めんどり聖書研究会


めんどり通信/2015年1月18日。主が復活された記念すべき日曜日です!ハレルヤ!
<終末に建て上げられる教会について:旧約の神殿と新約の教会から思考>



★新約聖書 マタイによる福音書 16:18
   ではわたしもあなたに言います。あなたはペテロです。わたしはこの岩の上にわたしの教
   会を建てます。ハデスの門もそれには打ち勝てません。
 
★新約聖書 エペソ人への手紙 2:14-2:16
   キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ちこわし、い
   る戒めの律法なのです。このことは、二つのものをご自身において新しいひとりの人に造
   り上げて、平和を実現するためであり、また、両者を一つのからだとして、十字架によって
   神と和解させるためなのです。敵意は十字架によって葬り去られました。
 
●モーセを筆頭にイスラエルの民たちが出エジプトしたとき、神はモーセに「幕屋」を造るように
命じられ「幕屋」の設計図を示された。 「幕屋」は、神の臨在を示す場所である。 それで、
「臨在の幕屋」とも呼ばれる。 この「臨在の幕屋」は、後にエルサレムに建てられる「神殿」
原型となった。 ダビデは恵みをいただいた神に、神のために住まいを建てたいと願ったが、
神は「主はあなたのために一つの家を造る。」と仰せられた。Uサムエル7:11) この「家」
は、ダビデが実際に住む家のことではなく、ダビデの子孫、ダビデ王の家系を意味する。 ダ
ビデ王の子孫、ダビデ王の家系がずっと続くという「約束のことば」である。 「神殿」は、ダビデ
の後を継いだソロモンによって、シオンの丘に建てられた。 ダビデは、神殿建設のための必
要な材料などを準備した。 そして、神殿建設は、ダビデが御霊 によって書いた「仕様書通り」
になされた。(1歴代28;11, 19-20)  これが「第一神殿(ソロモンの神殿)」である列王記上6
章〜7章) 
 
ところが、この「神殿」は、BC586年にバビロンによって破壊された。 その後、バビロン捕囚さ
れたユダの民がエルサレムへ帰還して、「第二神殿(ゼルバベルの神殿)」が再建された。(エ
ズラ記3章〜6章) また、この「第二神殿」もAD70年にローマによって破壊されてしまった。 ち
なみに、「第一神殿」が破壊された日と「第二神殿」が破壊された日は、同じ「アブの月の第9
日」であったという。 「アブ」は、ヘブライ語で古代の暦の「第5月」であり、西暦では7〜8月に
相当する。 
 
「第二神殿」は、いわば「神殿」の再建であるが、神は、ペルシャのクロス王に「神殿再建」の命
令を与えられた。 「第二神殿」と言うとき、「ヘロデ神殿」と呼ばれることがある。 後に、エドム
人であるヘロデ王が、自分のために大改修工事を行って立派な建築物としたからである。 し
かし、規模も小さく、みすぼらしいものだったが、ゼルバベルの指揮のもと建てられた「第二神
殿」こそが、「第一神殿」と同じように神が承認されたものであるようだ。
 
この「神殿再建」に関して、その時から約150年前の預言者イザヤによって預言されていた。 
その預言には、クロスの名が明確に預言されていた。(イザヤ45:1〜4、44:28)  、総督ゼル
バベルと大祭司ヨシュアが率いる捕囚の民はユダの国に帰還し、自分たちのもとの町々に住
みついた。(エズラ1:11、2:2、2:70) この年は、エレミヤが預言し、ダニエルがその預言を
悟った「エルサレムの荒廃が終わるまでの年数が七十年目」にあたる年だった。(エレミヤ2
9:10、ダニエル9:2) 「第二神殿」建設は、捕囚からエルサレムに帰還して来たすべての人々
が、感動をもって 一致して工事に当たった。 何もかも「主のことば」通りであり、「神のご計
画」通りである。 神の定められた「時」こそが「最善の時」であるからだ。
 
神殿の再建は、最初、順調に進められたが、途中、神殿工事に対するサマリヤ人たちからの
妨害があり、中断した。 サマリヤ人が、「私たちも、あなたがたといっしょに建てたい。私たち
は、イスラエルの神を礼拝しているから。(エズラ4:2)と言ってきた。 しかし、ゼルバベルとヨ
シュアとその他のイスラエルの一族のかしらたちは、「私たちだけで、イスラエルの神、主のた
めに宮を建てるつもりだ。」ときっぱり断った。(エズラ4:2) 断った理由は、サマリヤ人は、ユ
ダヤ人の純粋性を失っていたこと。 すなわち、サマリヤ人は、イスラエル人と異邦人の混血
であり、彼らの宗教も異邦人の信仰と慣習が混じり合ったものであった。 また、ゼルバベル
ヨシュアたちは、彼らの本心を見抜いていたこと。 すなわち、彼らの心底には、自分たちは、
先にこの地に定住しているのに、後から来た、それも捕囚から帰還したユダヤ人が、自分たち
の土地であるかのように神殿を再建しようとしていたことが、面白くないという思いが潜んでい
たと思われる。
 
さて、「神殿」というとき、「この神殿をこわしてみなさい。わたしは、三日でそれを建てよう。」
言われたイエスに、ユダヤ人たちは、「この神殿は建てるのに四十六年かかりました。あなた
はそれを、三日で建てるのですか。」と言った。 しかし、これは「イエスはご自分のからだの神
殿のことを言われたのである。」と書かれている。(ヨハネ福2:19〜21) すなわち、「キリストの
からだ」である「教会」こそ、「神の神殿」であるということだ。 また、パウロは「あなたがたは神
の神殿である(Tコリント3:16)」と言っている。 そして、その「教会」を、イエスは「わたしはこ
の岩の上にわたしの教会を建てる。」と言われた。(マタイ16:18)
 
このようにしてみると、旧約の「神殿」の歴史を譬え(たとえ)、型として、「教会」に当てはめて
見ることも可能かもしれない。 「第一神殿(ソロモンの神殿)」は、イエスの予表と言われる
ビデが、神殿建設のため材料、費用、御霊から示された神殿の仕様書、神殿礼拝における
組織・・などを準備した。 これは、初期の「教会」は、イエスがペテロやヤコブたち使徒を準備
されたのと同じであろう。 パウロもイエスよって準備された者である。 そして、使徒たちに
よって初期の「教会」が誕生、建てられた。 「第一神殿(ソロモンの神殿)」に相当する「第一教
会(初期の教会)」である。 
 
「第一神殿(ソロモンの神殿)」は、バビロンによって崩壊した。 イスラエルの民の偶像礼拝な
どの罪に対する神の裁きだった。 「第一教会(初期の教会)」も同じようなものである。 それ
は、「教会」がローマ帝国の国教となって「教会」の中に人間の考えや解釈が徐々に浸透し
始めたこと。 すなわち「教会」の中に「世」が入り出したということである。 そして遂に「免罪
符」などを発行するくらいカトリック教会は腐敗し堕落した。 「教会」の堕落、それは、神から見
られて「第一教会(初期の教会)」の崩壊と言ってもいいくらいである。 
 
「第二神殿」は、規模は小さかったが、感動をもって 一致したユダの民たちが再建した。 一
方、「教会」は、強大な権力を有していたカトリック教会が堕落したので、ルターが抗議し、感動
をもってルターと心を同じくする人や多くの人たちによって宗教改革が推し進められ、新しい
「教会」作りがなされた。 ある意味、プロテスタントは「第二神殿」の型と見ることができるか
もしれない。 「第二神殿」は、ヘロデによって、ユダヤ人たちに気に入られるように、外側はソ
ロモンに負けない豪華な建物に改修された。 しかし、AD70年、ローマによって破壊されてし
まった。 
 
一方、「第二教会(プロテスタント)」は、最初は規模は小さかったが、だんだん大きくなっていっ
た。 熱心な伝道者たち、宣教師たちの登場もあるが、プロテスタントも世に気に入られる教え
を導入するようになってきた。(めんどり通信/2008年12月28日参照) 現在の「第二教会(プロ
テスタント)」は変質してきたようである。 黙示録では、サルデスの教会としてプロテスタントの
ことが書かれているが、このサルデスは「神のことば」から離れてしまっているという。 実際、
現在においても、そのように見受けられる。 サルデス(プロテスタント)の教会の中に、「世」
けでなく、「悪しき霊」「聖霊」と偽って入って来ているからだ。 まさしく、神から見られると「第
二教会」の崩壊である。 
 
エルサレムに「第三神殿」が建てられると多くの教会が言っているが、実際のところはどうなの
だろうか? いずれにしても、「教会」は「第三教会」というより、「わたしの教会をわたしが建て
る」とイエスが仰せられた「教会」が建て上げられることが、聖書的である。 それは、「第一教
会(初期の教会)」「第二教会」の再建というより、更に進んだ「キリストのからだ」であり、「キリ
ストの花嫁」である。 AD70年から止まっていた歴史が始動し、神から見られると堕落したカト
リック、プロテスタントとは違う「フィラデルフィヤの教会」が建て上げられる。(黙示録3:7〜13) 
イエスが建てられた教会は、「フィラデルフィヤの教会」と言えるだろう。 ただ、この「フィラデル
フィヤの教会」にも、「あなたの冠をだれにも奪われないように、あなたの持っているものをしっ
かりと持っていなさい。」と言われている。(黙示録3:11) また、終末には、冷たくもなく、熱くも
ない、なまぬるいラオデキヤの教会も存在する。 
 
「教会」とはギリシア語のエクレシア「召し出された会衆」「集会・集合」という意味である。 さ
らにはその集合体、その共同体を指す。 「フィラデルフィヤの教会」は、主によって「召し出さ
れた者」、主によって「残された者」たちの集まりと言えよう。 いつの時代にも、神が残してお
られる「残りの者」がいる。 そして「主の時」が来れば神はその「残された者たち」を集めようと
なさる。ただ、この集まりは、「キリストの見えない体」の中に入れられており、神から見られる
と「一つ」であるが、外側から見ると、今までの教会の形ではないのかもしれない。 世界は
「真っ暗」ではない。 「この世の王はサタン」ではあるが、今までのキリスト教会の歴史の中で
「命」をかけて主に仕えてきた「器たち」、神が「良し」とされた「器たち」の働き、生きざまを、神
は全く無駄なものとはされていない。 だからサタンの勢力が強くても、世界は真っ暗ではなく、
「薄暗い」までの状態であると思われる。
 
しかし、「薄暗い」状態は神のみこころではない。 本当は、まばゆい「シェキーナ」という超自
然的な「光」輝く、「神の栄光」が現われているべきである。 現在すでに、世界中に、キリストに
しっかり繋がり続けている「光の柱」を神は起こそうと準備されておられると思われる。 そのよ
うな者たち「残された者」を、神は集めようとされておられる。(めんどり通信/2014年11月2日
/12月7日/12月14日参照) 
 
パウロは「以前は遠く離れていたあなたがたも、今ではキリスト・イエスの中にあることにより、
キリストの血によって近い者とされた」と言っている。(エペソ2:13) イスラエルがメシヤ(キリス
ト)を拒んだことによって、かえって、救いが異邦人、すなわち、すべての人にもたらされた。
(ローマ11:11) キリストが十字架にかけられたことにより、律法は破棄され、すべての人が、
キリストによって「神のあわれみ」を受けることができるようになった。 ユダヤ人と異邦人が、
キリストにあって「新しい一つのからだ」となる。 ユダヤ人も異邦人も「キリストの見えない体」
の中に入れられるということである。 世界中に立ち上がってくる「光の柱」には、ユダヤ人
邦人もいるのであろう。 
 
とにかく、「キリストの花嫁」、パウロがいう「新しいひとりの人」の中に組み込まれる者となりた
いものである。 まず、今は「フィラデルフィヤの教会」に入り留まること、すなわち「キリストにつ
ながり続けること」に取り組みたいものである。 取り組むときに重々、心して臨まなければなら
ないことは、「第二神殿(ゼルバベルの神殿)」の再建のときのように、必ず「妨害」があるという
こと。 また、一人一人に応じて、「忍耐」しなければならないような「訓練試練」を通るということ
である。 聖霊の導きに正しく従って行けるためにも、「主と主のことば」の前にへりくだってい
きたいものである。
 
★新約聖書 エペソ人への手紙 1:23
   教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ち
   ておられるところです。





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