラヤ湖で人々
は、耳が聞こえず、口のきけない人をイエスのところに連れて来て、彼の上に手を置いてくださ
るように願った。 イエスは、その人だけを群衆の中から連れ出し、その両耳に指を差し入れ、
それからつばきをして、その人の舌にさわられた。 そして、天を見上げ、深く嘆息して、その
人に「開け。」と言われて いやされた。 そして、このこともイエスは、だれにも言ってはならな
、と命じられたが、彼らは口止めされればされるほど、かえって言いふらしたという。 
 
デカポリスと言えば、墓場に住んでいた悪霊につかれた男が、イエスに悪霊を追い出していた
だき解放され、イエスのお供をしたいと願ったが、「家に帰って・・この出来事を知らせなさい。
(マルコ5:19)」とイエスに言われて、そのことばに従い、イエスのことを言い広めたところであ
る。(墓場に住んでいた悪霊につかれた男について/めんどり通信/2015年11月1日参照) こ
の地方の人々は、この男から主イエスのこと、主がなさったみわざのことを聞いたのであろう。 
そして、イエスならいやしてくださるとの「信仰」を持ったと思われる。 マタイ9章のふたりの盲
人と同じように、口のきけない人も彼をイエスのところに連れてきた人々も、いやされるという
「信仰」を持つことができても、その「信仰」「神を愛する」ということが土台、基底になってい
ないから、主のことば正反対の言動を取ったと思われる。
 
マルコによる福音書10:46-52の場合。 エリコにいたテマイの子のバルテマイという盲人のこじ
きは、やはり「ダビデの子のイエスさま。私をあわれんでください。」と叫んだ。 イエスへの「信
仰」があるということだ。 「わたしに何をしてほしいのか。」というイエスの問いに、「目が見える
ようになることです。」と答えた。 するとイエスは、彼に言われた。「さあ、行きなさい。あなたの
信仰があなたを救ったのです。」すると、すぐさま彼は見えるようになり、イエスの行かれる所に
ついて行った。
 
このように見ていくとき、イスラエル人であろうが異邦人であろうが、イエスに「ダビデの子よ」
呼びかけることは、「イエスへの信仰」を持っているということである。 しかし、この「信仰」にも
種類とレベルがあるようだ。 イエスは、いやしをされた一方の者には、イエスのことを伝えるこ
とを言い渡され、もう一方の者たちには口止めされた。 イエスは、その人の心の奥にあるも
見ておられたのではないだろうか。 心の奥底に「神への愛」を持っているのかどうか、ま
た、持つことができる者であるのかどうか見ておられたのではないだろうか。 
 
「神への愛」は、人は最初から持っているものではない。 主なる神から与えられるものであ
る。 いつ、どのように与えられるかは、人によって様々であるが、与えられる「神への愛」をへ
りくだって受け取り握ることができるかどうか、このことが案外、重要である。 「主を信じてい
る」、「主への信仰が明確にある」、「主に従っている」、「主のみこころを行なっている」と自他と
もに認めていたとしても、「主なる神を愛する」「キリストを愛する」ということが、心の奥底に土
台もしくは基底としてあるのでなければ、自他ともに認めているそれらは心の浅いところから出
て来たもの、行なっているものと言わざるを得ない。 心の奥底に「神への愛」がないなら、本
当の意味で「主のことば」に従うことはできないのである。 すなわち、主が喜ばれる「主への
従い」ができないのである。
 
もし、マタイによる福音書9章のふたりの盲人が癒しを受けて「目があいた」とき、彼らの心の奥
底に「神への愛」が据えられていたなら、あまりにもうれしくて黙っておられない心境になったと
しても、墓場に住んでいた悪霊につかれた男と同様に、自分の「思い」「感情」「願い」を捨てて
でも主イエスのことば従っていたであろう。 自分の「思い」「願い」「考え」などを捨てる、すな
わち自分を捨てるということは、自分より主なる神を優先する(優先している)ことであり、心の
奥底に「神への愛」が基底として据えられているということである。 それは、主から与えられた
「神への愛」を、へりくだって主から受け取ることができているということである。 
 
「主イエスのみわざ」、「主イエス・キリスのこと」、「福音」を伝えるということは、「神への愛」「キ
リストの愛」を伝えるということである。 「神への愛」が据えられている心の奥底から伝えること
を主が望んでおられる。 心の奥底に、「神への愛」が据えられることについては、信仰歴が長
いとか聖書の知識を多く知っているとか教会での奉仕、キリストのための奉仕を多くしていると
か奇跡を体験したとかは目安にならない。 信仰歴が短くても聖書の知識をあまり知らなくても
奇跡を体験したことがなくても心の奥底に、「神への愛」が据えられている者もいる。 
 
彼らの特長は、一人一人に応じた神からの訓練試練、試しによって自我が砕かれ肉が切り取
られる過程を通り、それらを拒否しなかったということである。 また、その過程を通っている最
中の者もいるだろうが、痛くても嫌でもプライドが傷ついても拒否せず、自分を捨て、自分の十
字架を負うているということである。 「神への愛」なくしては、「キリストにとどまる」こと、「主に
つながり続ける」ことは、できないことでる。 
 
結局、意識して、絶えず「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないで」主の
御前にへりくだって、真剣に自分の内側のことに取り組んでいくべきであるということだ。 そし
て心の奥底にある主の喜ばれないものを教えていただき、変えていただいて、揺るがない「神
への愛」を心の奥底に土台とし、基底として据えていただくことに取り組むことが大切であろう。
 
★新約聖書 テサロニケの手紙 第二 3:5
   どうか、主があなたがたの心を導いて、神の愛とキリストの忍耐とを持たせてくださいます
   ように。
 



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