めんどり聖書研究会


めんどり通信/2014年2月16日。主が復活された記念すべき日曜日です!ハレルヤ!
<人には、どうしてもキリストが必要である!アダムとエバから学ぶ>


★旧約聖書   申命記 30:19
  私は、きょう、あなたがたに対して天と地とを、証人に立てる。私は、いのちと死、祝福との
  ろいを、あなたの前に置く。あなたはいのちを選びなさい。あなたもあなたの子孫も生き、
 
★旧約聖書  創世記 3:6
   そこで女が見ると、その木は、まことに食べるのに良く、目に慕わしく、賢くするというその
   木はいかにも好ましかった。それで女はその実を取って食べ、いっしょにいた夫にも与え
   たので、夫も食べた。
 
創世記は、今までに相当な回数、読んできたが、最近また読み始めると「なぜだろう?」「ど
うしてなのか?」などと考えさせられることが出てきた。 主なる神は、「我々にかたどり、我々
に似せて、人を造ろう。」と仰せられ、土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込
まれ、最初の人間アダムを造られた。(創世記1:26、2:7)  そして海の魚、空の鳥、家畜、地の
獣、地を這うものすべてを支配させることをご計画された。 それからエデンの園に人を置か
れ、人がそこを耕し、守るようにされた。  また、神は人を愛しておられたので、人に自由意志
を与えられた。
 
主なる神は、人が園のどの木からも思いのまま食べることを良しとされたが、「善悪を知る木
からは取って食べてはならない」ことを人に命じられた。 それを食べるなら、「必ず死ぬ」こと
も仰せられた。 その後、主なる神は、人がひとりでいるのは良くないと、アダムにふさわしい
助け手を造ろうとされた。 神は家畜や空の鳥などを造られたとき、アダムのところに連れて来
られたが、アダムふさわしい助け手が、見あたらなかった。
 
それで、神は人を深く眠らせ、彼あばら骨の一つを取って、ひとりの女を造られた。 人は、
その女を見ると「これこそ、ついにわたしの骨の骨/わたしの肉の肉。」と言ってとても喜ん
だ。(創世記2:22) それから、どのくらいの時間が経過したのかはわからないが、ある時、蛇
がその女、エバのところに来て善悪を知る木の実を食べさせるために誘惑した。 「園にある
どの木からも取って食べるな、などと神は言われたのか? 」「決して死ぬことはない。」「そ
れを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ。」と言っ
た。 (創世記3章) 
 
このような 蛇の言葉は、神がそのようなことを言われるはずはない。 むしろ、アダムの聞き
間違いであるかのように思わせながら、「神のことば」と正反対のことばを言い、その上、神に
対して悪意を持たせるような巧妙な言い方だった。 アダムとエバが「死ぬ」ことについて、どの
程度、知っていたかはわからないが、もし、死んだなら神との交わりが絶たれるということは、
わかっていたのではないかと思われる。 アダムとエバは、神との交わりが絶たれることを望
んでいなかったと思われる。  だから蛇が「決して死ぬことはない。」と言った言葉を、安易に
受け入れたのだろう。
 
それにしても、蛇がエバを誘惑していたとき、どうも側(そば)にアダムは一緒にいたようであ
る。(創世記3:6)  それならば、エバが蛇に答えている言葉を聞いて、何故、違うと止めなかっ
たのだろうか?  主なる神から、命令である「神のことば」を直接、聞いたのは、アダムであ
る。 神が命じられたことは「善悪を知る木からは取って食べてはならない」という一つの命令
「それを食べたら必ず死ぬ」という一つの理由である。 エバはアダムから聞いていたと思わ
れるが、「それに触れてもいけない」「神のことば」に付け足し、「死ぬといけないからだ」と曖
昧な言葉に変えて言っている。  アダムはそこで毅然と正しい「神のことば」を言って、蛇を追い
出すべきだった。
 
しかし、黙っていた。 エバが蛇のことばを受け入れると、「食べるな」と神に命じられていた善
悪を知る木の実は、「食べるに良く、目には美しく、賢くなるには好ましい」と思えたと書かれて
いる。 それはエバだけでなく、アダムもそのように思えたのではないだろうか。 しかし、この
時点ではまだ罪は人の中に入ってきていないから、アダムとエバは最初の「神の命令」「神の
ことば」に返ることができたはずである。 彼らには、「食べるのか」それとも「食べないのか」と
いう選択の自由が与えられていた。 「自由意志」は、罪が入る前、罪が入った後に関係なく、
人に任されている。 しかし、彼らは食べてしまった。 そして罪が人の中に入ってきた。 罪は
人を神から引き離す。 アダムとエバは、御顔を避け、園の木の間に身を隠した。
 
罪が入る前、神とアダムの関係は、愛の交わりではあるが、創造主と被造物、「支配する側」と
「支配される側」、すなわち縦の関係であった。 「支配される側」と言っても無理強いではなく、
人の「自由意志」でもって、主である「神に従う」ということである。 だから蛇の言葉を受け入れ
るまで、アダムは神の御前におるべき位置に留まって交わりをしていた。 おるべき位置に留
まっていることが、神を最優先していることであり、本当の「へりくだり」である。
 
「ふさわしい助け手」というとき、他の生き物はアダムが「支配する側」であり、アダムと一体と
なることができないから、「ふさわしい助け手」とはなり得ない。 「ふさわしい助け手」とは、支
配したり支配されたりではなく、「主なる神の支配のもと」で、愛と信頼の交わりを伴うものであ
る。 しかし、アダムは「ふさわしい助け手」のエバを与えられたとき「私の骨の骨。肉の肉。」
と大いに喜んだ。 しかし、このとき、主なる神よりエバを優先するような「思い」「感情」などを
持ち始めたのではないだろうか? これが、蛇の誘惑にやられた原因ではないだろうか? ア
ダムは意識してか無意識かはわからないが、エバを優先し始めたときから、心が神から離れ
始めたのかもしれない。 神抜きで、すなわち神の支配から離れたところで一体となり始めた
可能性はある。 「神の支配のもと」「ふたりは一体となる」ことが「神の御心」である。 「神の
支配のもと」。 今日、「キリストにあって」ということが重要であるのと同様だ。
 
また、神よりもエバを優先し始めると、自分が支配される側ではなく、支配する側を望んだ可能
性がないとは言えない。 蛇の「神のようになり、善悪を知るようになる」という言葉を否定せず
受け入れたからである。(創世記3:5、6)  むしろ「神のようになり、善悪を知るようになる」とい
う言葉に惹かれたのではないだろうか? しかし、「神のようになる」と言って堕落したのはサタ
ンである。(イザヤ14:14) この蛇のことばを受け入れたということは、蛇と同じような「思い」
「願い」を持ったということであろう。 まだ、罪が入っていなくても、罪を受け入れる入り口が開
いたということであろう。
 
このようにして見ると、我々人間は、罪が入る前から弱さがあり、曖昧さなどがあって、与えら
れている「自由意志」を正しく用いて、「正しい選択」をすることができない者であることがわか
る。 「正しい選択」とは、「神を基準とした」「神が良しとされた」「選択」をすることである。 
また、「思い」「願い」などが清められなくてはならないことがわかる。 
 
今日、我々人には、キリストの十字架の救いが与えられている。 自分は罪人であることを認
め、悔い改めて、真に「イエス・キリストは我が救い主」と信じた者に与えられる「救い」である。 
イエスの十字架の死によって、我々の罪(原罪)が赦されただけでなく、それまでの罪も許され
た。 その時の状態は、罪が入る前のアダムとエバのようだ。 だからと言って、その後、罪を
犯さないわけではないし、自我の砕きや肉(生まれながらの神に従うことができない性質)の切
り取り、清めは必須である。 だから、我々人には、キリストがどうしても必要である。 我々に
とって「罪がある」ことは、死後の行く末に関わることであるからだ。 
 
主イエスはこの地上で公にキリストとして歩まれたとき、我々に模範を残された。(1ペテロ2:21)  
罪がアダムとエバに入る前、彼らが自分たちの「思い」「願い」を制することができなかった
が、イエスは十字架に掛けられる前、ゲツセマネの園での血を流すような祈りの中、ご自身の
「思い」「願い」すなわち「この杯をわたしから過ぎ去らせてください。」と祈られたが、「わたし
の願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください。」と父なる「神のことば」「ご
計画」を選択された。(マタイ26:39) 罪が入る前のアダムとエバができなかった「正しい選択」
をされた。 そこにもキリストの足跡を残してくださっている。 キリストは罪を処分してくださった
だけでなく、罪が赦された(許された)後の人が歩むべき模範も残してくださっている。  
 
だから、我々はこの模範であられるキリスト、信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目
を離さないことが大切である。(ヘブル12:2) 目を離さないとは、キリストに頼り続けることであ
る。 絶えず、「主なる神の支配のもと」で、私たちの主イエス・キリストとの交わりをしていきた
いものである。(Tコリント1:9) そして「選択」が必要なときには、キリストにあって自由意志を
用いて、「正しい選択」をしていきたいものである。 (アダムとエバからの学び。めんどり通信
 
★新約聖書  マタイによる福音書 26:39
   ・・・「わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わた
   しの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください。」
 
★新約聖書 ペテロの手紙 第一 2:21
   あなたがたが召されたのは、実にそのためです。キリストも、あなたがたのために苦しみ
   を受け、その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を残されました。



めんどり聖書研究会