めんどり聖書研究会


めんどり通信/2015年4月12日。主が復活された記念すべき日曜日です!ハレルヤ!
<なぜ、復活の主は最初にマグダラのマリヤに現われたのか?>



★新約聖書 コリント人への手紙 第一 2:7
   私たちの語るのは、隠された奥義としての神の知恵であって、それは、神が、私たちの栄
   光のために、世界の始まる前から、あらかじめ定められたものです。
 
★新約聖書 ルカによる福音書 8:17
   隠れているもので、あらわにならぬものはなく、秘密にされているもので、知られず、また
   現われないものはありません。
 
「キリストの十字架の死と復活」、これがキリスト教の神髄であるが、このキリスト教の神髄
ある「キリストの復活」の主に出会った当時の人々のことが聖書に記されている。 イエスに最
初に出会ったマグダラのマリヤについて聖書に記されている情報は、マグダラのマリヤ@
つの悪霊をイエスに追い出してもらった。(マルコ16:9、ルカ8:2) A十字架に磔(はりつけ)に
されたイエスを遠くから最期まで見守り、その埋葬までも見届けた。 B三日目の早朝にイエ
スの墓に行った。 こうしてみると、聖書の中でマグダラのマリヤが登場するのは、イエスの死
と埋葬する場面の見届けと復活の主にお会いした場面、すなわち「キリスト教の神髄」の場面
である。 
 
なぜ、主イエスは最初にマグダラのマリヤに顕現されたのだろうか? なぜ先に12弟子の中の
筆頭弟子ペテロとか、主が愛しておられたヨハネとかに、ご自身を現わされなかったのだろう
か? なぜ、「女」なのだろうか? などといろいろ考えていた。 確かに、ひと言でいえば、「マ
グダラのマリヤは主イエスを深く愛していた」それに尽きるであろう。 イエスが捕えられようと
したとき、男の弟子たちはイエスを見捨てて、みな逃げてしまったが、ガリラヤからイエスといっ
しょに出て来た「女」たちは、十字架に磔(はりつけ)にされたイエスを最期まで見守り、墓と、イ
エスのからだの納められる様子をも見届けた。(ルカ23:55) そして、週の初めの日の早朝、
墓に行ったのも「女」たちであった。 前もってイエスが語られていた「人の子は必ず罪人らの
手に引き渡され、十字架につけられ、三日目によみがえらなければならない」というイエスのみ
ことばを思い出したのも「女」たちだった。(ルカ24:7,8) そして、その「女」たちの代表がマグ
ダラのマリヤであった。(マルコ16:2、ルカ24:1、ヨハネ福20:1) 
 
復活の主にお会いできる者は、「心をつくし、精神をつくし、思いをつくし、力をつくして、主なる
あなたの神を愛せよ」のことば通り、主を愛する者であると言えよう。(マルコ12:30) また、神
の御前でだれをも誇らせないため、「神は、・・この世の愚かな者を選び、・・この世の弱い者を
選ばれ・・この世の取るに足りない者や見下されている者を、・・無に等しいものを選ばれた」
いうことば通りにされたとも言えよう。(Tコリント1:27-29)
 
ただ、それだけでもないように思えるのだが・・・。 ペテロも、ヨハネも、イエスに付き従ってき
た弟子たちもイエスを愛していたことには かわりはないからだ。 マグダラのマリヤは、キリス
トの使徒たちに 主の復活を知らせたが、使徒たちには この話はたわごとと思われたので、
彼らは「女」たちのことばを信用しなかった。(ルカ24:11) 使徒たちにとって、なぜ最初にマグ
ダラのマリヤに顕現されたのか、納得がいかなかったのかもしれない。 当時の「女」たち
キリストに付き従って良い働きをしていたとしても、主イエスもそれを認めていたとしても、当時
のユダヤ社会の男性優位の側面から、マグダラのマリヤたち「女」の証言をなかなか信じられ
なかったのかもしれない。 
 
当時のユダヤの男性優位の家父長制社会だったことが関係しているのかどうかはわからない
が、パウロも「アダムが初めに造られ、次にエバが造られたからです。アダムは惑わされな
かったが、女は惑わされて、あやまちを犯した。(Tテモテ2:13、14)」と言っている。 パウロの
頃から、教会での女性の霊的な言動に対して一定の抑制が加えられ始められたと言われてい
る。 厳密に言えば、間違いなくエバが、だまされて先に罪を犯した。 しかし、それを黙認した
のはアダムである。 そして、アダムも罪を犯した。 聖書は、「アダムの違反と同じように
(ローマ5:14)」とか「アダムにあってすべての人が死んでいるように(Tコリント15:22)」など
と、人類の代表者をアダム(男)として書かれている。 また、「キリストによってすべての人が
生かされる(Tコリント15:22)」とアダムとキリストが比較されている。(ローマ5:12-21)  ユダ
ヤ社会では、男性優位から来る発想、思考は当たり前のことだったからだ。
 
ところが、イエスは、当時のユダヤ教の指導者やユダヤ社会と大きく異なっていた。 「女」たち
がイエスの伝道旅行に加わることを「良し」とされたり、マルタとマリアの姉妹、女性の家にイエ
スが入られたり、女性の家が宣教の場になったりした。 これらのことは、当時のユダヤ社会
の風習からは考えられないことだった。 また、イエスは、客の接待をせず、イエスの語られる
「ことば」を集中して聞いていたマリヤを高く評価されたりもした。(ルカ10:38-42) すなわち、
「女性」をご自身の弟子として認められ、ユダヤ教社会に潜む宗教的、性別的、道徳的な差別
からの「解放」を実施されたのである。 
 
さて、ヨハネによる福音書では、「イエスと女の出会い」について書かれている場面が多い。 
聖書の中では珍しく「女」が目立つ。 @4章サマリヤの女。 イエスとの出会いにより、サマ
リヤの町に「救い(キリスト)」を伝える最初の証人になったこと。 A8章では、姦淫の女の赦
し。 B11章マルタとマリヤの姉妹。 彼女たちは、死んだ兄弟ラザロのことでイエスに使い
を送った。 そして、ラザロがイエスによって生き返ったこと。 C12章では、ベタニヤのマリヤ
の香油注ぎ。 D20章では、マグダラのマリヤ復活の主にお会いした最初の証人になったこ
と。 これらの出会いから、ヨハネの福音書では、まるでイエスが、「男」から「女」に目を向けら
れているかのようにも思えるくらいである。 
 
このようにしてみるとき、もしかしたら、主イエス・キリストは、マグダラのマリヤ「女」だったか
ら、最初に顕現されたと考えられないだろうか。 主イエス・キリストを自分の救い主として信じ
受け入れ、バプテスマを受けてキリストにつく「神の子」とされた者は、「・・男も女もない・・」こと
を単に我々に知らせるためだけで、「女」に最初に現われたのではないと思われるのだ
が?・・・(ガラテヤ3章) また、マグダラのマリヤのように、「深く主を愛する者」「へりくだってい
る者」復活の主に出会うことができることを単に我々に教えられるためだけで、「女」に最初
に現われたのではないと思われるのだが?(Tコリント1:27-29) 以上のようなこと以外に「マ
グダラのマリヤ(女)」に最初に現われたことは、神の重大なご計画があったからではないかと
思うのだが・・?。 
 
どのような神のご計画か、それは昨年の@めんどり通信/2014年11月2日<最後の女エバが
主に用いられるということはあり得るか?:エリシャとシュネムの女から思考>Aめんどり通
信/2014年12月7日<推測、思考:恵みの選びによって主が真に救おうとしている人たちをキリ
ストにつなぐシュネムの女のような女があらわれて用いられるということが今後の神のご計画
の中にあるだろうか?>Bめんどり通信/2014年12月14日<エルサレムから東のほう「日
本」に注目:「シュネムの女」と「四人の女」から思考>でいろいろ思考して書いた通りである。 
厳密にはエバ(女)が最初に「罪」を犯した。 だから同じ「女」を用いて「回復」「復活」主がな
さること。 その「女」のことを「シュネムの女」「四人の女」、復活のイエス最初の証人
なった「マグダラのマリヤ(女)」のことで我々に教えておられるのではないだろうか? <@A
Bを祈りつつ、じっくり読んでみてほしい。>
 
もし、そうだとしたら、「女」が、今後、ある意味「鍵」となるのかもしれない。 この「女」は、「個
人」を指すのか、「教会」を指すのか、わからないが、もし「教会」だとしても、すべてのキリスト
教会ではなさそうである。 一部の「女」が今後、世界中に散っている主が定められた人を「キ
リストにつなぐ」という働きを、主から預かる可能性があるのかもしれない。 社会文化的状況
において周辺に追いやられた小さな者、弱い立場であった「女」の中から、「シュネムの女」
ような「女」が今後、登場するのかもしれない。 世界中に散らばっている失われた人を主が捜
して救われ、真に「キリストにつなげられた」者。 そこには、一本(一人)の光の柱が立ち上が
る。 超自然的で、この世の物ではない「シェキーナ」という「光の柱」が次々と立ち上がっていく
日が速やかに来るようにと祈る。 
 
ちなみに、マグダラのマリヤは、目の前におられるのが主イエスだとわかり、すがりつこうとし
た。 そのとき、主は「わたしにすがりついていてはいけません。わたしはまだ父のもとに上っ
ていないからです。」と言われた。(ヨハネ福20:17) しかし、時間差のないときに「彼女たちは
近寄って御足を抱いてイエスを拝んだ(マタイ28:9)」と書かれており、復活を疑うトマスには「あ
なたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしのわきに差し入れなさ
い。(ヨハネ福20:27)」と言われている。 「すがりついていてはいけません」「すがりつく」
は、NKJV訳「cling」という単語が使われている。 意味合いは「くっついて離れない、愛着を
もって離れない、執着する、しがみつく」である。 
 
要は、マグダラのマリヤは、復活の主イエスに、しがみついて離れない、執着してくっつこうとし
たのである。 マグダラのマリヤもエマオに向かっていた二人の弟子も、最初復活の主イエス
だと分からなかった。 生き返らせてもらったラザロは「肉のからだ」だったから、誰が見てもラ
ザロとわかったが、主イエスは復活されて「霊のからだ」になられた。(Tコリント15:44)  人
は、主に目が開かれて復活の主イエスだとわかるのである。(Tコリント12:3) マグダラのマリ
は、古い「すがりつき」をしていたと思われる。 もはや古きは終わった。 主は復活された
のである。 このときから、今日に至るまで、そして今後も復活の主イエス・キリストは、ご自身
を真に求める者と共におられ、真にキリストにつながろうと取り組んでいる者とつながって絶え
ず関わってくださる。 「新しいすがりつき」が始まっているのである。 主は、マグダラのマリヤ
にそのことを教えられ、そのことを使徒たちに伝える証人とされたのであろう。(ヨハネ福20:17
 
我々にとっても、すでに古きは過ぎ去っている。 主との「新しいすがりつき」「新しいつながり
方」の中にいる。 だから古きに囚われず、主が示しておられるみこころ、すなわち、「神の栄
光」があらわれ、世界中に「シェキーナ」が何本何百本も立つ事実を目撃したいものである。 
また、自分がその「光の柱」となるべく、絶えず主にしっかりとつながり、「新しいすがりつき」
で、主のもとにしっかりと留まっていたいものである。
 
★旧約聖書 詩篇 68:11
   主はみことばを賜わる。良いおとずれを告げる女たちは大きな群れをなしている。
 
★旧約聖書 箴言 8:17
   わたしは、わたしを愛する者を愛する、わたしをせつに求める者は、わたしに出会う。
 
 





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