めんどり聖書研究会


めんどり通信/2014年4月13日。主が復活された記念すべき日曜日です!ハレルヤ!
<心の深層部に潜む思い、願いが試されることによって変えられる:バラムの失敗から学ぶ>


★旧約聖書 伝道者の書 3:18
   私は心の中で人の子らについて言った。「神は彼らを試み、彼らが獣にすぎないことを、
   彼らが気づくようにされたのだ。」
 
★旧約聖書 エレミヤ書 17:10
   わたし、主が心を探り、思いを調べ、それぞれその生き方により、行ないの結ぶ実によっ
   て報いる。
 
★旧約聖書 エレミヤ書 12:3
   主よ。あなたは私を知り、私を見ておられ、あなたへの私の心をためされます。・・・
 
●神は、人を試される。 「神を愛する」「主に従う」「主のみこころを行なう」などと願い、取
り組んでいる者でさえ試される。 むしろ、そのような者は尚更、試される。 神が人を試される
のは、人が神のことをもっと深く知るために、「信仰」「霊」を成長させ強くするためである。 
神は、人が神に対して「本当に愛すること」を求めておられる。 神を深く知れば知るほど、本
当に神を愛することができるであろう。 その「本当の愛」とは、強制されたものではなく、表面
的なものでもない。 どんな時でも、どんなことにでも「神を最優先する」ことのできる「愛」であ
る。 ところが、その「本当の愛」を持つことを妨げるほどの人の「思い」「願い」が、人の心の
深層部に潜んでいることがある。 だから、その「本当の愛」を人に持たせるためにも、神は人
を試される。 そのような「本当の愛」を持つことができる者は、神の方が与えようとしておられ
「神の恵み」を受け取ることができる。 「神との深い交わり」に入ることができる。 「試し」
は、主から直接くる場合と、悪しきもの(霊)から来る場合がある。 いずれにしても、神のみ許
しがなければ何事も起こり得ない。 
 
さて、実際、主に試されたとき、失敗をすることが多いものである。 それでも、真に主により頼
んでいる者の失敗を、主は無駄になさらず、その人を砕き作り変えるために益としてくださる。 
そういうことを繰り返しながら、「信仰」が成長していき、「霊」は深みに入っていき強くなる。 そ
うして、また主に試されたときには、失敗することなく、惑わしを見破って、逸らされることなく、
主のみこころを悟り行なうことができるようになってくる。 「試し」は、「信仰」が鍛えられるため
「主の訓練」であり、「試練」である。(ヘブル11:6) 主に試された聖書の人物をみてみる。
 
民数記22章の預言者バラムの場合。 モアブ国の王バラクから使者たちが遣わされ、イスラエ
ルをのろうようにとの依頼を受けたとき、バラムは、主に伺った。 主はバラムに「彼らと一緒
に行ってはならない。 のろってもいけない。 イスラエルの民は祝福されているからだ。」と言
われた。 それで、バラクの使者たちに一度は断った。 しかし、「主のことば」を伝えて断った
のではない。 「主は私をあなたがたといっしょに行かせようとはなさらないから。」と未練を残
した断り方である。 バラムの心の深層部には、金銀に対する欲求があったからだ。 その「思
い」「願い」をしっかり握っていたからだ。 人が金銀に対する欲求を持つことがすべて悪いと
いうわけではない。 人にとって金銀が必要なときもある。 ただ、「度が過ぎている」のであ
る。 人が神の定められた道を歩むのに妨げとなるほどの欲求を持つことが、「度が過ぎてい
る」ということである。 度が過ぎた「思い」「願い」「主のみこころ」に沿わない。
 
再びモアブの王バラクから、位の高い使者たちが来て、手厚くもてなすことを提示されると、
「たといバラクが私に銀や金の満ちた彼の家をくれても、私は私の神、主のことばにそむいて、
事の大小にかかわらず、何もすることはできません。」と言いながら、「主が私に何かほかのこ
とをお告げになるかどうか確かめましょう。」と言う始末。 「主のことば」を握るのではなく、金
銀に対する欲求を捨てようとしなかったことが、この言葉から伺える。 ここで、2回目の使者た
ちは、明らかに「試し」である。 口では神に従っているように言ったとしても、バラムの心の深
層部に潜んでいる度が過ぎた「思い」「願い」「決心」をご存知の主は、バラムに使者たちと
一緒に行くことを許可した。
 
バラムがろばに乗って、バラク王のところへ向かう途中のこと。 神の怒りが燃え上がり、主の
使いが抜き身の剣を手に持って道に立ちふがっているのに驚いたろばは、右往左往しなが
ら、道からそれて、うずくまってしまった。 背中に乗って杖でろばを打つバラムに、なぜ打つの
か、と口を開かれたろばが、人間の声でものを言った。 それから主がバラムの目のおおいを
除かれたので、彼は主の使いが抜き身の剣を手に持って道に立ちふさがっているのを見た。 
また、主の使いははっきりと「あなたの道がわたしとは反対に向いていたから、抜き身の剣を
手に持って道に立ちふさがった。」と言われた。 神はバラムを試しておられると同時に、バラ
ムが真に主に従うことができるために砕こうとされた。 このことで、バラムは、心の深層部に
潜ませていた金銀に対する「欲求」「思い」「願い」は、度が過ぎており捨てるべきものである
ことに気づいたはずである。 「私は罪を犯しました。 私はあなたが私をとどめようと道に立ち
ふさがっておられたのを知りませんでした。」と言ったからである。 しかし、気づいても、その
「思い」「願い」を捨てようとしなかった。 バラク王のところへ行くことに未練を持っていること
「今、もし、あなたのお気に召さなければ、私は引き返します。」という言葉から伺える。
 
結局、主の使いは、バラムが使者たちと一緒に行くことを許可した。 それは、イスラエルを祝
福することを実行されるためであったと思われる。 そのときのバラムは、主の命令どおり、イ
スラエル人を祝福して、神の試しには合格したように見えるが、バラムはその後も真の悔い改
めがなかった。 それで後に、バラムはイスラエル人によって殺されることになった。(民数記
31章) 深層部にあった自分の「思い」「願い」を貫くことを離さなかった結果である。
 
神は、バラムを何度も試された。 バラムは、その一つ一つの試しに、ことごとく失敗した。 そ
れは、バラムが自分の深層部の「思い」「願い」に気づかずに失敗したのではない。 バラム
の意志は、自分の「思い」「願い」を離さないことと決定していたこと。 神の試しを「試し」とし
て受け入れなかったことが失敗を繰り返した要因である。 しかし、表面は、「・・・私は私の神、
主のことばにそむいて、事の大小にかかわらず、何もすることはできません。」とへりくだってい
た。 謙遜ぶっていた。 こういうことは、バラムだけの問題ではない。 
 
主に祈るキリスト者(クリスチャン)にも、よくあることだ。 表面は、へりくだりを装い、弱者を
繕っても、心の深層部には、きっちり自分の譲らない「思い」「願い」を堅く握りしめている、と
いうことがある。 クリスチャンが祈るとき、自分の「思い」「願い」を申し上げた後、「主のみこ
ころのままになさってください。」 と、その祈りを主にゆだねる。 しかし、バラムと同じように、
心の深層部に潜む自分の「思い」「願い」を堅く握りしめたまま「主のみこころのままにな
さってください。」と祈っている者が結構、多い。 そして心の表面では、「祈って主にゆだねて
いる」と思い込んでいることがある。 そういうとき、聖霊がその人を砕き変えることができな
い。 聖霊が、その人のために働こうとしても働くことができない。 心の表面上の主のみここ
ろに沿わない「思い」「願い」だけでなく、心の深層部にある「思い」「願い」を持ち続けること
も、捨てることも、それは、人に任されており、人の自由意志によるからだ。 
 
神は、人の心の深層部に潜む主のみこころに沿わない「思い」「願い」を表面にさらけ出させ
るために「試される。」  神が喜ばれないそれらの「思い」「願い」は、肉を満足させ、自我を
固くするものである。 「試し」は、一人一人に応じて様々である。 ただ、主に試されていること
に気づかず、日々を過ごしている人も結構、多いと思われる。 試されたとき、たとえ失敗して
自分の「思い」「願い」を押し通したとしても、その「試し」によって知った自分の深層部の度が
過ぎた「思い」「願い」を認めて、それらを握っていた心の手を離し主のみこころに従える」
ことに真剣に取り組みたいものである。 心の底から「主のみこころのままになさってくださ
い。」と口だけでなく、実際、そのように、へりくだった者にしていただき、いつどんなときにも、
どんなことにおいても「神のみこころを最優先」して神に喜ばれる者になりたいものである。 
我々主を信じる者には、必ず「神の試し」があることを覚えて、むしろそのチャンスを見逃さな
いでおきたいものである。 そうするなら、バラムのように同じような失敗を繰り返すことはない
であろう。 
 
★新約聖書(口語訳) コリント人への手紙 第二 5:9
   そういうわけだから、肉体を宿としているにしても、それから離れているにしても、ただ主
   に喜ばれる者となるのが、心からの願いである。
 


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