めんどり聖書研究会


めんどり通信/2014年12月7日。主が復活された記念すべき日曜日です!ハレルヤ!
推測、思考:恵みの選びによって主が真に救おうとしている人たちをキリストにつなぐシュネムの女のような女があらわれて用いられるということが今後の神のご計画の中にあるだろうか?


★ガラテヤ人への手紙 3:28
   もはや、ユダヤ人もギリシヤ人もなく、奴隷も自由人もなく、男も女もない。あなたがたは
   皆、キリスト・イエスにあって一つだからである。
 
★旧約聖書 伝道者の書 3:11
   ・・・人は、神が行なわれるみわざを、初めから終わりまで見きわめることができない。
 
★ルカによる福音書 8:1〜3
   その後、イエスは、神の国を説き、その福音を宣べ伝えながら、町や村を次から次に旅を
   しておられた。十二弟子もお供をした。また、悪霊や病気を直していただいた女たち、す
   なわち、七つの悪霊を追い出していただいたマグダラの女と呼ばれるマリヤ、 ヘロデの
   執事クーザの妻ヨハンナ、スザンナ、そのほか自分の財産(持ち物)をもって彼らに仕え
   ている大ぜいの女たちもいっしょであった。
 
旧約聖書 列王記 第二 7章を思考してみる。 当時、イスラエルのサマリアの町はアラム
軍に包囲され、厳しい飢餓状態に追い込まれた。 「ろばの頭」は律法では食べることが禁じら
れていたが、それさえ食料とされ、燃料にするはとの糞は銀50グラムで取引されるという有り
様だった。 その上、人々は自分たちの子どもさえ食べて飢えをしのぐ、という恐ろしい異常事
態だった。 そのような中、エリシャは「主のことばを聞きなさい。主はこう仰せられる。『あすの
今ごろ、サマリヤの門で、上等の小麦粉一セアが一シェケルで、大麦二セアが一シェケルで売
られるようになる。』」と預言した。 要は、高価な上等の小麦粉が、通常の相場よりはるかに
安く手に入るようになる、格安になるということだ。
 
サマリアの町の門の入口に「四人のらい病人」がいた。 イスラエルでは、らい病人は、汚れた
者と見なされ、町の外(宿営の外)に住まなければならなかった。 彼らは人々の施しなどで生
活していたが、飢餓の中で誰も彼らに食べ物を施す人はいなかった。 彼らは、このままでは
必ず死ぬ。 それならアラム軍に投降して生きる道を探そう。 殺されるなら死ぬまでのこと
だ、と意を決して、夕暮れになって立ち上がり、アラムの陣営の端まで来た。 
 
すると、アラム軍の陣地は、もぬけの殻だった。  主がアラムの陣営に、戦車の響き、馬のい
ななき、大軍勢の騒ぎを聞かせられたので、エジプトの大軍が押し寄せてくると誤解したアラム
軍は陣営をそのまま置き去りにして、敗走していたのだ。 「四人のらい病人」は天幕に入り、
放置されていた食糧を食べ、次々と、銀や金、衣服などを天幕から運び出しては、それを隠し
に行っていた。 しかし、そのうちに、飢えている町の人々を思い起こしたのであろう、自分たち
のしていることは正しくないと目覚め、この事実を知らせるため町に戻った。 そして、民は出
て行き、アラムの陣営をかすめ奪ったので、主のことばのとおり、上等の小麦粉一セアが一
シェケルで、大麦二セアが一シェケルで売られ、サマリアの人たちは救われたということであ
る。 このように、神がなさることは人間が全く予測し得ない方法でなさる。 神のご計画導き
は、常に人間の想定外の方法でなさる。
 
さて、ひと言でいえば、汚れたと見なされていた「四人のらい病人」によって、サマリヤに住む人
たちが救われたということであるが、これには、どういう意味合いがあるのだろうか? 使徒行
伝10章。 ペテロがヨッパで、皮なめしのシモンという人の家に泊まっていたとき、主から夢
(幻)を与えられた。 開けた天から、大きな敷布のような入れ物が、「四隅」をつるされて地上
に降りて来た。 その中には、律法に書かれているきよくない物や汚れた物が入っており、「ペ
テロ。さあ、ほふって食べなさい。」という声がした。 ペテロは、「主よ。それはできません。」
言った。 再び「神がきよめた物を、きよくないと言ってはならない。」という声があった。 そん
なやりとりが三度繰り返された後、その入れ物はすぐ天に引き上げられた、ということである。 
その後、イスラエル人ペテロを通して、カイザリヤのイタリヤ隊という部隊の百人隊長コルネリ
オが救われた。 コルネリオは、異邦人最初のクリスチャンになった。 
 
四隅をつるされた敷布の中のきよくない物や汚れた物は、列王記「四人のらい病人」をあら
わす。 それは、また異邦人をあらわしている。 このようなことから、神は、異邦人を通してイ
スラエルを回復される、と教会で学んだことがある。 その通りである。 パウロも「その奥義と
は、イスラエル人の一部がかたくなになったのは異邦人の完成のなる時までであり、こうして、
イスラエルはみな救われる、ということです。(ローマ11:25,26)」と言っている。 要は、神は、イ
スラエルのかたくなな心を通して、あらかじめ定めておられる異邦人を救われ、その数が満ち
たとき、異邦人を通して、イスラエルはみな救われるということである。(ミカ書2:12) 
 
ただ、もう一つ何か主が語られていないのかを思考してみた。 「四人のらい病人」というとき、
「四人」「救い」に関係すると言えば、マタイによる福音書に書かれているイエスの系図の中
に出てくる「異邦人の四人の女性」が思い浮かぶ。 タマル(アラム人)、ラハブ(カナン人)、
(モアブ人)、ウリヤの妻バテ・シェバのこと:ヘテ人)である。 四人の共通点は、「女」であ
ること、「異邦人」であることだ。 また、四人とも、ある意味、曰く付きである。 簡単に書け
ば、タマルは、舅のユダによってパレスとザラを生んだ。(マタイ1:3、創世記38章) ラハブ
エリコの遊女であった。(マタイ1:5、ヨシュア記2章6章) ルツはモアブ人だが、ユダヤ人エリメ
レクとナオミの長男マフロンの妻だった。 夫の死後、他人と結婚せず、レビラート婚という習
(死んだ夫の代わりに、その夫の兄弟が結婚する)で親戚であるボアズと再婚した。(マタイ
1:5、ルツ記、申命記25:5,6) ウリヤの妻(バテ・シェバ)は、ダビデ王と姦淫の罪を犯した。
(マタイ1:6、Uサムエル記11章12章)
 
当時のユダヤの系図の特徴は、通常、「女」は出てこないということである。 当時は、男中心
の家父長制社会で、女性は法律上の権利が認められておらず、子供のときは、父親の支配
下にあり、結婚後は、夫の支配下にあった。 聖書でも、制度として男中心の家父長制の社
会なので、男性中心の系図である。 しかし、イエスの系図は、そのようなことに捕らわれてい
ない。 キリストの救いは、男も女もないからだ。 パウロは「もはや、ユダヤ人もギリシヤ人も
なく、奴隷も自由人もなく、男も女もない。あなたがたは皆、キリスト・イエスにあって一つだから
である。」と言っている。(ガラテヤ3:28) 神は、創世記において男アダムと女エバを、共に語
り合い、共に助け合う「対等に向き合えるパートナー」として造られたからだ。 以上のことか
ら、 「四人のらい病人」は、系図に出てくる「四人の異邦人の女」を象徴すると思われる。 
また、「四」という数字は、聖書においては宇宙世界をあらわすと言われている。
 
このようにして見るとき、「四人のらい病人」がサマリヤの町の人々を救うため用いられたよう
に、一部の「女」が今後、世界中に散っている主が定められた人を「キリストにつなぐ」という働
きを、主から預かる可能性があるのかもしれない。 社会文化的状況において周辺に追いや
られた小さな者、弱い立場であった「女」の中から、「シュネムの女」のような「女性」が今後、登
場するのかもしれない。 このようなことを書けば、女性牧師反対の多くの教会から、何をたわ
けたことを抜かしているのか、とクレームが届きそうではあるが、あえて書いてみた。(HPめん
どり通信/2014年11月2日参照。) 
 
いずれにしても、「神のご計画」は着実に進んでいる。 我々が、どのようにメッセージしよう
が、いろいろ評論しようが、「真実」は、現実に現れてくる! 覆いは取り除かれるからである。
(マルコ4:22、ルカ12:2) 「主のことば」「主のはかりごと」は、必ずその通りになるからであ
る! 我々の時代、今まで見えなかったことが見えるようになると期待して、主に目を向けつ
つ、「神は唯一です。また、神と人との間の仲介者も唯一であって、それは人としてのキリスト・
イエスです。(Tテモテ2:5)」「ことば」から離れずに歩んでいきたいものである。
 
※冒頭のルカ8:3のみことば「財産(持ち物)」と訳されている言葉は物質的な品物のみを意
味しているのではなくて、自分の能力や資質といったことも含まれるという。
 
★マタイによる福音書 11:5
   盲人が見、足なえが歩き、らい病人がきよめられ、つんぼの人が聞こえ、死人が生き返
   り、貧しい者には福音が宣べ伝えられているのです。
 


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