めんどり聖書研究会


めんどり通信/2014年12月14日。主が復活された記念すべき日曜日です!ハレルヤ!
エルサレムから東のほう「日本」に注目:「シュネムの女」と「四人の女」から思考>


★旧約聖書 イザヤ書 24:14、15
   彼らは、声を張り上げて喜び歌い、海の向こうから主の威光をたたえて叫ぶ。 それゆ
   え、東の国々で主をあがめ、西の島々で、イスラエルの神、主の御名をあがめよ。
 
★旧約聖書 エゼキエル書 43:2
   すると、イスラエルの神の栄光が東のほうから現われた。その音は大水のとどろきのよう
   であって、地はその栄光で輝いた。
 
★新約聖書 マタイによる福音書 2:1、2
   イエスが、ヘロデ王の時代に、ユダヤのベツレヘムでお生まれになったとき、見よ、東方
   の博士たちがエルサレムにやって来て、こう言った。 「ユダヤ人の王としてお生まれに
   なった方はどこにおいでになりますか。私たちは、東のほうでその方の星を見たので、拝
   みにまいりました。」
 
聖書ではイスラエルの「エルサレム」が中心地となっている。 聖書だけでなく、ある科学者
がコンピューターを用いて研究した結果、パレスチナからメソポタミヤにかけての地域、すなわ
ちエデンの園、バベルの塔、ベツレヘム、ナザレ、また「エルサレム」のある地域が「全地の中
心」であることがわかったという。(ネットの情報より) 「日本」エルサレム」からの端に
あたる。 遣隋使を派遣していた大昔から「日出ずる処」として呼ばれている。 原語ヘブラ
イ語では「日本」「ミズホラ」(瑞穂)と言う。 約10年ほど前日本」「イスラエル」の歴史的
関係を、「めんどり通信」に書いていたHPめんどり通信2004年6月13日6月20日6月27
 
改めて聖書から「日本」に関することを考えてみた。 「日本」は、「東のほう」ということで、「東」
に関する「みことば」を幾つか見てみる。 新約聖書 マタイによる福音書2章では、東方の博
士たちが東のほう星を見て、その星に導かれて「ユダヤ人の王」を礼拝するためエルサレム
に来たことが書かれている。 「東」は人が神に出会うために「聖霊の働かれる」ところとなる。
 
また、パウロは「みことば」東のほうアジアで語ることを聖霊に禁じられたので、マケドニヤ、
すなわち西向きへと向かった。(使徒16章) その後キリスト教は西回りの道を辿ることとなっ
た。 日が沈む西、エルサレムから見て西の端の国でキリスト教が変質することは多くのクリス
チャンが語っているようである。
 
旧約のモーセの時代 門があり、大庭、聖所、至聖所があるモーセの幕屋が作られ、神の臨
在を象徴する「契約の箱」が幕屋の一番奥の至聖所に安置された。(出エジプト40:3) 礼拝す
る者はみな「東」に一ヶ所だけあるを通り、神の臨在に近づいて礼拝した。 イエス・キリスト
「わたしは門です。だれでも、わたしを通ってはいるなら、救われます。」と言われた。(ヨハネ
10:9) 「神の臨在」に近づくことができるのは、「イエス・キリスト」による。
 
エゼキエル書43章4、5節「主の栄光が東向きの門を通って宮にはいって来た。 霊は私を引
き上げ、私を内庭に連れて行った。なんと、主の栄光は神殿に満ちていた。」と書かれている。 
「東向きの門」は、オリーブ山に面した黄金門のことである。 エゼキエル書44章に書かれてい
るように、かつて閉ざされていたこの「東向きの門」は、イスラエルの神、主イエス・キリストがエ
ルサレム入場の時、開かれた。 しかし、その後、イスラム教徒によりこの門は閉ざされたが、
このことは、イエスが「ご自分のくにに来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった」ため、
イエスは、を通って出され、すなわち都の外で苦しみを受け、十字架につけられたことをあら 
わしている。(ヨハネ福1:11) 再びが開かれるということは、神の栄光が現われ、聖霊の大
きな働きがある「日」が来るということだと思われる。
 
この「東向き門」が開かれる「日」については、エゼキエル46章1節に書かれている。 6日間は
閉じておき、7日目に開けられるという。 7日というのは第二ペテロ3:8に記されているよう
に、7つの千年期、7つ目のミレニアムということであり、今日、7つ目のミレニアムに入っている
と言われている。 もうそろそろ、聖書の預言の通り、日本にも大きな聖霊の働きが見えてくる
のではないかと期待する。
 
エゼキエル書47章1節 「水が神殿の敷居の下から東のほうへと流れ出ていた。神殿が東に
向いていたからである。」 47章8節 「この水は東の地域に流れ、」というように、「東」について
書かれている。 このように聖書の中には「東」について多く書かれているが、太陽が上ってく
「東」という原語ヘブル語の元になっている動詞には、「会う」「迎える」「出迎える」という意
味を持っているという。 東のほう、「日本」で大きな聖霊の注ぎがあり、聖霊が大きく働かれて
「神の栄光」があらわれることが可能性大である。 そして、それは今まで見えていなかった
「日本」に、神の方が、目を留めて出迎えてくださり、「日本」「主イエス・キリスト」と真に出
会って見えるようにしていただく、という神のあわれみによる。 
 
以上のように見ていくとき、めんどり通信/2014年11月2日、14年12月7日で推測・思考してきた
ことが、「日本」で見えてくる可能性があると思われる。 簡単にまとめてみると、列王記 第二
 7章「四人のらい病人」イエスの系図の中の「四人の異邦人の女」四隅をつるされた敷
布の中のきよくない物、すなわち「異邦人」   彼らの共通点は、「汚れた」と見なされたこと、
「救い」に関係するということである。 「日本」は、八百万の神を持つ国民として、イスラエルか
「汚れた」と見なされてきたかもしれない。 唯一の「神の救い」とは縁のない国民と見なされ
てきたかもしれない。
 
しかし、今後、イスラエルを救うために、世界中に散らばっている主が救おうと定められてい
て、まだ明確にキリストとつながっていない「四人の女」が引き上げられ、登場してくる可能性が
ある。 その「四人の女」が引き上げられるなら、そこには、暗闇の中に光の柱が立つようなも
のである。 その昔、イスラエルの移動幕屋には「神の栄光」が臨在し、「シェキーナ」という超
自然的な「光」この世の物ではない「光」が放たれていたという。 一本(一人)の光の柱が立
ち上がるなら、その周辺が明るくなる。 世界中にそのような光の柱が多く立ち上がるなら、薄
暗くなっていた地球(世)も、「神の栄光」という「光」により、明るくなってくるであろう。
 
「四人の女」は 、人数が四人というのではなく、世界中に、そういう人たちがいるということであ
る。 「日本」の場合、「四人の女」「異邦人」かもしくは、ダビデの血筋を引く「ユダヤ人」とい
う説もあるので「ユダヤ人」かである。 いずれにしても、「日本人」「異邦人」として生きてき
た。 やはり、「日本」にも「四人の女」が、「神の栄光」をあらわすために引き上げられる、すな
わち、キリストにしっかりとつながる者が登場するということである。 「四人の女」は、キリスト
を受け入れている者たちだが、もう一歩、深みで「キリストにつながる」者たちである。 
 
また、もう一方で、の国、「日本」に、「四人の女」を引き上げるために主から用いられる
「シュネムの女」があらわれる可能性大である。 「シュネムの女」は、光の柱となる「四人の
女」を引き上げる、すなわち「キリストにつなぐ」働きをする。 一般的に、主イエス・キリストを信
じた者は救われ、キリストにつながっている、と言われているが、もっと深いレベルで明確に、
人が「キリストにつながる」ことを主は望んでおられ、ご自身が定めた者がその域に達するため
に、ご計画を立てて働いてくださっておられる。 「キリストにつながっている」と言いながら、神
から見られると、つながっていない者があまりにも多いことは事実である。 ここで「女」というと
き、たとえでは「教会」をあらわすが、この場合の「女」は、「個人」「教会」か、いずれであろう
か?(めんどり通信/2014年11月2日12月7日参照)
 
いずれにしても、そういうことを身近なこととして推測できる時代が来たということである。 いつ
でも心を引き締め、身を慎んで、「神の栄光」があらわれ、世界中に「シェキーナ」が何本何百
本も立つ事実を目撃したいものである。 
 
★旧約聖書 箴言 8:17
   わたしは、わたしを愛する者を愛する、わたしをせつに求める者は、わたしに出会う。
 
★新約聖書 ヨハネの黙示録 7:2,3
   また私は見た。もうひとりの御使いが、生ける神の印を持って、日の出るほうから上って
   来た。彼は、地をも海をもそこなう権威を与えられた四人の御使いたちに、大声で叫んで
   言った。「私たちが神のしもべたちの額に印を押してしまうまで、地にも海にも木にも害を
   あたえてはいけない。」
 


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