めんどり通信/2016年5月8日(日曜日)主が復活された記念すべき日曜日です!ハレルヤ! <終末のシュネムの女について:聖書、祈り、霊的感覚によって推測思考> 2018年3月25日付修正文。 |
|
★新約聖書 ルカによる福音書 8:17 隠れているもので、あらわにならぬものはなく、秘密にされているもので、知られず、また 現われないものはありません。
●今まで書いた「めんどり通信」で関連あるものを幾つかをまとめてみた。 ★めんどり通信 /2014年11月2日<最後の女エバが主に用いられるということはあり得るか?:エリシャとシュ ネムの女から思考>/2014年12月7日<推測、思考:恵みの選びによって主が真に救おうと している人たちをキリストにつなぐシュネムの女のような女があらわれて用いられるということ が今後の神のご計画の中にあるだろうか?>/2014年12月14日<エルサレムから東のほう 「日本」に注目:「シュネムの女」と「四人の女」から思考>/2014年9月7日<ダビデの妻バテ・ シェバからの思考>/2015年4月12日<なぜ、復活の主は最初にマグダラのマリヤに現われ たのか?>/2015年4月26日<再臨についての思考>/2015年8月2日<「ひとりの女がひ とりの男を抱こう」についての思考:エレミヤ書31章22節>/2016年2月7日<神の選びにつ いての思考>/2016年2月14日<キリストへの信仰について:イエスの母マリヤから思考> /2016年2月21日<推考、思考:神の計画、目的に関して重要と思われる聖書の中の女につ いて>以上である。
聖書は誰が読んでも男性中心に書かれていると思われる。 神のご計画のゆえということもあ るが、当時の社会状況の事情もあると思われる。 旧約時代から続いて当時のユダヤ社会 は、男性中心であった。 しかし、イエスが登場されてから、女性を数にさえ入れない当時の社 会において、女性もイエスの弟子として使徒たちと一緒に宣教の旅に出かけることを許された り、サマリヤの女と二人だけで話をしたりなど、イエスの女性に対する態度は、取税人や罪人 との共食と同じほど、画期的であった。
それでも新約聖書の中に記されている女性に関しての重要な記事は少ない。 「女」のことが、 聖書の中に隠されているようにも思える。 だから、「女」のことに関して、聖書の裏付けの箇 所が少なく、推測の部分が多い。 聖書だけでなく、様々な資料を調べ解釈される学者や教役 者も多いが、著者はそのへんの知識がないので、聖書と祈りと霊的感覚で思考してみる。
終末については、多くの方々がメッセージをしておられる。 著者が推測して書く内容は、異端 だ、論外だと言われること必至であると思われるが、あえて書いてみる。 神は、「われわれに 似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。(創世記1:26)」と男と女とに人を創造された。 (創世記1:27) アダムに「ふさわしい助け手」として、エバ(ひとりの女)を造られた。(創世記2: 18-25) 「助け手」というのは、原語のヘブル語の意味合いから、男アダムと女エバは、共に語 り合い、共に助け合う「対等に向き合えるパートナー」であった。
最初の人間アダムとエバは、「食べると必ず死ぬ」と仰せられた「善悪の知識の木」から取って 食べ、「罪」を犯した。 パウロは、最初の人アダムの犯した罪によって全ての人が罪人とな り、死の支配を受けるようになり、最後のアダムであるキリストは、「命を与える霊」となったと 語っている。(ローマ5:12、Tコリント15:45) ただ、厳密な言い方をすれば、最初に罪を犯し たのはエバではないだろうか。 もちろん、罪の問題は、すでに最後のアダムであるイエス・キ リストの十字架と復活によって解決されている。 神の救いのご計画は、イエス・キリストによっ て完全であり、完了である。 それでも、最初の人エバが犯した罪を、最後のエバ、シュネムの 女によって完結されるということはあり得ないだろうか?
シュネムの女については、U列王記4章8節〜37節にしか書かれていないが、結構、重要なこ とが隠されているように思う。 2014年11月2日に書いているが、ここでエリシャはイエスの型 である。 シュネムの女は、子どもを求めなかったが、エリシャの方から「恵み」として与えた。 このことから、その子どもは、「神が選ばれた者」と解釈した。 その子どもが死んだということ は、(未信者、信者にかかわらず)神に選ばれている者が、真の神にしっかり繋がっていない、 何らかの理由で、神から見られて神と共に歩めていない状態。 しかし、シュネムの女の「信 仰」によって、子どもが生き返った。 それは「光の柱」が立つことではないかと思う。
日本中、世界中に散らばっている「光の柱」となるべき者たちが立ち上がったならば、その「光 の柱」の周辺は明るくなる。 その「光の柱」に寄ってくる者たちがいる。 「光の柱」となった者 たちは、キリストからいただいた油がとどまっているので、だれからも教えを受ける必要がな い。 すべてのことを油(聖霊)が「光の柱」に教える。(Tヨハネ2:27) そして、主が定めてお られる数が満ちたとき、引き上げられるのだろう。(光の柱について。めんどり通信/2014年12
「女」が、「救い」に関しての重要な位置を占めるというのは傲慢な発想だろうか。 キリストの 救いは、男も女もないとはいえ、当時のユダヤ社会では考えられないことだが、マタイによる福 音書に書かれているイエスの系図に「女」が入っている。(ガラテヤ3:28) 特にマリヤ以外の 「異邦人の四人の女」、タマル(アラム人)、ラハブ(カナン人)、ルツ(モアブ人)、ウリヤの妻 (バテ・シェバのこと:ヘテ人)は、重要であると思われる。(バテ・シェバについて。2014年9月 7日参照) 「四人」の共通点は、「女」であること、「異邦人」であること、ある意味、曰く付き(汚 れに関すること)であることだ。 また、「四人のらい病人」が登場する旧約聖書 列王記 第二 7章では、彼らによって、サマリヤに住む人たちが救われた。 この「四人のらい病人」は、系 図に出てくる「四人の異邦人の女」を象徴すると思われる。 「四」という数字は、聖書において は宇宙、世界をあらわすと言われている。(2014年12月7日参照)
また、「女」が、「救い」に関しての重要な位置を占めるということに関してマグダラのマリヤを見 てみる。 キリスト教の神髄とは、「キリストの十字架の死と復活」であるが、「キリストの復活」 の主に最初に出会ったのが、マグダラのマリヤである。 彼女に関する聖書からの情報は少 ないが、イエスは、筆頭者のペテロでもなく、イエスが愛しておられたヨハネでもなく、聖霊に よってイエスを生んだマリヤでもなく、七つの悪霊を追い出してやったマグダラのマリヤにま ず、御自身をあらわされた。 このことが書かれているヨハネの福音書では、まるでイエスが、 「男」から「女」に目を向けられているかのように、「イエスと女の出会い」について書かれている 場面が多い。 このようにしてみるとき、もしかしたら、主イエス・キリストは、マグダラのマリヤ が「女」だったから、最初に顕現されたと考えられないだろうか。 「マグダラのマリヤ(女)」に 最初に現われたことは、神の重大なご計画、すなわち、最後のエバ、シュネムの女によって、 すべての神のご計画が完結するからではないかと思うのだが・・?。(2015年4月12日参照)
この「最後のエバ、シュネムの女」は、以上のことやエゼキエル46章や47章などによると、「日 本」からあらわれてくる可能性大である。 エゼキエル書47章8節の「この水は東の地域に流 れ」というように、「東」について書かれているが、聖書の中に多く書かれている太陽が上ってく る「東」という原語のヘブル語の元になっている動詞には、「会う」「迎える」「出迎える」という意 味を持っているという。 東のほう、「日本」で大きな聖霊の注ぎがあり、聖霊が大きく働かれて 「神の栄光」があらわれる可能性大である。(2014年12月14日参照)
いずれにしても、そういうことを身近なこととして推測できる時代が来たということである。 いつ でも心を引き締め、身を慎んで、「神の栄光」があらわれ、世界中に超自然的な、まばゆい 「光」、この世の物ではない「光」の「シェキーナ」が何本何百本も立つ事実を目撃したいもので ある。 そして、網の中に入れられる魚となるために、主の御前にへりくだり、真に「主につなが ること」、「主にとどまること」に取り組み、更に「主につながり続ける」、「主にとどまり続ける」こ とに取り組んでいきたいものである。
★新約聖書 ヨハネの黙示録 20:12、15 また私は、死んだ人々が、大きい者も、小さい者も御座の前に立っているのを見た。そし て、数々の書物が開かれた。また、別の一つの書物も開かれたが、それは、いのちの書 であった。死んだ人々は、これらの書物に書きしるされているところに従って、自分の行 ないに応じてさばかれた。 いのちの書に名のしるされていない者はみな、この火の池に投げ込まれた。 |
|