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2016年10月16日上からの知恵によって賢く歩む。割礼から、いろいろ思考する

著者の場合は、めんどり通信/2015年10月18日で書いたが、以前所属していた教会は偶像崇
拝に対しては、比較的に徹底していた。 著者の場合は、牧師からの指導というより、主から
直接の示しを受けていた。 振り返ってみると、当時の経験は、大いに必要なものであったと
本当にそう思う。 当時、偶像といわれる地域の行事や慣習などに自ら参加しない、子どもに
も参加させないことで、著者のうちにある「人への恐れ」や著者の心の奥に潜んでいた「偶像礼
拝に対する思い」が、徹底的に排除されたからだ。 そして、「主への愛」が確立されていった。 
いわば、このことは主からの試みでもあったと思う。 もう20年以上も前のことである。 
 
ただ、子どもたちには、「キリストのための苦しみをも賜わった(ピリピ1:29)」というみことば
が、しっくりこなかったので、どんなメリットがあったのか明確でなかったゆえ、とにかく祈りに
祈って言動した。 自分のこと以上に、子どもたちのことで、主に何度も何度も尋ねた。 そし
て与えられた答えは、「子どもたちにとっても必ず益になる」ということである。 どのような「益」
かは、わからないが、主にゆだねたことを覚えている。 子どもたちのうちについた傷や心に
残った嫌な思いさえ、主が「益」に変えてくださることを教会を出てから教えられた。 
 
最近、すっかり成人した子どもたちに話した。 「祭りのことで、あなたたちが半ば強制的に参
加しなかったことで、主は、あなたたち一人一人が傷ついた傷、忍耐などすべて見ておられ、
必ず、このことに関してのみにおいても「特別な神の恵み」が与えられるから」と。 そのように
主から示されたので、実現する前に話した。 
 
著者の場合には、直接、主からの導きと示しがあったが、皆が皆、右へ倣えではないと思われ
る。 著者の地域の場合ではあるが、秋祭りの太鼓台運行についての空気(霊の雰囲気)が
変わってきたと感じる。 参加する者たちの意識が、子どもたちが楽しむ余興、レクレーション
的な感じになっている。 だからと言って、主の定められた道を歩むにおいて安全なのか、と問
われれば、人(キリスト者)によると思われる。 もし、著者が、以前のような試みにあっていな
かったら、口先だけで「主を愛している」と言ったかもしれないし、キリスト信仰をするにおいて、
「人を恐れる」ということが心の奥底にしまい込んだままになっていたかもしれない。 キリスト
より 律法を優先させると「人に対しての恐れ」が出てくる。  同じように、キリストより自分の思
い願い考えを優先させると「人に対しての恐れ」が出てくることがある。
 
当時、偶像といわれる地域の行事や慣習などに徹底的に参加しなかったことによって、「主へ
の愛」が確立されてきたと思うし、強くなったと思う。 人目を気にするのではなく、「主を第一に
すること」に焦点が定まってきたように思う。 だから、偶像といわれる地域の行事や慣習につ
いて、何が偶像礼拝で、どうするべきか、何が偶像礼拝ではなく地域の交流、余興、娯楽、イ
ベントなのかを主に尋ねながら見極めて歩んでいる。
 
 



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