めんどり聖書研究会


めんどり通信/2017年7月23日(日曜日)主が復活された記念すべき日曜日です!ハレルヤ!
<「もし盲人が盲人を手引きするなら、ふたりとも穴に落ち込む」についての思考>


★新約聖書 マタイによる福音書 15:14  
   彼ら(御言を聞いてつまずいたパリサイ人と律法学者たち)をそのままにしておけ。彼らは
   盲人を手引きする盲人である。もし盲人が盲人を手引きするなら、ふたりとも穴に落ち込
   むであろう」。
 
★旧約聖書 申命記 27:18  
   『盲人を道に迷わす者はのろわれる』。民はみなアァメンと言わなければならない。
●イエスが言われた冒頭のみことば「もし盲人が盲人を手引きするなら、ふたりとも穴に落ち
込む」について、いろいろ考えてみた。 盲人と言っても、肉体の目が見えないというのではな
く、むしろ、霊の目、心の目が見えないということである。 霊的に見えないと言うことは、霊で
ある神のみこころが、わからないということである。 もちろん、我々人は、神の御心のすべて
を知らされるわけではない。 そこには、神の領域がある。 人には知らされていない多くの部
分があり、それらの中には、今後知らされることもあるだろうが、知らされないこともある。 
 
福音書でイエスは、神のことを知っていると豪語するパリサイ人に、イエスは「盲人」(目の見え
ない)と言っている。(ヨハネ福9:41) 一般的に教会では、キリスト者(クリスチャン)となった人
は、自分が生まれつきの「罪人」であったこと、すなわち、生まれつきの「盲人」であったことを
知った者と言われている。 しかし、キリスト者(クリスチャン)であっても、「盲人」である可能性
のあることがマタイ7:21に書かれている。 また、キリスト教の指導者(預言者、牧者、教師な
ど)であっても裁かれる者がいることが、旧約聖書にも新約聖書にも書かれている。 イエスは
「偽預言者」と言っているが、かつてモーセも予め警告をしていた。(申命記13:1-3) 
 
エレミヤの時代にも偽預言者がイスラエルを惑わした。 当時、イスラエルの民は自分たちの
罪を認識して悔い改めなければならないのに、「偽預言者」はイスラエルを、神のみこころから
離そうとした。(エレミヤ6:13-45) エレミヤ書23:25-40では、汚れは、エルサレムの預言者か
ら全土に広がったと神が言われている。 だから、「わが牧場の羊を滅ぼし散らす牧者はわざ
わいである(エレミヤ23:1)」、「つるぎよ、立ち上がってわが牧者を攻めよ(ゼカリヤ書13:7-
9、マルコ14:27)」と主は言われたのだ。 
 
天地万物を造られた神を信じ、主イエス・キリストを信じ、主のために仕えていると言いながら
も神に喜ばれるどころか、神に背き、キリストを信じた人々を惑わす者の裁きは、聖書に書い
てある通り確かに厳しいかもしれない。 せっかくキリストを信じても「盲人」になっているのだか
ら。 長い教会の歴史の中で、偽預言者たちの影響も長く続いている。 様々の団体や教会に
入り込んだ偽預言者たちがキリストの語られたことばから大きくずれさせて、彼ら独自の教え
や聖書の解釈を、あたかも神からのことばとして神からの解釈として多くの人々を惑わしてき
たし、今も尚、惑わしている。 多くの指導者が惑わさせれていると聞いたことがある。
 
結局、彼らは、自分たちの考え、解釈、思いを最優先した結果であろう。 自我を温存し、肉の
切り取られを拒否して、生まれつきの自分を守ってきた結果である。 キリストを信じて、キリス
トを伝え、信じた者たちに教えることができる指導者であっても、人を救いの道へ導くことがで
きず、共に穴に落ち込む危険性があるということである。 そうであるなら、世の中の多くの宗
教家たちの行く末はどうなのだろう。 真の神ではなく、むしろ、真の神に敵対する方に導いて
いるのだから。 世界には様々な宗教があるが、日本においては、仏教系と神道系が多くを占
めていると思われる。
 
仏教と言えば、「お釈迦さん、仏さん、成仏する」という言葉をよく聞く。 多くの日本人は漠然
と、亡くなった人を「仏」と思っている。 葬式などでよく、亡くなった人を「仏さま」と言われてい
る。 仏さまとは、死んだ人のことだとすれば、仏教は死んだ人の教えということになる。 しか
し、死んだ人が教えを説くことなどできないから、仏は死んだ人ではないということになる。 
 
また、仏陀(仏)とは、サンスクリット語のブッダ の訳で、「目覚めた人」「気づいた人」「認識し
た人」という。 成仏の本来の意味は悟りを開き、仏の境地に至ることを言うらしい。 つまり、
生きている時である。 ただ、庶民に説教するときに地獄・極楽のたとえ話をし、生前の善行の
程度によって地獄へ行ってしまう。 また極楽へ行っても仏と列するようになるには(これが成
仏)修行が必要で、遺族の信仰心も大いに役立つ、と説明するお坊さんが多いという。 つま
り、悪く言えば生前から寺に寄進して、死んだら遺族が供養と称して寺に寄進しなさい、仏に
(成仏)必要だから、という、ある意味、営業戦略だと本音を書いていた人がいた。
 
また、仏教徒の方でも、「死んだ人の教え」ではなく、「真理」を追及されている方もいる。 そし
て、「真理」は、キリスト教も仏教も同じ一つであると主張し、そこに至る道の違いがあるだけと
いう方々もいるようである。 仏教を深く学んでいる方々がよく言われるのは、原始仏教は哲学
であったということだ。 釈迦の遺言は、偶像礼拝に陥ることなく、ただ真理を追究しなさい
子たちに命じたと言う。 このことから、原始仏教は哲学だと言われていると言う。 しかし、釈
迦の弟子たちは、釈迦の言葉や教えを守らず、分骨をし、その仏舎利は、今日8万余りの寺院
に配布されているという。 
 
このように見た時、キリスト教は初期のときからすでに偽預言者がいたり、キリスト教会も分裂
分派があり、非難されるような歴史もあったが、そのような中でも、「正しいキリスト教」すなわ
「キリスト」が伝えられてきている。 それは、やはり、天地万物を造られた神が守って来られ
たからだ。 人の力ではなく、「わたしは道であり、真理であり、命である。(ヨハネ14:6)」と言
われたイエス・キリストによるものである。 本当の「真理」とはイエス・キリストだからである。
 
この間、近所の人が亡くなった。 同じ組内なので遺族を慰める意味で通夜に行った。 著者
が、キリスト者であることを近所の方々はみな知っていた。 お坊さんがお経を上げていると
き、心の中でずっと祈っていた。 焼香はしなかったが、遺族の方と顔を合わせて「大変だった
ですね。・・・」と言葉をかけた。 
 
この地域の寺のお坊さんは、お経を上げるだけでなく、教会の牧師みたいにメッセージをす
る。 お坊さんのメッセージを聞いたとき、20年以上前、まだ当時、教会に所属していた頃、聖
会へ行ったときに聞いた牧師のメッセージを思い出した。 その牧師のメッセージは上手かっ
た。 人を惹きつけた。 しかし、聖霊の香りがせず、聖霊を感じなかった。 そのとき思った。 
メッセージが上手いのと聖霊が働かれるのとは違うのだな。 聖霊の香りがしなくても、賛美歌
を大勢で唄うことによって人は盛り上がるのだな、と。 しかし、主は本当に喜ばれているのだ
ろうかと、いろいろ思ったことも思い出した。 
 
さて、そのお坊さんもメッセージが上手かった。 聞いている人たちを見ると、みなうなずいてい
た。 死者に「引導を渡す」役目をお坊さんがしているという。 まっすぐ仏さんの方へ行けるよ
うに、あの世へ行けるように、お坊さんが導いていると言う。 そこへ行けば、お父さんもお母さ
んもおばさんも親族も・・・も皆いると言っていた。 聞きながら、この地上で生きている間、仲
が良かった者たちなら良いが、いがみ合っていた人には会いたくないだろうにと思った。 人は
いつかは死ぬ。 それまで、精一杯生きることを考えてほしいというようなことを言っておられ
た。 「死ぬこと」、「生きること」について、曖昧な言葉で終わっているなという感じがした。 結
「死と死後、生」について、本気で向き合うことを日本人の多くは嫌うのかな、とも思った。 
「死後」について、事実わからないことが多いのだから。
 
(死と死後についての参照:めんどり通信/2012年3月4日。<神の領域、死後>/2016年7月24
。<人の「死」についての再考>/2013年9月1日。<「死後の行き先」についての思考>
/2003年10月11日<何一つ持たずに生まれ死ぬ人>/2008年2月10日。<最大の救い、それ
は地獄からの救い!>)
 
いずれにしても、我々人は、「目を覚ますこと」、「起きること」が必要である。 霊の目が覚め、
起きて「暗やみ」の力から救い出してくださった、また救い出してくださる真の神に立ち返って、
主イエス・キリストとの交わりをしていくなら、今まで見えていなかったことも見えてくるようにな
り、見えているように思っていたことが、実は見えていなかったことも知ることができるだろう。 
我々は、目に見える出来事、現状に振り回されたり、失望したり、惑わされたりしないように、
絶えずキリストを見て、主とともに歩んでいきたいものである。
 
★新約聖書 エペソ人への手紙 5:14
   ・・「眠っている者よ、起きなさい。死人のなかから、立ち上がりなさい。そうすれば、キリス
   トがあなたを照すであろう」。
 
★新約聖書 コリント人への手紙 第二 4:6
   「やみの中から光が照りいでよ」と仰せになった神は、キリストの顔に輝く神の栄光の知
   識を明らかにするために、わたしたちの心を照して下さったのである。
 






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