めんどり聖書研究会


  めんどり通信 / 2008年2月10日。主が復活された記念すべき日曜日です! ハレルヤ!



★新約聖書  第一テモテの手紙   2:4
   神は、すべての人が救われて、真理を知るようになるのを望んでおられます。

★新約聖書  第二ペテロの手紙  3:9
   主は、ある人たちがおそいと思っているように、その約束のことを遅らせておられるので
   はありません。かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも
   滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。

●聖書は、ひとことでいうなら『イエス・キリスト』について書かれている。 イエスの名は、ギリシ
ア語読みである。 ヘブライ語では「ヨシュア」と発音し、「主は救い」「主は救う」という意味であ
る。 キリストという呼び方は、ギリシア語読みであり、ヘブル語ではメシア(”油注がれた者”が
原意:救い主)である。 「救い主として、神から特別に定められた者」という意味がある。 旧約
時代に王や大祭司に対して用いられた称号だった。  『イエス・キリスト』は、「イエスがキリス
ト(油注がれた者)すなわち救い主である」とか「イエスは救い主である」という意味である。

聖書は、神が人に与えてくださる「イエスの救い」について書かれている。 「・・・聖書はあなたに
知恵を与えてキリスト・イエスに対する信仰による救いを受けさせることができるのです。 (Uテ
モテ 3:15)」
と書かれているとおりである。
 
昔から多くのクリスチャン、教会は、この「イエスの救い」を伝えてきた。 イエスが言われたこと
「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音(よい知らせ:イエス・キリストこそが私た
ちに神様から与えられた喜ばしい知らせということ)を宣べ伝えなさい。(マルコ 16:15 )」
を実行
してきた。 行く先々で、「イエス・キリストは『私たちの罪のために死なれたこと、 また、葬られ
たこと、また、聖書に従って三日目によみがえられたこと(Tコリント 15:3,4)』
、そして今も生き
ておられ求めてくる者たちに、救いを与えてくださること、イエス・キリストを信じ、キリストの血に
よって義と認められた者たちが、キリストによって神の怒りから救われること(ローマ 5:9)」

どを伝えてきた。 今や福音はほとんど全世界に伝えられてきたのではないかと思われる。 

★新約聖書  使途行伝 4:12
    この方(イエス・キリスト)以外には、だれによっても救いはありません。世界中でこの御
    名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間に与えられてい
        ないからです。」

★新約聖書  ピリピ 人への手紙  3:19
       彼らの最後は滅びです。彼らの神は彼らの欲望であり、彼らの栄光は彼ら自身の恥なの
       です。彼らの思いは地上のことだけです。

●人は、この地上で生きている間に、多かれ少なかれ、問題や悩みが生じるものである。 そ
れらの解決のために、様々な方法で努力する人が多いのではないかと思われる。 中には、
仕方がないとあきらめる者もいるかもしれないが、多くの人は解決のために何かをしようとする
ものと思われる。 そして解決できれば、ああよかった、救われたと安堵する。 その安堵を与
えてくれたものが、その人にとっては救いの主、救いのもと、となっている。 

この地上のことだけ考えるならば、その人にあったものでいいのかもしれない。 「こちら
の方が本当に救われるよ、解決できるよ。」と勧められたとしても、その人が、その人の選んだ
やり方で”救われた””幸せ”と思えば、それでいいのではないかと思う。 

この世だけのことなら、その人が好きな救いの方法を選択すればいいと思う。 しかし、聖書が
書いている「イエスの救い」は、この地上のことだけではない。 むしろ、死後が本番であり、死
後に焦点をあわせている。 今生きているこの世は、死後への備えの時なのである。 

聖書は神のことばである。 だから、聖書に書かれていることは、その通りになってきた。 聖
書の中に記されている記述で、昔は神話だと言われていたことも考古学や化学などの発達に
より、聖書の記述が神話ではなく実話、実際であったことが次々、証明されてきた。 

その聖書がいわんとしている「イエスの救い」は、滅びからの救い、つまり地獄からの救いであ
る。 「人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている。(ヘブル人への手
紙 9:27 )」
 この地上に様々な救いがあろうとも、死後、ハデス(地獄)の火の裁きから救われ
ることができるのは、この「イエスの救い」だけである。 

「そんなこと決めつけるな。ほっといてくれ。」と言っても、神は人をほっとけない。 神が人を造
られたからだ。 神は人が死後、滅びることを望んでおられない。 だから「神はそのひとり子を
世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださった。 ここに、神の愛が私たち
に示された。 (Tヨハネ 4:9)」
 しかし、神は人に対して強制はできない。 神は人を愛するが
ゆえに、人に自由意志を与えられたからだ。 「いのちと死、祝福とのろい」つまり天の御国か
ハデス(地獄)か、それは我々の前に置かれている。 「あなたはいのちを選びなさい。(申命記
30:19)」
と神は我々人に語っておられる。 素直に神のことばを受け入れたいものである。

★新約聖書  第一コリント人への手紙  1:18
   十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の
       力です。
 
★新約聖書   マタイによる福音書  7:13
   狭い門からはいりなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこか
   らはいって行く者が多いのです。



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