めんどり聖書研究会


めんどり通信/2011年7月24日。主が復活された記念すべき日曜日です! ハレルヤ!
<主と主のことばは人の本心、本音を明らかにする>


★新約聖書  ヘブル人への手紙  4:12
       神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分
   かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。

★旧約聖書 詩篇 18:28
   あなたは私のともしびをともされ、主、私の神は、私のやみを照らされます。

★新約聖書(口語訳) ヨハネの黙示録 2:23
   ・・・・こうしてすべての教会は、わたしが人の心の奥底までも探り知る者であることを悟る
   であろう。そしてわたしは、あなたがたひとりびとりのわざに応じて報いよう。

ルカによる福音書19章のザアカイと18章のある役人を比べてみる。 ザアカイは当時、嫌わ
れていた取税人のかしら。 人から非難されるべきことが多い金持ち。 そんな彼がある日、イ
エスを「見よう」と走って行った。 どうしても主に会いたいという、真剣な求めがあったわけでは
ないようだ。 ところが、主イエスに「きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから。」とこと
ばをかけられた。 ザアカイは大喜びしてイエスを迎えた。 イエスに触れたザアカイは「・・私
の財産の半分を貧しい人たちに施します。・・私がだまし取った物は、四倍にして返します。」

思い切ったことを宣言した。 それを聞かれたイエスは「きょう、救いがこの家に来ました。」
言われた。 主が語られたことばはその通りになる。 

ザアカイの本心、本音は、「救われたい」ということだったと思われる。 しかし取税人という職
務のため、人との軋轢からくる辛さ、当時の状況からして嫌われてもお金に逃げる、頼ることを
生きる術にしていたことによる心の虚しさなど、最初は感じていたかもしれないが、時が経つに
つれ、生活に追われるにつれ、そのような心の葛藤は薄れてきていたのかもしれない。 もしく
は「救われたい」という本心を心の奥にしまって、見えなくなっていた可能性もある。 しかし、
ザアカイの心の奥には「救われたい」という純粋な本心、本音があった。 その本心、本音が、
主イエスにことばをかけられることによって、明らかになってきた。 注目すべきは、ザアカイが
救われたいという本心に気づき、主を受け入れるよりも前に、イエスの方がザアカイを救おうと
決めておられたことである。 主は人の心の奥にある本心、本音を知っておられるということで
ある。

一方、ルカによる福音書18章のある役人は、金持ちで、神の戒めを守り、真面目に永遠の命
を求めるような人だったようである。 人からも尊敬され、好意を持たれるような人であったと
思われる。 彼は、主イエスに会って、永遠の命を得るためにはどうしたらよいかを教えていた
だきたいという求めがあった。 しかし、主のことば「・・あなたの持ち物を全部売り払い、貧しい
人々に分けてやりなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。そのうえで、わ
たしについて来なさい。(ルカ18:22)」
を聞くと、彼はイエスから去って行ってしまった。 

役人の場合は、マルコ10章マタイ19章からすると、自ら主イエスのところに来て、御前にひざ
まずいた。 そして主イエスから答えのことばをいただいた。 しかし、彼が望んでいる答えとは
違っていたようである。 彼の本音、本心は、彼の基準の永遠の命の得方であって、主が与え
ようとしている得方ではなかった。 ひと言で言えば神から賜る「永遠の命を得たい」「救われた
い」という願いはなかったと言えよう。 むしろ財産の方が大事だったということになる。 その
ことは主イエスのことばによって、明らかになった。 

主と主のことばは、隠されているものを明らかにする。 心の奥底にある本心、本音を明らか
にする。 その人自身もそれまでに気づいていなかった本音、本心がさらけ出される。 自分
が真剣に「神の救い」を求めていたことに気づいていなかったことを明らかにし、また「神の救
い」を求めているようで、実は求めていなかった、本心でなかったということも明らかにする。 

明らかにされたとき、どうするかは、その人に任されている。 ザアカイは喜んでイエスを迎え
入れた。  そのことにより、自分の本音、本心に気づき始め、「私がだまし取った物は、四倍
にして返します
」と真の悔い改めに導かれた。 「私の財産の半分を貧しい人たちに施します
と役人にはできなかった主が良しとされる宣言をザアカイができたのは、心の底にあった純粋
な本心、本音を主が引き出してくださったからである。 生ける神に出会い、神によって財産を
捨てる力が与えられたからである。 「金持ちが神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通る
ほうがもっとやさしい。」
とイエスは言われたが、金持ちのザアカイは救われた。 「人にはでき
ないが、神にはできる」
からである。 神のみわざであるからだ。

一方、役人はイエスのことばを受け入れなかった。 だからイエスから離れて行った。 彼は自
分の力で行なおうとしたし、行なってきたであろう。 何事をするにも自分の考え、願いがあり、
自分に頼っていたのではないだろうか。 しかし、もしイエスのことばを受け入れる意思を示し、
真に主に頼ったならば、神によって財産を捨てる力を与えられただろうに。

いずれにしても、主は人の心の奥を知っておられる。 その心の奥にある本心、本音を知らせ
ようとされる。 知らされたとき、ザアカイのようにそれまでの生き方はどうであれ、主と主のこ
とばの御前に素直になる者、へりくだる者がキリストとつながることになる。 主イエス・キリスト
の賜物、救いを受けることになる。 

「・・・したいのに、できない」という言葉をクリスチャンも語っているのをよく聞くが、その本心、
本音は、実は「・・・したくない」ということが多い。 だから自分の考え、願望をしっかり握り、放
そうとしない。 ザアカイのように木に登ってでもイエスを見ようとする、小さなことからでもキリ
ストを求めることを始めないのが問題である。 自分のことを大切に思い、自分のことを考え
て、自分中心にイエスのところに来た役人のようになるクリスチャンも多い。 「キリストを求め
る」「キリストにつながる」ことに真剣に取り組まないことが問題である。

人の心は奥深く、まだまだ見えていない部分はたくさんある。 それらは主に示していただかな
ければ、気づかない、わからないことが多い。 自分の本音、本心に気づかずに、神のみここ
ろに沿わない方向へ向かっているということもあり得る。 主は生きておられる。 人生の中
で、日々の生活の中で我々にも語っておられる。 声をかけておられる。 我々は自分の願望
や考えに固執せず、主イエス・キリストから目を離さず、キリストとの交わりを深くしていき、主
のみこころを知って、正しい聖霊の流れに乗っていきたいものである。

★旧約聖書 イザヤ書記 66:2
  ―主の御告げ。―わたしが目を留める者は、へりくだって心砕かれ、わたしのことばにおの
  のく者だ。

★新約聖書 第一コリント人への手紙 4:5
   ・・・主は、やみの中に隠れた事も明るみに出し、心の中のはかりごとも明らかにされま
   す。そのとき、神から各人に対する称賛が届くのです。



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