めんどり聖書研究会


めんどり通信/2015年2月15日。主が復活された記念すべき日曜日です!ハレルヤ!
<日々の「思い」、「考え」などが主に喜ばれるように:アダムとエバから推測しながら学ぶ>



★旧約聖書(口語訳) 詩編 104:34
   どうか、わたしの思いが主に喜ばれるように。わたしは主によって喜ぶ。
 
★新約聖書 コリント人への手紙 第二 5:9
   そういうわけで、肉体の中にあろうと、肉体を離れていようと、私たちの念願とするところ
   は、主に喜ばれることです。
 
●神は「人」をご自身のかたちに創造された。(創世記1:26,27) 神は「人」と愛の交わりをする
ために、「人」を特別な存在として創造された。(創世記1:28、5:2) 神はアダムとエバを創造
され、愛の交わりをされた。 ところが、その愛の交わりは、アダムとエバが、罪を犯したため
に、絶たれてしまった。 しかし、神は、人を救うために壮大なご計画を立てられた。 人を救う
ための壮大な神のご計画は、今や大詰めを迎えていると言っても過言ではない。 
 
さて、人祖アダムとエバのことは教会でもよく聞かれるし、一般的にも知られている。 アダムと
エバについて、旧約聖書2章〜5章にかけて書かれているが、人祖と言われる割には情報と
して少ない。 ゆえに推測を入れて思考しながら学んでいきたいと思う。 
 
アダムとエバが、「善悪の知識の木」の実を食べるまでは、彼らの中に罪は入って来ていな
かった。 「思う」こと「考える」こと「行動する」ことにおいて自由だったと思われる。 与えられ
ていた自由意思(意志)を存分に使って、「神との交わり」を楽しんでいたであろう。 神との愛
の交わりをしていた彼らは、「死」とは無縁であった。 目が開けていなかったから、神のような
「善悪を知る」ことはできなかったであろうが、「神との交わり」を楽しむだけの知識や神との意
思疎通ができる知識は十分にあったと思われる。 だから、神もアダムとエバに、いろいろなこ
とを教えておられたのではないだろうか。 
 
教えられたアダムとエバは、「神のみこころ」「神の喜ばれること」を学びとっていた可能性は
ある。 ただ、「悪」について、「サタン」については教えられていなかったのかもしれない。 ま
た、神がアダムに語られた「善悪の知識の木からは取って食べてはならない。」という、たった
一つの神の命令について、神とアダムとエバの交わりのとき、話題に出なかったのだろうか? 
この命令の「神のことば」についてエバは、アダムから聞いただけの又聞きのままだったのだ
ろうか? などいろいろ、わからないことが多い。 ただ、へびが近づいてきてもエバは警戒し
なかったということは、「悪」について、「サタン」について、「神の命令のことば」について、エバ
は神から直接、聞いていなかったのかもしれない。 エバと一緒にいたアダムも「悪」「サタ
ン」について神から聞いていなかったのかもしれない。
 
よく、聞くことに、「なぜ、神は、園の中央に取って食べてはならない善悪の知識の木を植えら
れたのか?」 「なぜ、神はアダムとエバが罪を犯さないように、善悪の知識の木の回りに柵を
作るなり、近づけないようにして二人を守られなかったのか?」というのがある。 これらの答え
として、「主なる神のなさることはすべて正ししい。」(ダニエル9:14)こと、「神は、人の心を試さ
れる方」であること、神は人が自由意志をもって「神のことば」に従うことを望まれていること、と
いうことが言えると思われる。 神は人を自分の意志を持たないロボットとして造られたのでは
ないからだ。
 
神は、神との交わりによってアダムとエバが、「神のみこころ」「神の喜ばれること」を知り、そ
れを彼らの「自由意志で正しく選択する」こと、また、わからない時、迷った時には、「神ご自身
に頼る」ことができるようにと教えておられたのではないだろうか。 だから、「善悪の知識の
木」の回りには、柵も防護壁も作らなかったのではないだろうか? 蛇が誘惑にくることは神の
想定内だったかもしれない。
 
宝石鑑定士は本物の石をたくさん見て、本物ばかりを研究追及していくというのを聞いたこと
がある。 そうすれば、偽物を見破ることができるようになると言われている。 そのように、と
にかく本物を多く見ること、本物に多く触れること重要である。 本物の神から直接聞くこと
神との交わり何度も何度もしていくこと、そのようにして、アダムとエバは神を知っていった
思われるが、彼らは、どれほど、「神ご自身を知る」ことに注目したのであろうか? 「神のみこ
ころ」「神の喜ばれること」ことに、どれほど、注目したのであろうか? 直接、神から聞き、交
わっていたので、あえて「神ご自身を知る」ことに改めて注目する、優先するということが希薄
だったのかもしれない。 
 
彼らが、本物の神から直接語られる「神のことば」雑談であったとしても、その中で語られる
「神のことば」に注目し、「神のことば」を優先していたなら、蛇の言葉は、「神のことば」と違うと
いうことで蛇の言葉の中にある「嘘」に気づいたかもしれない。 蛇の言葉のすべてが「嘘」
はなかったが、真理の中に巧妙に「嘘」が隠されていたのである。 その「嘘」に気づかなかっ
たから、自由意志を正しく用いることができなかったと推測できる。 
 
すでに生まれながらに罪が入っている我々人から、特にクリスチャンから見たなら、「それは神
に喜ばれない思いだ」「そういう考えは、聖書からすると神の御心ではない」「罪ではない
が、神が喜ばれるとは言えない」と判断されるような「思い」「考え」がアダムとエバにも、あっ
たかもしれない。 しかし、アダムとエバは神と直接、交わりをしていたのだから、神と交わるこ
とによって「神の喜ばれること、喜ばれないこと」「神のみこころ」などを徐々にでも悟っていく
べきだったと思われる。 人が創造されて、エデンの園で過ごした期間、「善悪の知識の木」
園の中央に植えられてから蛇の誘惑を受けるまでの期間が、どのくらいあったのか、わからな
いが、自分たちの「思い」「考え」「感想」「感じ」など心の奥にあるものまで、神との交わりの
ときに、尋ねていくなり、話すなりして光の中に打ち出していく必要があったのかもしれない。 
 
ただ、罪もなく、死も知らず、平安なときばかりを過ごしていたアダムとエバにとっては、なかな
か、そのようなことは、わかりづらくて難しかったのかもしれない。 だから、蛇の誘惑という「試
し」の時が来たときには、いちころだったのかもしれない。 もしかしたら、神は、そのことも想
定内だったのだろうか? その後の神のご計画が、あまりにも壮大ですばらしいから、そのよ
うにも思えるのだが、どうだろうか・・?
 
いずれにしても、アダムとエバから推測して学ぶことができることは、必ず、人には神によって
「試し」があるということ。 そのときに、「神の試し」に合格するには、日々の生活でいかに「主
と交わり」「主の御心」を知っていくかが必須であること。 日々の生活の中で心の奥にある
「思い」「考え」「感じ」「感情」などを、神の御前に、人の前にも正直に光に出していくこと。
(エペソ5:12,14) 絶えず、「主に頼ること」が大切であるということだ。
 
我々人には、すでに、「罪」「死」に打ち勝たれたイエス・キリストがおられる。 だから、この
リストとともに、すなわち、キリストを足場にしたところで「善悪を知る」こと、「善悪を判断する」
ことをしていきたいものである。 主なる神、イエス・キリストは本物である。 本物の神であら
れる。 その主イエス・キリストを心から信じ受け入れて赦された罪人の我々は、日々の生活で
「主と主のことば」を優先していくことに注目していきたいものである。
 
★新約聖書(新共同訳) エペソ人の手紙 1:4-6
   天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にし
   ようと、キリストにおいてお選びになりました。 イエス・キリストによって神の子にしようと、
   御心のままに前もってお定めになったのです。 神がその愛する御子によって与えてくだ
   さった輝かしい恵みを、わたしたちがたたえるためです。
 




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