めんどり聖書研究会


めんどり通信/2015年8月2日。主が復活された記念すべき日曜日です!ハレルヤ!
<「ひとりの女がひとりの男を抱こう」についての思考:エレミヤ書31章22節>



★旧約聖書 エレミヤ書 31:22
  ・・主は、この国に、一つの新しい事を創造される。ひとりの女がひとりの男を抱こう。
 
★旧約聖書 伝道者の書 3:11
   神のなさることは、すべて時にかなって美しい。神はまた、人の心に永遠への思いを与え
   られた。しかし、人は、神が行なわれるみわざを、初めから終わりまで見きわめることが
   できない。
 
★旧約聖書  箴言 25:2
   事を隠すのは神の誉れ。事を探るのは王の誉れ。
 
聖書を読んでいて、エレミヤ書31章22節のことばが心に引っ掛かった。 それで思考してみ
る。 エレミヤは、祖国ユダ国の人々に、彼らの罪を責め、王国の滅亡を伝えるようにと神に
告げられたので、「神の預言のことば」を語り続けた。 しかし、人々は、エレミヤと正反対の言
葉を語る偽預言者の言葉を受け入れた。 偽預言者の安易な慰めと励ましの言葉は、ユダ国
民の傲慢で自分たちは選民だというプライドをくすぐったようである。 そして、いくつかの危機
を乗り越えるたびに、預言のことばとは違うではないかと言わんばかりにエレミヤは、人々に
責められ、殺されそうになったこともあった。 当時、確かに、ユダ国は偽預言者が語ったよう
に束の間の平穏を得ていた。 しかし、たとえ自分たちの意に沿わないことばであっても、「神
のことば」は受け入れるべきである。 エレミヤは、ユダの人々の心の奥底にある「罪」「神に
背くような思い」を見破り、神に立ち返ってくれるようにと「神のことば」を語り続けることによっ
て厳しく責め立てていった。 しかし、ユダの人々は、神を退けて、ユダ国は滅亡へと向かって
いった。 
 
神は、ご自身の計画を持っておられる。 それは、ご自身に寄りすがる者にとって、平安を与え
る計画である。 途中経過においても、わざわいを与えてただ苦しめようとするのではない。 
そのご計画には、神の深い摂理と配慮が必ずある。 神に背く者が、そのことに気づくはずは
ない。 結局、エレミヤが預言した通りになり、70年にわたってバビロン捕囚が始まった。 エレ
ミヤ書には、そのような実情の中で書き記されたエレミヤの預言と、彼の働き書かれてい
る。 そして、30章〜33章は、「慰めの書」と呼ばれ、エレミヤが自らの預言、捕囚の民の帰還
を約束する希望のメッセージをバビロンの捕囚の民に送った預言集である。 
 
さて、31章22節「ひとりの女がひとりの男を抱こう」の訳について新改訳以外の聖書を調べ
てみた。 口語訳「女が男を保護する事である」新共同訳「女が男を保護するであろう」であっ
た。 どうもこの箇所は、千差万別の解釈があるようで、解釈することが難しいようである。 主
はここで何を言わんとされているのかが気になり、祈りつつ調べていった。 ここの箇所を他の
方々はどのように解釈されているのかを調べてみた。 
 
ここの「女」ヘブル語ネケーバーであり、創世記1:27「男と女とに彼らを創造された」「女」
と同じであるという。 ここの「男」は、ヘブル語ゲベルであり、創世記1:27「男」(ヘブル語
ザーカール)とは異なるという。 ここの「男」は、「力」を示す語であるという。 冠詞はどちらに
も付いていないので、ごく一般的な意味に用いられているという。 女(イスラエル)が、男(ヤハ
ウェ=神)をやさしく愛して抱くようになるという解釈をするのが無難だという。それは、背いた
夫のもとに帰る妻というイメージを生むと共に、男たち(諸国民)に見捨てられた女(イスラエ
ル)が、強い男ヤハウェのもとに帰ってくるという絵を思い浮かべることもできるという。(エレミ
ヤ書入門より) 
 
他、いろいろあったが、「ひとりの女」とはイスラエルのこと、「ひとりの男」は神でありキリストご
自身のことで イスラエルが主のみを神とし、キリストを自分の王とするという解釈もあった。 
また、当時は、男が女を守っていた。 だから通常ではありえないことが起こることの例えとし
て、読むのが妥当という解釈もあった。 他、神の力が、弱さの中に表されるとき、この逆転が
生まれる。 イエスはひ弱な一人のマリヤという女性に抱かれて成長した。 そして、今も、多く
の男性の信仰は女性によって守られ支えられてるというような解釈もあった。
 
この箇所には千差万別の解釈があるようだが、案外、ネットで調べてみると そこのメッセージ
が少なかった。 日本語では上記のような訳になっているが、英語ではどうなのかと調べてみ
た。 この箇所の英語では「A woman shall encompass a man.」となっていた。(NKJV訳) それ
「encompass」の意味を調べてみると 他動詞では、(〜の回りを)取り囲む、包囲する、〜を
包む、〜を覆う、(完全に)〜を包含する【網羅する】とあった。 「compass」を調べてみると、
[まず、compassといえば方位磁石のことを思い浮かべてしまいますが、compassには「地域、
範囲」さらには「音域」という意味があります。(『ジーニアス英和辞典 第4版』大修館)つまりen
(〜の中に)+compass(範囲)で「取り囲まれる」や「〜を含む」という意味になります。]とあっ
た。(ネット田邉祐司ゼミ より) また、「compass」には、〜を取り囲む、(目的などを)達成する
[成就する]、〜を獲得する、〜を(心で)つかむ、理解する、などという意味があるようだ。(goo
辞書より) 
 
このように見ていくうちに、以前に示された「女」に関する聖書の箇所で思考したことを思い出し
た。 @めんどり通信/2014年11月2日<最後の女エバが主に用いられるということはあり得る
か?:エリシャとシュネムの女から思考>Aめんどり通信/2014年12月14日<エルサレムか
ら東のほう「日本」に注目:「シュネムの女」と「四人の女」から思考>Bめんどり通信/2014年
12月7日<思考:恵みの選びによって主が真に救おうとしている人たちをキリストにつなぐシュ
ネムの女のような女があらわれて用いられるということが今後の神のご計画の中にあるだろう
か?>Cめんどり通信/2015年4月12日<なぜ、復活の主は最初にマグダラのマリヤに現わ
れたのか?>である。
 
主は、この国に、一つの新しい事を創造される。 それは、今後、「ひとりの女がひとりの男
をある意味、理解し、しっかり(心で)つかむ」というようには受け取れないだろうか。 「ひとりの
女」が、キリストを取り囲む、包む、すなわち、「ひとりの女」の内に、明確にしっかりと「キリス
ト」がおられ、取り囲むようにキリストと一つになる。 そして、この「ひとりの女」は、最後の女エ
、すなわちシュネムの女で、「ひとりの男」は、主イエス・キリストであるというようには解釈で
きないだろうか? 最後の女エバ、シュネムの女のような「女」が、キリストにしっかり つなが
り、主が選ばれている残りの者たち、すなわち世界中にいる光の柱となるべき者たちを明確に
引きあげ、正しく主にしっかりつなぐ働きのために主に用いられるとは、突拍子もない解釈だろ
うか? 
 
この箇所の解釈は千差万別だから、その中の一つになろうが、もし、これらのことが神のご計
画の中にあるならば、実際、その通りになるであろう。 著者は、めんどり通信で書いた「女」
ついての これらの解釈は、主からの示しだと受け取っている。 だからこそ、とにかく、主イエ
ス・キリストと一人一人が 正しく しかも明確に つながり続けることが必須だと考えている。 
しっかり主につながり続ける者は、心の底から主を愛することができると思っている。 また、
主もそのような者たちを喜ばれれるであろう。 いずれにしても、絶えず、「信仰の創始者であ
り、完成者であるイエスから目を離さないで」主の御前にへりくだって祈り、キリストとの交わり
を深くしていきたいものである。 
 
参照:一部抜粋
(めんどり通信/2014年11月2日約束の子、契約の子は死んだが、生き返るためにシュネ
ムの「女」が用いられたということである。・・・このようにしてみると、「善悪の知識の木」から実
を食べるという不信仰、不従順によって(霊が)死んだ最初の女であるエバが、最後の女であ
シュネムの女「約束の子が死ぬことは神の御心ではない」という信仰、従順によって回復
されるというように思えるのだが。 最初のエバは、不信仰、不従順 。 最後のエバ、すなわち
シュネムの女は信仰、従順。 それゆえの回復があると、受け取ることができないだろうか。 
もちろん、それをなさるのは、エリシャで予表されているイエス・キリストであられる。 すでに
後のアダム、イエス・キリストによって神と人が交わることは回復されているが、最後に、主イエ
ス・キリスト最後のエバ、すなわちシュネムの女を用いられて、この最初の女エバのことが解
決する、それがある意味、主がご計画された完結ではないかと思うのだが、どうだろうか?
 
(めんどり通信/2014年12月7日・・・「四人のらい病人」というとき、「四人」「救い」に関係
すると言えば、マタイによる福音書に書かれているイエスの系図の中に出てくる「異邦人の四
人の女性」が思い浮かぶ。・・・・・神は、創世記において男アダムと女エバを、共に語り合い、
共に助け合う「対等に向き合えるパートナー」として造られたからだ。 以上のことから、 「四
人のらい病人」は、系図に出てくる「四人の異邦人の女」を象徴すると思われる。 また、「四」
という数字は、聖書においては宇宙、世界をあらわすと言われている。
 
このようにして見るとき、「四人のらい病人」がサマリヤの町の人々を救うため用いられたよう
に、一部の「女」が今後、世界中に散っている主が定められた人を「キリストにつなぐ」という働
きを、主から預かる可能性があるのかもしれない。 社会文化的状況において周辺に追いや
られた小さな者、弱い立場であった「女」の中から、「シュネムの女」のような「女性」が今後、登
場するのかもしれない。・・・
 
(めんどり通信/2014年12月14日・・・また、もう一方で、東の国、「日本」に、「四人の女」
引き上げるために主から用いられる「シュネムの女」があらわれる可能性大である。 「シュネ
ムの女」は、光の柱となる「四人の女」を引き上げる、すなわち「キリストにつなぐ」働きをする。 
一般的に、主イエス・キリストを信じた者は救われ、キリストにつながっている、と言われている
が、もっと深いレベルで明確に、人が「キリストにつながる」ことを主は望んでおられ、ご自身が
定めた者がその域に達するために、ご計画を立てて働いてくださっておられる。・・・
 
(めんどり通信/2015年4月12日ヨハネによる福音書では、「イエスと女の出会い」について
書かれている場面が多い。 聖書の中では珍しく「女」が目立つ。 @4章のサマリヤの女。 イ
エスとの出会いにより、サマリヤの町に「救い(キリスト)」を伝える最初の証人になったこと。 
A8章では、姦淫の女の赦し。 B11章マルタとマリヤの姉妹。 彼女たちは、死んだ兄弟ラ
ザロのことでイエスに使いを送った。 そして、ラザロがイエスによって生き返ったこと。 C12
では、ベタニヤのマリヤの香油注ぎ。 D20章では、マグダラのマリヤが復活の主にお会い
した最初の証人になったこと。 これらの出会いから、ヨハネの福音書では、まるでイエスが、
「男」から「女」に目を向けられているかのようにも思えるくらいである。
 
★旧約聖書 イザヤ書 25:1
   主よ。あなたは私の神。私はあなたをあがめ、あなたの御名をほめたたえます。あなたは
   遠い昔からの不思議なご計画を、まことに、忠実に成し遂げられました。
 





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