めんどり聖書研究会


めんどり通信/2013年11月10日。主が復活された記念すべき日曜日です!ハレルヤ!
<「シモン」「シメオン」=「聞く」について>



★新約聖書 ルカによる福音書 9:35
   すると雲の中から、「これは、わたしの愛する子、わたしの選んだ者である。彼の言うこと
   を聞きなさい。」と言う声がした。
 
★新約聖書 マルコによる福音書 4:9
   そしてイエスは言われた。「聞く耳のある者は聞きなさい。」
 
★新約聖書 コロサイ人への手紙 3:16
   キリストのことばを、あなたがたのうちに豊かに住まわせ、知恵を尽くして互いに教え、互
   いに戒め、詩と賛美と霊の歌とにより、感謝にあふれて心から神に向かって歌いなさい。
 
●聖書に出てくる人名や地名などにも意味があり、それらを通して主が我々に教えようとされ
ていることがある。 12弟子の筆頭シモン・ペテロの名前の「シモン」についてみてみる。 「シモ
ン」は、ヘブライ語の「シメオン」をギリシャ語に音訳したものである。  その意味は「聞く」であ
る。 旧約聖書では「シメオン」というのは、ヤコブの二番目の息子である。 シメオンの母レア
が、「・・主は私がきらわれているのを聞かれて、この子をも私に授けてくださった。」と言って、
その子をシメオンと名づけた。(創世記29:33) 「主は・・聞かれて」「聞く」という音から名づ
けられたという。
 
ヤコブが最期を迎える前に子どもたちを祝福したことが創世記49章に書かれている。 そのと
きヤコブは、シメオンとレビについては祝福というより、のろいの預言をしている。 「シメオンと
レビとは兄弟、彼らの剣は暴虐の道具。・・のろわれよ。・・私は彼らをヤコブの中で分け、イス
ラエルの中に散らそう。(創世記49:5-7)」 のろいの言葉が語られた理由は、 妹ディナがシ
ティムの町の無割礼の若者に強姦されたとき、シメオンとレビは怒りを抑えることができず、2
人で町を襲い、シティム人の男たち全員を剣で斬り殺してしまったという狂暴性であった。 
 
その事件後、シメオン人の父の家の長サルの子ジムリがミデヤンの族長の娘コズビと結婚し
ようとしたとき、レビ族のピネハスは、この二人を神への熱心によって殺した。 それで、イスラ
エルの民が異邦人モアブの娘たちとの姦淫で神罰が下っていたのを食い止めた。 そのことで
レビ族ののろいは解けたが、シメオン族はヤコブの預言通り、ユダ族に吸収された。 その
後、4百年以上経ってモーセが死ぬ前、イスラエルを祝福したが、そのときに、シメオン族は
入っていない。(申命記33章)   しかし、黙示録になると再びシメオン族が書かれている。(黙
示録7:7)
 
旧約時代に見えなくなったシメオン族が、イエスが誕生された最初のときに、シメオン族を思わ
せる老人シメオンが突如として現われ、幼子イエスを抱いている。 「この人は正しい、敬虔な
人で、イスラエルの慰められることを待ち望んでいた。 聖霊が彼の上にとどまっておられた。 
また、主のキリストを見るまでは、決して死なないと、聖霊のお告げを受けていた。(2:25.26)」
書かれている。 また、シモン(シメオン)・ペテロは、12弟子の筆頭としてイエスに選ばれた。 
そして、イエスが公にキリストとして立たれ、この地上を歩まれ、神の国の奥義を語られたり、
神のみわざやいやし、奇蹟を現わされたとき、シモン・ペテロは、常にイエスのそばにいた。 
そして、イエスから直接、訓練を受け、整えられた。 イエスの誕生のとき、イエスが「キリスト」
として歩まれたとき、シメオン(シモン)が大きくかかわっている。 そして、我々にとって最も重
要なこと、すなわちイエスが十字架にかかられるとき、イエスの十字架を背負って、イエスの後
からついて行ったのが、クレネ人シモンだった。 
 
これらのことから、「神の賜物と召しとは、変えられることがない。(ローマ11:29)」ということば
通り、主は、ご自分の民を見放さず、ご自分のものである民を、お見捨てにならないということ
であろう。(詩篇94:14) イエスは言われた。 「人の子は、失われた人を捜して救うために来
たのです。(ルカ19:10)」と。 イエスが来られたのは、「神のことば」、「主のことば」を聞くこと
ができなくなっている者を回復するため、聞くことができるようになるため、すなわち神から見ら
れて失われている者を引き上げるためである。 たとえ、「私はイエス・キリストを信じているか
ら、すでに救われ、引き上げられている。」と宣言していても、「神のことば」「主の御声」を聞く
ことができなくなっている者がいる可能性がある。 自我が砕かれていないため、また、肉(生
まれながらの性質)が旺盛で、自分の考えや思いが優先しているため、いくら聖会に出席して
も、礼拝や集会に出席しても、主のために働いていると言っても、「主の御声」が聞こえず、「
リストのことば」を正しく聞いておらずに言行している者が結構、いるかもしれない。 「シモン」
「シメオン」を忘れておられなかった、見捨てておられなかった主は、そういう者を捜して引き上
げてくださるであろう。 だから、我々は、自分は大丈夫だと安堵するのではなく、自分の信
仰、自分を吟味する必要がある。 (Uコリント13:5) 
 
また、幼子イエス、公生涯のイエス、十字架のイエスに「シモン(シメオン)」が大いに関わってい
るということで、「シモン」「シメオン」の意味である「聞く」ということの重要性を、主は、我々に
知らせておられると思われる。 イエスがこの地上に来てくださったことで、「聞くことができなく
なっていた」のが解放されて「聞くことができる」ようになった。 ローマ人への手紙10章17節
(新共同訳)「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まる
のです。」と書かれている。 幼子イエスを抱いた老人シメオンは、神から「主の遣わすキリスト
に会うまでは死ぬことはない」「ことば」「御告げ」を聞いていた。 それで、ずっと正しく、敬虔
にそのときを待っていた。 シモン・ペテロ「人間をとる漁師にしてあげよう」とか他多々、主
から与えられた「ことば」を聞き留めていた。 そして、主に喜ばれる従いを全うできる者になっ
た。 クレネ人シモン、「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字
架を負い、そしてわたしについて来なさい。(マタイ16:24)」という「主のことば」をむりやりでは
あったが、身をもって行なうことになった。 
 
イエスがペテロ、ヨハネ、ヤコブを連れて高い山に登られたとき、雲の中からの声、すなわち父
なる神の御声「これはわたしの愛する子である。これに聞け」がポイントであると思われる。 
そして、「聞く」ということは、「ただ単に聞く」のではなく、「聞き流す」のでもなく、心の奥に「聞き
留める」「聞き入れる」ということである。 そうするなら、老人シメオンのように「ことば」が成
就されるときを待つことができ、シモン・ペテロのように試練訓練に耐え、「聞き留めたことば」
を行なうことができ、クレネ人シモンのようにキリストの後ろからついて行くことができるだろう。 
 
「耳のある者は聞きなさい。」と主は何度も仰せられた。 どのような方法、かたちで主が語ら
れるのか、一人一人違うと思われるが、いずれにしても、「神からのことば」「主からのこと
ば」「キリストからのことば」が与えられることは、主が定められた道を右にも左にも逸れず、
まっすぐ進んで行くためには大切なことである。 どのようなこと、どのような言葉が、「主のこと
ば」「主の御声」かはっきりしなくても、真摯に求めている者には必ず、主がわかるように教えて
くださる。 少年サムエルが、「主からの語りかけ」がわからず、エリが呼んだと思い、エリのと
ころへ3度行った。 そのとき、エリを通して、サムエルを呼ばれたのは、主であることを知っ
た。 それからは、サムエルは「主のことば」がわかるようになった。 このように、助け、導き
がある。 
 
いずれにしても、我々は日々の生活において、絶えず、主イエス・キリストから目を離さず、「主
の語りかけ」を聞くために聖書を読み、祈っていき、主の御前にへりくだって、聖霊の流れに
乗っていきたいものである。 正直な心で絶えず主の御前に出て行き、「主よ。お話しください。
しもべは聞いております。」とへりくだり、「主からのことば」を聞きたいものである。 そして、正
しい(霊の)耳で「主のことば」を聞いたなら、素直に心の奥に留め、正しく受け取って、主の喜
ばれる者になりたいものである。 
 
★旧約聖書 詩篇 18:16
   主は、いと高き所から御手を伸べて私を捕え、私を大水から引き上げられた。
 
★旧約聖書 詩篇 71:20
   あなたは私を多くの苦しみと悩みとに、会わせなさいましたが、私を再び生き返らせ、
   地の深みから、再び私を引き上げてくださいます。
 
 


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