めんどり聖書研究会


めんどり通信/2016年10月16日(日曜日)主が復活された記念すべき日曜日です!ハレルヤ!
<上からの知恵によって賢く歩む。割礼から、いろいろ思考する>


★旧約聖書 出エジプト記 20:4,、5
   あなたは、・・・偶像を造ってはならない。・・・どんな形をも造ってはならない。 それらを拝
   んではならない。
 
新約聖書27巻の内、13巻はパウロ著作で、その内訳は、キリスト教会(ローマ、コリント、ガ
ラテヤ、エペソ、ピリピ、コロサイ、テサロニケ)に宛てた手紙が9通、個人に宛てた手紙が4通
新約聖書の約半分を占めている。 パウロの主張はいろいろあるが、その中でも「割礼(か
つれい)」から、いろいろ考えてみる。 「割礼」は、ユダヤ教においては、重要な宗教行事で、
男の子が生まれてから八日目に、人々の立会いの下に、施される。(創世記17:9-14)
 
イエスも12使徒たちもユダヤ人だったので「割礼」を受けていた。(ルカ2:21) ただ、イエス
は、「わたしが律法や預言者を廃するためにきた、と思ってはならない。廃するためではなく、
成就するためにきたのである。(マタイ5:17)」と仰せられた。 ということは、律法はイエスに
よって成就した、完成したということであるから、言うなれば、我々人は、与えられている聖書
のみことば(旧約、新約)をキリストのうちにある者が行なうことができるということである。(U
コリント5:17)
 
ただ、イエスが旧約聖書の律法を成就されたので、キリスト者は、律法に従うことは要求されて
おらず、「恵みの下」にいるので、旧約聖書は排除されていると考えているキリスト教会、キリス
ト者も多いと聞く。 しかし、聖書、すなわち旧約聖書も新約聖書も、神のことばである。 神の
ことばは、いつの時代にも効力がある。 問題は、聖霊の導きに従わず、主のか細い御声を
聞き落としているから、人が神のことば人の基準で解釈していることである。 神のことば
を、正しく解釈することができるのは、真の著者であり、ことばを語られた主なる神ご自身であ
る。 この方に尋ね、この方に拠り頼み、聖霊の導きを求め、従うことが必須である。 このこ
とを我々人は、しっかりと肝に命じておくことが必要である。 
 
さて、「割礼」について、こんなことがあった。 コルネリオという異邦人の家で、ペテロと一緒に
来ていたユダヤ人信者たちは、異邦人が割礼も受けずに、聖霊が彼らの上に下ったのを見て
驚いた。 割礼を受けるというのは、異邦人がユダヤ人になるための儀式であり、それをせず
に聖霊が彼ら異邦人に下ったのだ。 このことは、エルサレム教会にも報告されたが、エルサ
レム教会のユダヤ人で割礼を受けた者たちは、ペテロが「割礼」の受けていない異邦人の家
に行き、食事を共にしたと彼を非難した。 しかし、ペテロは堂々と、事の次第を順序正しく説
明して証した。 神の御霊がペテロを導かれた上での、異邦人との食事、交わりであったから
だ。 それは、神の啓示であった。 ユダヤの人々にとって「異邦人」とは「罪人」と同じ意味
だった。(ガラテヤ2:15) だから異邦人と食事を共にして交わったり、道を一緒に歩くことすら
忌み嫌った。(使徒10章11章)
 
また、「割礼」を巡って、このようなこともあった。 ペテロがアンテオケに来た時、ペテロがすで
にユダヤ人の食物規定を捨て、ユダヤ人の慣習を捨てており、異邦人たちと主にあって食事
を共にして交わっていたのに、エルサレム教会のヤコブのところから来ている割礼派の者たち
を見ると、異邦人と共にしていた食事の席から、だれにも気づかれないように、何気なく離れて
行った。 ペテロの取った行動は、それまで良い働きをして敬虔なバルナバまでも、その偽り
の行動に引き込み、他のユダヤ人信者たちも、引き込んだ。 それを見たパウロは、みなの面
前でペテロに抗議し、非難した。(ガラテヤ2:11-21) 
 
このパウロの叱責の内容を、ペテロはよく理解していたし、パウロが「主に対する愛」「主に
あっての正しい心」で言ったこともよく理解できていた。 かくいうペテロも主を愛していたからで
ある。 それで、自分の心の奥底にあったもの露呈されてなお更、自分の行動に恥ずかしさ
を覚えたであろうと思われる。 聖書には記されていないが、ペテロは深い悔い改めに導かれ
たと思われる。 後に書かれたペテロの手紙を読むとそのことが窺える。 ペテロは、指摘し、
叱責してくれるパウロがいたから、主の喜ばれる道を進むのに妨げる心の奥底に潜むもの
明らかにされ、軌道修正できた。 
 
「あからさまに責めるのは、ひそかに愛するのにまさる。憎む者がくちづけしてもてなすよりは、
愛する者が傷つけるほうが真実である。(箴言27:5、6)」という聖書のことばがあるが、正しく
明確な指摘、叱責がないなら、いくら、人から「すばらしい主の働きをしている」と言われ、口で
「私は主を愛している」と言っても、主イエスからは、「わたしはあなたがたを全然知らない。
不法をなす者ども。わたしから離れて行け。」と言われる恐れがないとは言えない。(マタイ
7:21-23) 主は、砕かれた者をいやし、へりくだった人と共にいてくださるからである。(イザヤ
57:15) 正しく明確な指摘、主に対する愛をもっての叱責により、砕かれ、整えられることの必
要な人が結構いるかもしれない。 
 
本来、パウロが主張していることは、「人は律法の行ないによっては義と認められず、ただキリ
スト・イエスを信じる信仰によって義と認められる、救われる(ガラテヤ2:16)」である。 これが
「神の恵み」である。 ペテロが、パウロの指摘を受けて、心の奥底に潜むもの明らかになっ
たが、その一つは、エルサレム教会から来た割礼派の者たちの目を気にしたこと、すなわち、
人を恐れたこと。 もう一つは、「神の恵み」を無下にしてしまう恐れがある、律法主義的なとこ
ろが残っていたということである。 いずれも、主が喜ばれる歩みから逸れていく要因となり得
るものである。
 
エルサレム教会の指導者であったヤコブは、エルサレム会議で、「神に立ち返ろうとする異邦
人を悩ますべきではない。 ただ、偶像に供えて汚れた物と不品行と絞め殺した物と血とを避
けるように書き送るべきだ。(使徒15:19,20)」という4つの但し書きを提言した。 これは、長い
間、ユダヤ的環境、律法の教育の下で育ってユダヤ性が染みついて来たユダヤ人と異邦人
が共に歩み寄るためのお互い、納得せざるを得ない最低限の線引きの言葉で、上からの知
の言葉ではないだろうか。 しかし、パウロの基本は、「主イエス・キリストの恵みによって救
われる」で、そこから一歩も譲っていない。 ただ、パウロは、ヤコブの言葉をよく理解していた
と思われる。 
 
パウロが第二次伝道旅行にテモテを連れて行くに際して、「その地方にいるユダヤ人の手前、
彼に割礼を受けさせた」からだ。(使徒16:3) パウロは、異邦人がキリスト教会に加えられる
時に、割礼を受ける必要はない、ということを強く主張していたにもかかわらずである。 この
テモテは、父がギリシャ人、母がユダヤ人で、いわば、ハーフだった。 パウロは、「主イエス・
キリストの恵みによって救われる」ということを根本に置き、堅く立って揺るがなかったが、人を
救うための人との関わり方においては、柔軟であった。 何とかして、幾人かでも救うために、
「ユダヤ人にはユダヤ人のようになり・・・、律法を持たない人々に対しては・・律法を持たない
者のようになり、すべての人に、すべてのものとなった(Tコリント9:19-22)」と言っていること
からも窺(うかが)い知ることができる。 
 
パウロは、旧約時代の神の民の歴史を担ってきたユダヤ人キリスト者たちと、主イエス・キリス
トを信じて神の民となった異邦人キリスト者たちとの間の架け橋になろうとした人物である。 
「キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ちこわし、ご自分の
肉において、敵意を廃棄された方です。・・・二つのものをご自身において新しいひとりの人に
造り上げて、・・(エペソ2:14-18)」のことばや、他にもパウロの手紙や主のために「命」をかけ
彼の歩みからもわかる。 だから、テモテが今後、異邦人にもユダヤ人にも伝道をし、両者
を一つにする働きをすることができるために、「割礼」を受けさせたのではないだろうか。 決し
て、人を恐れるあまりの「ユダヤ人の手前」ではない。 決して、律法主義に戻ったのでもな
い。 いわば、臨機応変とでも言うべきかもしれない。 そこが、パウロが、ヤコブの4つの但し
書きを提言を理解していたところであろう。 
 
「割礼」のことで、いろいろ見ていくとき、人は、律法主義的になるのは、何もユダヤ人だけでは
ないかもしれないと思う。 我々すべての人間は、アダムとエバ以来の性質(罪の性質)を受け
継いでいる。 だから、ユダヤ人でなくとも、「・・・してはならない」、「・・するべきである」とか、
半ば強制的に自分を縛り、また人からも縛られるということが、キリスト者でもあり得ることだ。 
 
例えば、「偶像礼拝をしてはならない」神のことばであるが、何が偶像礼拝なのか、どうする
ことが偶像礼拝であって、どうすることがセーフなのか・・・ を教会(牧師や指導者)やキリスト
者が、聖書のことば使って自ら判断して定めて、守り守らせているということの方が結構多い
のではないかと思う。(めんどり通信/2015年10月18日<地域の行事、秋祭りにどう対応する
か:出エジプトしたイスラエル人と異邦人ナアマンと証しから思考>、2013年9月8日<偶像礼
拝にどう対応するか:ナアマンに学ぶを参照してください> 
 
著者の場合は、めんどり通信/2015年10月18日で書いたが、以前所属していた教会は偶像崇
拝に対しては、比較的に徹底していた。 著者の場合は、牧師からの指導というより、主から
直接の示しを受けていた。 振り返ってみると、当時の経験は、大いに必要なものであったと
本当にそう思う。 当時、偶像といわれる地域の行事や慣習などに自ら参加しない、子どもに
も参加させないことで、著者のうちにある「人への恐れ」や著者の心の奥に潜んでいた「偶像礼
拝に対する思い」が、徹底的に排除されたからだ。 そして、「主への愛」が確立されていった。 
いわば、このことは主からの試みでもあったと思う。 もう20年以上も前のことである。 
 
ただ、子どもたちには、「キリストのための苦しみをも賜わった(ピリピ1:29)」というみことば
が、しっくりこなかったので、どんなメリットがあったのか明確でなかったゆえ、とにかく祈りに
祈って言動した。 自分のこと以上に、子どもたちのことで、主に何度も何度も尋ねた。 そし
て与えられた答えは、「子どもたちにとっても必ず益になる」ということである。 どのような「益」
かは、わからないが、主にゆだねたことを覚えている。 子どもたちのうちについた傷や心に
残った嫌な思いさえ、主が「益」に変えてくださることを教会を出てから教えられた。 
 
最近、すっかり成人した子どもたちに話した。 「祭りのことで、あなたたちが半ば強制的に参
加しなかったことで、主は、あなたたち一人一人が傷ついた傷、忍耐などすべて見ておられ、
必ず、このことに関してのみにおいても「特別な神の恵み」が与えられるから」と。 そのように
主から示されたので、実現する前に話した。 
 
著者の場合には、直接、主からの導きと示しがあったが、皆が皆、右へ倣えではないと思われ
る。 著者の地域の場合ではあるが、秋祭りの太鼓台運行についての空気(霊の雰囲気)が
変わってきたと感じる。 参加する者たちの意識が、子どもたちが楽しむ余興、レクレーション
的な感じになっている。 だからと言って、主の定められた道を歩むにおいて安全なのか、と問
われれば、人(キリスト者)によると思われる。 もし、著者が、以前のような試みにあっていな
かったら、口先だけで「主を愛している」と言ったかもしれないし、キリスト信仰をするにおいて、
「人を恐れる」ということが心の奥底にしまい込んだままになっていたかもしれない。 キリスト
より 律法を優先させると「人に対しての恐れ」が出てくる。  同じように、キリストより自分の思
い願い考えを優先させると「人に対しての恐れ」が出てくることがある。
 
当時、偶像といわれる地域の行事や慣習などに徹底的に参加しなかったことによって、「主へ
の愛」が確立されてきたと思うし、強くなったと思う。 人目を気にするのではなく、「主を第一に
すること」に焦点が定まってきたように思う。 だから、偶像といわれる地域の行事や慣習につ
いて、何が偶像礼拝で、どうするべきか、何が偶像礼拝ではなく地域の交流、余興、娯楽、イ
ベントなのかを主に尋ねながら見極めて歩んでいる。 
 
要は、何事においても、主が、「良し」と言われたことが「良い」のであり、主が、「否」とされるこ
とが、「否」なのである。 我々は、人や世ではなく、「主なる神」に聞くべきであろう。 そうする
なら、律法主義に陥ることはないし、表面的だけで「主に従う」ということがなくなっていく。 パ
ウロのように、主のために「命」をかけ、ペテロのように、砕かれて、真の悔い改めに導かれ、
パウロやヤコブのように、上からの知恵による臨機応変で賢く歩んで行けるであろう。(ヤコブ
3:17、エペソ5:15) 日々、絶えず、主イエス・キリストから目を離さず、主に尋ねること、いつも
祈ること、神に依り頼むことをしていきたいものである。
 
★新約聖書 エペソ人への手紙 5:5
   あなたがたがよく見て知っているとおり、不品行な者や、汚れた者や、むさぼる者――こ
   れが偶像礼拝者です。――こういう人はだれも、キリストと神との御国を相続することがで
   きません。
 
 
 
 



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