めんどり聖書研究会


めんどり通信/2016年2月21日(日曜日)主が復活された記念すべき日曜日です!ハレルヤ!

推考、思考:神の計画、目的に関して重要と思われる聖書の中の女について 2018年3月25日付修正文。


新約聖書 ガラテヤ人への手紙 32628

   あなたがたはみな、キリスト・イエスに対する信仰によって、神の子どもです。 バプテスマ

   を受けてキリストにつく者とされたあなたがたはみな、キリストをその身に着たのです。 

   ユダヤ人もギリシヤ人もなく、奴隷も自由人もなく、男子も女子もありません。なぜなら、

   あなたがたはみな、キリスト・イエスにあって、一つだからです。

 

新約聖書 コリント人への手紙 第一 111112

   とはいえ、主にあっては、女は男を離れてあるものではなく、男も女を離れてあるもので

   はありません。 女が男をもとにして造られたように、同様に、男も女によって生まれるの

   だからです。しかし、すべては神から発しています。

 

新約聖書 ヨハネの黙示録 1212

   また、巨大なしるしが天に現われた。ひとりの女が太陽を着て、月を足の下に踏み、頭に

   は十二の星の冠をかぶっていた。 この女は、みごもっていたが、産みの苦しみと痛みの

   ために、叫び声をあげた。

 

旧約時代からずっとユダヤ世界だけでなく、キリスト教会においても家父長制社会の影響で

男性中心の世界観、価値観、男女観になっていると言われる。 そのため、聖書を編纂すると

きに改ざんが行なわれたのではないかとも言われているという。 例えば、ローマ167

「私の同国人で私といっしょに投獄されたことのある、アンドロニコとユニアスにもよろしく。この

人々は使徒たちの間によく知られている人々で、また私より先にキリストにある者となったので

す。(新改訳)」の中の「アンドロニコとユニアス」は、口語訳、新共同訳も同じである。 ところ

が、KJV訳、NKJV訳では「ユニアス」、「ユニア(Junia)」となっている。 有名なNIV訳聖書

「ユニアス(Junias)」となっている。 「ユニアス」は男性名で、「ユニアは女性名」だという。 

 

だから、本来、「ユニア」という「女性の使徒」であったのが、いつの間にか男性に書き換えられ

たものだと見なされているという。 しかし、一方、ギリシャ語原文では四格《ユニアン》で用いら

れているので、主格が「ユニアス(男性)」「ユニア(女性)」かが明確にわからないので五分

五分だという。 どうも女性の使徒を認めるか認めないかによって分かれているようだ。 初期

のギリシャ教父たちは、「ユニア」を女性と理解してアンドロニコの妻として語っているという。 

ちなみにNIV訳聖書は、名訳として評判のKJV訳(欽定訳)と比べて56万語以上の単語が

削減されているという。 一概に有名であるから正しいとは言えないようだ。

NIV訳聖書2011年版は「ユニア(Junia)」となっているという。 1984年版は「ユニアス(Junia

s)」だったようだ。いずれにしても、NIV訳聖書は、主イエスの神性を否定するという意見もあ

るようだ。

それでも主なる神は、今日まで、そのことさえも許しておられたのかもしれない。 著者は思う

に、重大な改ざんがあったとしても、主に真に頼る者が、その改ざんされたことばによって、

が定められた道を歩むことができなくなる恐れがあったり、主のご計画、ご目的があって、その

人に真実を教えようとされるときには、主の導きにより教えてくださるのではないかと思ってい

る。 肝要なことは、いかに主と自分の交わりを確固たるものになっていくか、その交わりがキ

リストへの愛をもって主と親しく、深くしていくか、そのことの方に焦点を定めることだと思ってい

る。 主は、男も女も、大人も子どもも、ユダヤ人もギリシヤ人(異邦人)も、みな区別なく、とも

にキリストを通して神の御前に近づくことができるようにしてくださったからである。(ガラテヤ

328

 

さて、聖書の中の「女」について著者が気になる「女」の名まえを挙げてみる。 彼女たちが、神

のご計画の中の重要な役割、位置になっているのではないかと推考している。 以前のめんど

り通信で取り上げたイエスの系図の中の「四人の異邦人の女」である。@タマル(アラム人)、

Aラハブ(カナン人)、Bルツ(モアブ人)、Cウリヤの妻(バテ・シェバのこと:ヘテ人)である。 

四人の共通点は、「女」であること、「異邦人」であることだ。 また、四人とも、ある意味、曰く

付きである。(めんどり通信/2014年12月7日。参照) ちなみに、マタイの系図は、ヨセフの系

図であり、ルカの系図はイエスの母方マリヤの系図である。 マタイによる福音書には、アブラ

ハムからイエスまでの系図が書かれており、ルカによる福音書には、イエスから始まってアダ

ムまで遡(さかのぼ)った系図が書かれている。

 

「四」という数字は、聖書においては宇宙、世界をあらわすと言われているが、「四人のらい病

人(U列王記7章)」や、ペテロに示された「天が開けて、四隅をつるされた布のような 入れ物」

の幻(使徒10章)などから、「神の救い」が世界中に広がっていくこと、どのような人(罪人)でも

キリストを信じる信仰によって救われること、すなわち「救い」が、この「四」という数字に共通し

関係しているのではないかと思う。 ことにイエスの系図に出てくる「四人の女」が、「キリストの

救い」に関して重要な役割を担い、重要な位置を占めているのではないかと思うのだが、どう

だろうか。(めんどり通信/2014年12月7日の分を参照)

 

また、その他、気になる「女」が、@エバAマグダラのマリヤB黙示録12章の女である。 

@エバについて。 神は、「われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。」と仰

せられて、人をご自身のかたち(神のかたち)、すなわち、人を男と女とに創造された。(創世

126,27 言いかえるなら、男と女とに創造されたことが、われわれのかたち(神のかたち)

である。 エバは、アダムの「ふさわしい助け手」としてアダムのあばら骨の一つから造られた。 

そして、エバが先に蛇に惑わされて、罪を犯した。(創世記3章、Tテモテ214) 

 

ただ、「ふさわしい助け手」とは、原語では、「顔と顔を向け合っている相手」、「彼と向き合う者

としての助け手」といった意味だという。 また、「助け手」というのは、原語のヘブル語では、何

ら従属の意味は含まれず、むしろ神を形容する高貴な言葉であるという。 男アダムと女エバ

は、共に語り合い、共に助け合う「対等に向き合えるパートナー」であったということであり、ふ

たりは一体である。 すなわち、一つであるということだ。 互いに愛し合うという「愛の関係」

「愛の交わりの関係」である。 そして、それが、神のかたちである。 めんどり通信/201411

2<最後の女エバが主に用いられるということはあり得るか?:エリシャとシュネムの女か

ら思考>で取り上げたように、最初のエバである。めんどり通信/2014年2月16日/2014

223/2015年2月15日参照)

 

次に、Aマグダラのマリヤについて。 マグダラのマリヤについて聖書からの情報は少ない。 

七つの悪霊を追い出してもらったこと、十字架に磔(はりつけ)にされたイエスを最後まで見

守ったこと、週の初めの日の早朝、墓に行ったこと、イエスの復活のことを他の弟子たちに伝

えるように御使いから言われたこと、復活の主の顕現を一番最初に受けたことである。(マタイ

2728章、マルコ1516章、ルカ82,2410、ヨハネ福19,20章) 「復活」はキリスト教にとって

「十字架の死」と同様、キリスト教にとって「神髄」である。 

 

ガリラヤからイエスについて来ていた女たちは、遠く離れて立ったままで、十字架上で死なれ

たイエスを見ていた。 見るに耐えない光景だったと思われる。 イエスの埋葬の時には、他の

男の弟子たちはいなかったが、女たちはそこにいた。 その中にマグダラのマリヤがいた。 

マグダラのマリヤは、キリスト教の神髄と言われる「十字架の死と復活」に関わっている。 「復

活」があるから、主イエス・キリストを信じる者の罪は赦され、生きることができるのである。 そ

「復活」の主に最初にお会いしたということは、神のご計画の中で重要な役割を担い、重要

な位置を占めているのではないかと思う。めんどり通信/2015年11月1日/20121216

/2015年4月12日<なぜ、復活の主は最初にマグダラのマリヤに現われたのか?参照> 

 

B黙示録12章の女について。 12章の女が太陽を着ているというのは、その女の内から目が

開けられないほどまぶしいほど光輝いているということであろう。 月は、「女」が主から与えら

れて語るメッセージかもしれない。 「女」は、キリストにしっかり繋がり続けている「光の柱」とな

るべき者を引き上げるため、産みの苦しみと痛みをしていると思われる。 すなわち、試練苦難

の道を通っていると推察される。 この黙示録12章の女は、最後のエバであり、シュネムの女

かもしれない。めんどり通信/2014年11月2日<最後の女エバが主に用いられるということは

あり得るか?:エリシャとシュネムの女から思考>参照◆光の柱について/20141214

/2015118/2015412参照)

 

ちなみに、「女」は、「四人の女」エバマグダラのマリヤのように個人のことなのか、「女」

たとえられる「教会」なのか、時が来ればはっきりするのではないかと思った。 以上のように

推考してみたが、従来の教理とは違う、異端だと非難されるかもしれないが、今の時は、教会

のあり方や聖書のことばの解釈においても今までとは違うのではないかと思っている。 すな

わち、教会で習った教理や註解書、神学書などから得た知識などの先入観、キリスト教会の

常識などを介入させず、ただ、心の奥底、霊が神の御前にへりくだって、主なる神と一対一の

交わりをしながら、一つ一つ、主に神のみこころを尋ねていくことをすべきであると思っている。 

主が定められた道を進んで行けば行くほど、今まで考えられなかったようなことか開かれる可

能性はある。 いずれにしても天の御国へと確かに通ずる道を歩んでいきたいものだ。 

 

新約聖書 ルカによる福音書 817

   隠れているもので、あらわにならぬものはなく、秘密にされているもので、知られず、また

   現われないものはありません。

 



めんどり聖書研究会