めんどり聖書研究会


めんどり通信/2008年6月22日。主が復活された記念すべき日曜日で
す! ハレルヤ!
<ペテロとイスカリオテのユダ>


★旧約聖書  イザヤ書 66:2
   ・・主の御告げ。・・わたしが目を留める者は、へりくだって心砕かれ、わたしのことばにお
      ののく者だ。

★旧約聖書  申命記 6:5
       心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。

●「裏切り」ということばを聞いたとき、聖書の人物ではとっさにイスカリオテのユダのことを思
い浮かべるのではないだろうか。 しかし、ユダは1回だったが、12弟子の筆頭がしらのペテロ
は3回イエスを裏切った。 ユダはイエスを売った。 ペテロはのろいをかけて知らないと誓っ
た。(マルコ14:71) 最期、ユダは首吊り自殺をし、3回も裏切ったペテロは回復し後に活躍し
た。主を裏切った一方は滅び、一方は主の働きで活躍。 この違いはどこにあるのだろうか。

イスカリオテのユダは12弟子の中で唯一ガリラヤ出身の田舎者ではなく、イスラエル南部の
地方都市出身の人であった。 カリオテとは大都会という意味があるという。 どこでイエスの
弟子になったかは不明だが、かなり優秀で、人からの信頼も得ていた人物だったといわれて
いる。 当然、弟子団の財務担当を任された。 

ナルドの香油をイエスに注いだ女をとがめたのは、マルコによれば「何人かの者」(マルコ14:
4)
であり、マタイでは「弟子たち」(マタイ26:8)とあるが、ヨハネは、女をとがめたのはイスカリ
オテのユダだと記している。(ヨハネ福12:4) その上「 しかしこう言ったのは、彼が貧しい人々
のことを心にかけていたからではなく、彼は盗人であって、金入れを預かっていたが、その中
に収められたものを、いつも盗んでいたからである。(ヨハネ福12:6)」
と言っている。 

これらのことから このとき、主の埋葬の用意のための香油を「こんなむだなこと」と思ったの
は確かに他の弟子たちもいたと思われるが、心底そう思っていたのはイスカリオテのユダだっ
たと見受けられる。 イスカリオテのユダの人間性が見え隠れしているような気がする。 

ユダはイエスに対して、当時のユダヤ人のメシア(キリスト=救い主)待望と同じく、政治的な意
味や革命者としてのメシアを期待していたかもしれない。 しかし、イエスは自分は祭司長や律
法学者たちに引き渡され殺されるなどと言い出す。 彼は自分の求めたものと違うイエスに失
望していったのかもしれない。 だんだん心を頑(かたく)なにしていったと思われる。 

自分の思いを正直に主に申し上げることなどせず、自分の自己実現などという思いや様々な
感想、批判などは自分の心の奥底に秘めていたのではないだろうか。 その極みの表われ
が、「夜」こっそりイエスの許を離れて出て行ったことであろう。 「夜」は暗闇、サタンの支配の
ときである。 ユダが、思いをペテロのように主にしかられても 光の中に出していたならば、サ
タンが入ることなどなかったであろう。(エペソ 5:13) 

また、最後の晩餐 のときの「イエスを裏切ろうとしていたユダが答えて言った。『先生。まさか
私のことではないでしょう。』(マタイ 26:25)」
という言葉からユダは出来心からではなく、練りに
練った計画の裏切りだったとも考えられる。 結局、砕かれていなかった。 後悔したとある
が、高ぶったままで自殺してしまった。 本当に悔い改めていたならば、それまでの自分と方向
転換してまだ生きておられたイエスのところへ悔い改めに行ったであろう。 
 
最近、教会、クリスチャンの中でイスカリオテのユダは救われているという教えが蔓延(はび
こ)っている。 死んだ後、地上で悔い改めていないのなら死後セカンドチャンスがあるから、そ
のとき悔い改めたらいい。後悔して首吊りまでしたのだから救われているなどと、とんでもない
ことである。 イエスはユダに対して「人の子を裏切るような人間はのろわれます。そういう人は
生まれなかったほうがよかったのです。(マタイ 26:24)」
とまで言われたのだ。 セカンドチャン
スも煉獄思想も人の感情にあわせた都合のいい教えであって、聖書が語っていることとは違
う。 情も大切かもしれないが、聖書のことば、主がいわれることばには永遠がかかってい
る。 クリスチャンは、情にほだされて永遠の命を失うことのないようにすべきであろう。

さて、一方ペテロは一介の漁師で「無学な普通の人」(使徒4:13)に過ぎなかった。 新約聖書
の中でペテロほど様々な失敗をやらかしている人はいない。 ペテロとは岩を意味する名前で
ある。 ペテロには妻と舅(しゅうと)がいた。 兄弟のアンデレ、同じ漁師仲間のゼベダイの二
人の子ヤコブとヨハネとともに、ガリラヤ湖畔で、主イエスの召しに応じて、網を捨ててイエスの
弟子となった。 ペテロの性格を端的に言うならば、直情でおっちょこちょい、衝動的、性急、
血気盛ん、臆病、それでいて自信過剰であった。 

変貌山でイエスが天での栄光の姿を見せられたとき、そこにモーセとエリヤという、旧約聖書
を代表する二人が現れた。(マタイ17章) ペテロは驚きと恐れから思わず「三つの幕屋を造り
ます。」
などとわけのわからぬ言葉を発してしまった。 

また、ガリラヤ湖の荒れる波の上を歩かれるイエスを見たとき弟子たちは幽霊だと驚いた。
(マタイ14章) それがイエスだとわかると、ペテロは「私に、水の上を歩いてここまで来い、とお
命じになってください」
と主にお願いした。 「来なさい。」とイエスが言われたので水の上を歩き
出したが、血気盛んなだけでは最後まで水の上を歩けなかった。 荒れ狂う海を見て不信仰に
なり、沈み始めたとき、漁師で水に慣れており泳ぎも得意であっただろうペテロが「主よ。助け
てください。」と叫んだ。 また「あなたこそ、生ける神の子キリストです(マタイ 16:16)」 と大告
白をした後、「下がれ。サタン。」とイエスに言われてしまった。 他にもまだ聖書に記されてい
る。 ペテロの失敗エピソードは実に多い。 

極めつけの失敗は、「主よ。ごいっしょになら、牢であろうと、死であろうと、覚悟はできておりま
す。」(ルカ 22:33)
とイエスと弟子たちの前で公言したその舌が乾かないうちに、「私はあの人
を知らない」と三度も繰り返して言い、イエスを裏切ったことであろう。 しかし、このことは前
もってイエスから言われていた。 そして「わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あな
たのために祈りました。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。(ルカ
22:31〜32)」
と愛のことばをもいただいていた。 この箇所にある意味ペテロの救いがある。

ペテロは主を否んだが、イエスを愛していないわけではなかった。 ペテロは「きょう、鶏が鳴く
までに、あなたは、三度をわたしを知らないと言う」といわれた主の言葉を思い出し、外に出て
激しく泣いた。(マタイ 26:75)」
とある。 イエスを愛していながら、主を否む、これほど矛盾した
苦しい心境はないであろう。 

ペテロはイエスの前で失敗を繰り返した。 自分の弱さと愚かさに涙してきた。 ペテロは主の
前にすべてをさらけ出していた。 自分の心の内をさらけ出していた。 そして失敗の度、主に
指摘される度に彼の高ぶり、自身過剰など肉が砕かれていった。 そしてその度に主の優しい
御手に触れていき、主を深く知ることとなった。 ペテロがその名前にふさわしい人物となるま
でにはそれらの失敗を試練としてくぐりぬけなければならなかった。 主がそう決めておられ
た。 なぜなら、何よりもペテロは主イエスを愛し従おうとした、そのところを主は愛されたから
である。 主は愛する者に試練、訓練を与えられる。(ヘブル12:7 )

主はすべてご存知である。 主は我々の心の内もご存知である。 表面上は失敗もなくむし
ろ、財務担当という務めも与えられていたユダは結局、主を愛していなかった。 だから、自分
を主の前にさらけだすことなどなかったのかもしれない。 しかしペテロは、とにかく主を愛し
た。 主に従おうとした。 失敗の度にただ単に後悔するというのではなく、主への悔い改めの
心があった。 それで、主は愛してくださったのであろう。

我々は本来、神の前では裸なのだから、主の御前に素直になり、主を愛していきたいものであ
る。 何か失敗したり、自分の愚かさや弱さを思い知らされたりしたとき、素直に神の前にへり
くだって悔い改めて、主のあわれみを求めていきたいものである。  今週も時間をかけて祈り
聖霊に触れられて、キリストを体験していきたいものである。

★新約聖書   ヨハネによる福音書  3:20,21
       悪いことをする者は光を憎み、その行ないが明るみに出されることを恐れて、光のほうに
      来ない。  しかし、真理を行なう者は、光のほうに来る。その行ないが神にあってなされた
        ことが明らかにされるためである。

★新約聖書  ヘブル人への手紙  4:13
      造られたもので、神の前で隠れおおせるものは何一つなく、神の目には、すべてが裸であ
       り、さらけ出されています。私たちはこの神に対して弁明をするのです。



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