めんどり聖書研究会


めんどり通信/2015年4月19日。主が復活された記念すべき日曜日です!ハレルヤ!
<今後の教会のあり方についての思考>



★新約聖書 マタイによる福音書 16:15〜17
   イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」
   シモン・ペテロが答えて言った。「あなたは、生ける神の御子キリストです。」
   するとイエスは、彼に答えて言われた。「バルヨナ・シモン。あなたは幸いです。このことを
   あなたに明らかに示したのは人間ではなく、天にいますわたしの父です。
   
★新約聖書 マタイによる福音書 16:18
   ではわたしもあなたに言います。あなたはペテロです。わたしはこの岩の上にわたしの教
   会を建てます。
 
★新約聖書(口語訳) マタイによる福音書 18:20
   ふたりまたは三人が、わたしの名によって集まっている所には、わたしもその中にいるの
   である
 
●教会について、主が仰せられたことばは、冒頭のみことば、「わたしはこの岩の上にわたし
の教会を建てる」である。 また、「ふたりまたは三人が、わたしの名によって集まっている所に
は、わたしもその中にいるのである。」も教会に関して主イエスが語られたことばであると思わ
れる。 これらのことばによって、長年ずっと教会もクリスチャンたちも「教会の建てあげ」につ
いて取り組んできた。 今もなお取り組んでいる。 「教会はキリストのからだ」だからである。
(エペソ1:23、コロサイ1:24) 
 
主イエスがペテロに語られたことばから思考してみる。 イエスが「あなたがたは、わたしをだ
れだと言いますか。」と言われたとき、ペテロは「あなたは(イエス)は、生ける神の御子キリスト
である」と告白した。 この「イエスは神の御子キリストです」という告白の上に、主ご自身が教
会を建てられると多くのプロテスタントの教会では言われている。 主が「バルヨナ・シモン。・・・
あなたはペテロです。」と言われたが、このペテロギリシャ語「ぺトロス(小石)」であり、
「ペトラ(巨大な岩)」である。 小さな石ころが、父なる神によって巨大な岩のような、大き
い、すなわち重要な告白をさせていただいたということである。 また、「バルヨナ・シモン」
「シモン」ギリシャ語名。 ヘブライ語では「シメオン」であり、その意味は「聞く」である。
 
この「シモン」「シメオン」については、めんどり通信/2013年11月10日<「シモン」「シメオン」=
「聞く」について>を参照してほしい。 旧約のヤコブは、臨終の前に12人の息子たち一人ひと
りに「ことば(預言)」を語った。 祝福のことばを語る中、ヤコブの2番目の息子シメオンと3番
目の息子レビには、セットで彼らの罪のゆえに「のろい」預言をした。(創世記34章、49:5-7) 
その後、モーセのとき、レビ族の子孫であるピネハスの行動によって、レビ族ののろいは解け
た。(民数記25章) しかし、シメオン族は、ますます深いのろいに入っていき、シメオン族は見
えなくなった。 まるで、暗い牢の中に投獄されたかのようである。 霊的な目も耳も全く閉ざさ
れたかのようであった。 それは、シメオン族だけというより、イスラエル全体をあらわしていた
と思われる。
 
しかし、新約に入って突如、@老人シメオンが現われ、幼子イエスを抱いている。(ルカ2章) 
霊的な目も耳も開かれたのか、「イスラエルの慰められることを待ち望んでいた。 聖霊が彼
の上にとどまっておられた。 また、主のキリストを見るまでは、決して死なないと、聖霊のお告
げを受けていた。(2:25.26)」と書かれている。 また、Aシモン(シメオン)・ペテロは、12弟子の
筆頭としてイエスに選ばれ、常にイエスのそばにいた。 そして、ユダヤ人であるペテロは、幻
の中で、ユダヤ人が汚れたとされている物を食べよと3回言われた。 しかし、ペテロは拒否し
たが、「神がきよめた物を、きよくないと言ってはならない。」との主のことばを聞き入れ、御霊
が、「三人の人があなたをたずねて来くるから・・ためらわずに、彼らといっしょに行きなさ
い。・・」とのことばに従い、異邦人への救いの戸を開く者とされた。(使徒行伝10章) Bクレネ
人シモンは、イエスが十字架にかかられるとき、イエスの十字架をユダヤ人たちに無理やり背
負わされて、イエスのうしろからついて行った。(マタイ27:32、マルコ15:21、ルカ23:26) この
シモンの息子が、主にあって選ばれた人ルポスであると言われている。(マルコ15:21、ローマ
16:13) 
 
幼子イエス、公生涯のイエス、十字架のイエスに「シモン(シメオン)=聞く」が大いに関わって
いる。 イエスが来られたのは、「神のことば」「主のことば」を聞くことができなくなっている者
を回復するため、「聞く」「聞き入れる」ことができるようになるため、すなわち神から見られて
失われている者を引き上げるためである。 このようにしてみると、イエスがこの地上に来られ
た時、回復されるイスラエル人と救われる異邦人の戸は開かれたと言えよう。 イスラエルを
回復し、異邦人を救うメシヤ(キリスト)は来られたからである。 
 
確かに、イエスはユダヤ人たちによって十字架につけられたが、イエスの十字架の死と復活が
なければ、人類の罪の赦し、永遠の命はない。 ユダヤ人でも異邦人でも、イエスの十字架に
よって罪の贖いがなされるからだ。 かと言って、イエスに対する敵対がいいわけではないが、
すべてのユダヤ人がイエスに敵対したわけではない。 「主のことば」「聞く」「聞き入れる」
とができるユダヤ人たちがいたし、同じく「主のことば」「聞く」「聞き入れる」ことができる異邦
たちがいた。 今後もそのような者たちが起こされるだろう。 「たといイスラエルの子どもた
ちの数は、海べの砂のようであっても、救われるのは、残された者である。・・・今の時にも、恵
みの選びによって残された者がいる」と書かれているからだ。(ローマ9:27、11:5) 
 
以上のようなことから 主イエスが言われる「キリストのからだである教会」とは、回復されたイ
スラエル人と救われた異邦人(すべての者ではなく、残された者だけ)が、ふたりまたは三人
が、主イエス・キリストの名によって集まっているところと言えるのではないだろうか。 回復さ
れたイスラエル人救われた異邦人は、父なる神に示されて「イエスが生ける神の御子キリス
トである」と告白できるのである。(Tコリント12:3) 
 
主が言われたことは、「わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる」「ふたりまたは三人が、
わたしの名によって集まっている所には、わたしもその中にいるのである。」であって、それ以
上、具体的なことは語られていない。 しかし、教会は、長年、教会を建て上げていく上で使徒
行伝時代の教会を模範としてきた部分が多い。 使徒行伝時代から今日に至るまで、主のこ
とばを掲げて、教会の建て上げに尽力してきた多くのクリスチャンたちの努力には、すばらしい
ものがある。 ただ、終末に入ったかもしれないと言われている今日、主が望まれている教会
のあり方は、今までのような かたちではないのかもしれない。 主は、ご自分の教会をご自身
が建てると言われたが、今までの教会の多くは、クリスチャンたちが試行錯誤しながら知恵と
経験を振り絞った部分も多かったように思われる。
 
しかし、神はご計画を持っておられる。 主が望まれているのは、何もかも主が導かれ、長年
の歴史や体制、人間の知恵、計画・・・など関係なく、とにかく「キリストへの愛」を持った者が、
しっかりキリストにつながっている状態で、ふたりまたは三人で集まっていることである。 「愛」
とは、長子となられた御子イエスに対する「愛」「兄弟愛」があるということであり(ローマ8:2
9)「友」であるイエスのために自分の命を捨てることができるキリストへの「愛」があるというこ
とだ。(ヨハネ福15:14,15) 視点、対象が常に「キリスト」であることだ。
 
また、「ふたりまたは三人」は、愛の交わりをする最少の単位である。 創世記で、神は、「われ
われに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう」と人を創造された。 父なる神子なる
神の交わり父と子と聖霊による愛の交わりがある。 それで、神は「人(アダム)が、ひとりで
いるのは良くない。」と、愛を持って共に語り合い、共に助け合う「対等に向き合えるパート
ナー」のエバを造られた。 そのようなふたりまたは三人が、主イエスの名によって集まってい
る所が黙示録に書かれているフィラデルフィアの教会(兄弟愛の教会)と呼べるであろう。 
 
また、そのようなところこそが、めんどり通信で書いていた世界中に次々と立上っていく「光の
柱」ではないだろうか。(「光の柱」について:めんどり通信/2014年12月14日<エルサレムから
「光の柱」は、主が「呼び出された者たち=教会(エクレシヤ)」である。 「光の柱」は、建物で
はなく、体制、組織でもない。 いずれにしても、我々は、絶えず主に尋ねていくこと、主に頼る
ことに徹底しながら、何があっても揺るがない「キリストへの愛」を増し加えていただきたいもの
である。
 
★新約聖書 マルコによる福音書 4:9
   そしてイエスは言われた。「聞く耳のある者は聞きなさい。」
 
★新約聖書 ヨハネによる福音書 15:13
  人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。
 
 





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