めんどり聖書研究会

 
めんどり通信/2003年10月11日/新約聖書 第一テモテ6:7私たちは何一つこの世に持って来なかった


★新約聖書 第一テモテ6:7
   私たちは何一つこの世に持って来なかったし、また何一つ持って出ることもできません。


●私たちは裸でこの世に生まれてきたし、裸でこの世から去っていく。 どんな財産も、
衣服も、宝石も持っていくことはできない。 とすれば、この世とは一体何なのか。 この
世の生の意味は何か。 

地上生活で、人は物質的に何を得たか、またどれほど裕福になったかなどは、結局人生
の価値を増やしも減らしもしない。 人類は、罪と追放によって、神について最初の知識を
失ってしまい、存在の秘義を解決しようとして暗中模索し、自然の諸勢力を生命の根源と
思って、それを崇拝するようになった。

太陽、月、その他、自然の諸勢力などは、世界の生命が依存するという理由で神格化
されている。 王も人も権力のゆえに、次第に神格化された。 人は、神々をより現実的な
ものとする為に、神を表す像を造った。 そして、次第に像それ自体を神々として礼拝する
ようになったのである。 

聖書ローマ人の手紙1:23で『不滅の神の御栄えを、滅ぶべき人間や、鳥、獣、はうものの
かたちに似た物と代えてしまいました。』
と言っているとおりである。 

それが浸透し、一般化している日本では、少し考えれば、おかしいというようなことでも、
ありがたがっている。 こんな話しを以前聞いたことがある。 十数年前に石鎚にある寺か
神社で火事があった。 そのとき、ひとりの老婆が、ご神体をかかえて、火事から助けだし
たという。 それを聞いた人々が「あんたは、ええことをしたな。よう助けだしたな。ご利益
があるわ。」と口々に言ったそうだ。 老婆に守られ助けられなければならない神が、どう
して人々を守り助けることなどできようか。 少し考えれば、子供でもわかることを、人々の
心が、真の神に対する崇拝の念が失われているゆえ、心がマヒしてわからなくなってしま
っているのではないだろうか。 

また、悪魔も人がそのようなことを深く考えないようにと、日々の地上生活のことだけを考
えるようにと、あらゆる手段をもって働いている。 この地上生活をどう生きるか。 だれを
基準として生きるのか。 世の中か、尊敬する人か、本か…。 この世界のすばらしい文
明、科学などを切り開いて、進歩させてきたのは、確かに人類である。 

しかし、神は言われる『義人はいない。ひとりもいない。悟りのある人はいない。(真の)
神を求める人はいない。すべての人が迷い出て、みな、ともに無益な者となった。』
ローマ3:10〜12)

 『神の愚かさは人よりもかしこく、神の弱さは人よりも強い。』第一コリント1:25) 

神を基準にして生きることこそ、永遠に続く生き方である。 本当の人生の価値は、どれ
だけ、神に喜ばれる歩みをしたか、どれだけ天に宝を積んだかである。 その為にも神を
基準として生きることが大切である。 

いつかは、私たちはこの地上を去る。 そのとき何も持っていくことはできないが、普段
から天に宝を積んでおけば、地上を去ったあと、その宝を目にすることができる。 また、
神は私たちを喜んで真の天国に迎え入れ、大きな平安と幸福の中に入れて下さる。 

この地上生活は、やかては永遠の天の御国に続く。 だからこそ、一日一日、神を基準
として生きていきたいものだ。 神を基準とする為、聖書を与えて下さっている。 また自
分勝手に解釈をしないようにと、主イエス様は、聖霊を私たちの内に送って下さるのであ
る。 また、ともすれば、ひとりよがりにならないように、主イエスは、目に見える兄弟姉妹
(クリスチャン)と交わりをもつようにと導いて下さるのである。 主の御心を知る為である。

ある人が言った。「生きるとは、自分にふさわしい死後の世界を創造することである。」
まさしく、生きている今が問われるのである。


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