めんどり聖書研究会


めんどり通信/2015年10月18日。主が復活された記念すべき日曜日です!ハレルヤ!
地域の行事、秋祭りにどう対応するか:出エジプトしたイスラエル人と異邦人ナアマンと証しから思考


★旧約聖書  申命記 11:16
   気をつけなさい。あなたがたの心が迷い、横道にそれて、ほかの神々に仕え、それを拝
   むことのないように。
 
★旧約聖書 詩篇 143:10
   あなたのみこころを行なうことを教えてください。あなたこそ私の神であられますから。・・・
 
●毎年、秋になると地域によってはだんじりや山車(だし)、太鼓台、屋台などを、地域の人た
ちが町内を引っ張ったり、練り歩く。 刺繍などの伝統工芸の技が披露される。 また、太鼓台
などは、宮入りして神前での練りによる奉納がなされる。 神輿(みこし)が神社の所有物であ
るのに対して、太鼓台は山車と同様に氏子地域からの出し物 であることが多いという。 た
だ、昔に比べて今では、太鼓台の宗教色が、薄くなってきたように思われる。 氏子云々という
神道の宗教行事に参加するというより、地域の大人、子どもたちが、交流を深めていくために
参加している人が増えてきているようである。 昨今は、秋祭りを宗教として捉える人が大幅に
減少していることは事実であろう。 だからと言って、100%宗教色がないわけではない。
 
この件に関することを聖書から思考してみる。 旧約聖書 出エジプト記32章。 エジプトに囚
われていたイスラエル人は、モーセに率いられて、出エジプトして約3か月後、荒野で神の戒め
を授けられるためシナイ山に登って行ったモーセを待っている間に、子牛崇拝に興じた。 イス
ラエル人たちは、奴隷から解放されるまでにも、神の大きな奇蹟を幾つも見たり、体験したりし
ていたはずなのに、彼らは、金の耳輪をはずして、アロンに渡し、アロンは金の子牛を造り、そ
れを祭壇に祭った。 そしてそれに全焼のいけにえをささげ、和解のいけにえを供えた。 イス
ラエル人たちは、子牛をエジプトから自分たちを導き出してくれた神だと担ぎ上げ、飲み食い
し、立っては、戯(たわむ)れたとある。 
 
神からこのことを知らされて山から降りて来たモーセは、この偶像崇拝、神を冒涜(ぼうとく)し
て浮かれ騒ぐ人々を目の当たりにし、怒りを爆発させ、結局、この悪い行ないを止めない、心
をかたくなにする者たちはみな殺されたということである。 
 
また、列王記 第二 5章に登場するアラムの王の将軍で異邦人のナアマンの場合。 彼は、
らい病をいやされ、イスラエルの神こそが、真の神であることを知った。 今後は、自国に帰っ
てもイスラエルのまことの神を礼拝すると宣言したものの、主君の介添え役で、王がリモンの
神殿に入って、そこで拝む場合、王と一緒にリモンの神殿で身をかがめることになる。 そのこ
とを、許してくださるようにとエリシャに二度、繰り返し願った(U列王記5:18) エリシャの答
えは「安心して行きなさい」だった。 
 
この「安心して行きなさい」ということばは、イエスが長血の女をいやされたとき、イエスの頭に
香油をそそぎ、足に香油を塗ったひとりの罪深い女に赦しのことばを宣言なさったときにも仰
せられた。(ルカ8:48,7:50) こうしてみるとここの「安心して行きなさい」は、エリシャ自らの言
葉ではなく、主なる神から預かった「ことば」であると思われる。 「私がリモンの神殿で身をか
がめるとき、どうか、主がこのことをしもべにお許しくださいますように。」という「許し」は、ある
意味、神の領域だからである。 だから、ナアマンは異教の地で、主が「良し」とされる「信仰」
を全うできたと推測される。 
 
ただこのときは、ナアマンは初めて真の神を知った、すなわち生まれたばかりで信仰が成長し
ていないから、偶像礼拝をきっぱりと拒否できない態度をとるのは仕方がないこと、聖書知識
や信仰が成長したら毅然と立てるようになる、というキリスト教会の見解が多い。 ある意味、
その通りの部分はあるかと思うが、それでも信仰や聖書知識が成長しているから偶像礼拝を
明確に拒否できるできるとは一概には言えないかもしれない。(めんどり通信/2013年9月8日
<偶像礼拝にどう対応するか:ナアマンに学ぶ>を参照) 
 
いずれにしても、出エジプトしたイスラエル人たち場合は、エジプトへの十の災いという不思
議を見たり、その中での神の奇跡的な守りや、絶体絶命の危機に、昼は雲の柱、夜は火の柱
に守られながら進んで行くという奇跡や多くの奇蹟も体験した。 彼らは、真の神を体験的に
知っていたのである。 にもかかわらず、金の耳輪をはずした。 それは、出エジプトさせてくだ
さった真の神への信仰を捨てる、従うことをやめるという彼らの意思表示であった。 
 
一方、異邦人ナアマンの場合、外側の形は、信仰の幼さ、弱さのゆえ、偶像礼拝に対して毅然
と立てないと見えるかもしれないが、そうとも言えないのではないだろうか。 信仰が幼いから、
まだ弱いから、務めでリモンの神殿で身をかがめること許されたのではなく、要は、神が、
そのことを偶像礼拝と見なされなかったから許されたのではないだろうか。 もしかしたら、後
に主によって、務めを辞めてでもリモンの神殿で身をかがめること止めるよう促されるときが
来たならば、ナアマンは従うことができることを、主はご存知だったのではないだろうか。 だか
ら、エリシャは「安心して行きなさい」と言ったとのではないだろうか。 主はナアマンの心の奥
を見られていたであろう。 「人はうわべを見るが、主は心を見る」からだ。(Tサムエル16:7) 
 
「偶像を造ってはならない。 偶像を拝んではならない。(出20:4、5)」これは紛れもない神の
ことばである。 キリストを信じる者はみな、このことばに従うべきであろう。 ただ偶像礼拝
は、神が偶像礼拝と見なされたなら「偶像礼拝」なのである。 そして、この「みことば」を神が
望まれている通りにできるまでの過程にも、「神のみこころ」がある。 いわば、過程も、結果も
すべて一人一人に応じて、「主のみこころ」「主の計画」がある。 大切なことは、祈って、主が
今、自分に、どうすることを望まれているのかを知ることである。 「偶像を拝んではならない。
(出20:4、5)」を、聖霊に導かれて行なうために、今その時に、どうしたらよいのか、どう行動す
べきかを主に尋ね、祈って祈って知ることである。 
 
著者の場合。 キリストに救われる前、自分が変わるため、救われるために、数々の偶像礼
拝でお金も時間もかけた。 しかし、一方的な神のあわれみによって救われてから、偶像礼拝
から離れることができた。 信仰にしっかり立って間もないころ、神社の前を通ると鳥肌が立っ
たことがある。 著者の地域では秋祭りには太鼓台が出るが、それにも全く参加しなかった。 
著者の場合、当時所属していた教会の教えだけでなく、主が直接、著者にそれに参加してはな
らないと迫られていた。 まだまだ信仰が弱く、受けていた迫害の中で「主のことば」を守り通す
のは正直、大変だった。 
 
また、著者の子どもたちも偶像礼拝から守らなければ、主の嫌われることから離れさせなけれ
ばならないと、祭りに参加することを聖書のことばなどを話して止めた。 子どもたちは、親の
言うことだから従わなければならないと、従った。 その結果、友だちからいじめを受け、彼ら
の心は傷ついた。 その後、著者は所属していた教会から追い出されたが、その頃から、教会
で受けたマインドコントロールや教えが、著者の内から取り除かれるまで、祈りに祈って数年か
かった。 もちろん、正しい教えも多かったが、それでも取り除かれなければならないものを主
が直接、教えてくださった。 主の御心を必死に何をしていても尋ね求めていた。 
 
そうして、子どもたちも大きくなり、それぞれ親の傘下ではなく自分の意志で持つ信仰を問われ
るようになった。 その様子を見ていて、偶像礼拝を避けることに関して、半ば強制的な感じで
あり、子どもたちは苦しみ傷ついたので、自分は間違っていたのだろうか、と主に尋ねた。 す
ると主の答えは「あなたは間違っていない。」と語られ、今までの「過程」「良し」とされた。 今
では子どもも、自分は そこを通る必要があったこと、主が通されたこと、そして益にしてくださ
ることを悟っている。 今、子どもたちは、主の祝福を受けていると思うが、今後はもっともっと
大きな主の祝福を受けると主は著者に不思議な方法で語られた。
 
数年前から、偶像礼拝について、しかも地域の行事や習慣などについて実際、生活の中でど
う対応すべきかを考えるようになった。 秋祭りを機に太鼓台のことで、何が問題なのか、何が
偶像礼拝なのかを考えてみたが、偶像を拝むということから考えると、太鼓台の宮入ではない
かと思う。 しかし、町内を太鼓台を引っ張ったり、練り歩くことは、果たして今日、偶像礼拝と
言えるのかどうか? 今日では、多くの人たちが思っているように、薄くなっている地域の人た
ちのつながりの手段とは考えられないだろうか? 太鼓台を担ぐ人たちの中には、明らかに心
から神事と認識して、お宮の神に奉納している人もいるであろう。 それは主なる神から見られ
たら「偶像礼拝」だと言わざるを得ない。 しかし、純粋に地域の大人、子どもたちが、交流を
深めていくためにと、太鼓台に参加している人も多いのではないかと思う。 
 
だからと言って、キリストを信じていても両手広げて祭りに参加していいんだと安易に思うこと
は、主の御心ではない。 そういう人は、主を愛すること、本当に主の御心を知ることより、人
の目を気にしているからだ。 たとえ、人目を気にするところがあったとしても、主を第一にして
いるかどうか、主を愛しているかどうかが、心の奥底にある「思い」の中で最優先になっている
かどうか重要である。 また、祭り、太鼓台に関して、偶像礼拝の部分と主が許容されてい
る範囲とを見きわめるためには、もう少し主に尋ねていくとことが必要だと感じている。
 
太鼓台について、このように聖書(イスラエル人や異邦人ナアマン)から教えられた結果、それ
では著者が以前、太鼓台のことで何が偶像礼拝なのかを今のように明確になっていなくて、と
にかく神の忌み嫌われる偶像礼拝から離れたらいいのにという思いで牧会、伝道した人たち
のことが気になって主に尋ねた。 すると教えられたことは、祭りのことで以前著者が牧会した
ことば受け入れてキリストのゆえに苦しみ、主から離れなかった人は祝福を受ける(受けた)
だろうということである。 しかし、離れた人たちは どうなのか? それでも その中で本当に主
が救おうと定めておられる人たちは、何らかの形で主が救ってくださるであろうということも語っ
てくださった。 救いは神のもの、主が救われるからである。 ともすれば著者の失敗と思われ
るようなことさえ、失敗とされず、主は「良し」とされたばかりか、著者が伝道、牧会した一人一
人に対して、主が責任を持ってくださることを知って著者は平安を得た。 主に感謝!主を褒め
称える。 主は、このようにあわれみ深いお方である。
 
主の御心は、すべての人が救われて、真理を知るようになることであり、ひとりでも滅びること
を望まず、すべての人が悔い改めに進むことである(Tテモテ2:4、Uペテロ3:9) 主が否と
される偶像礼拝は、当然、避けなければならないが、地域の人々が救われるために、躓(つま
づ)きとなってはならない。 教会では、キリスト者が迫害を受けても反対されても、信仰に毅然
と立つべきで、世の人に合わせてはならないという。 全く、その通りである。 しかし、そのこと
についても、キリスト者が口で言っていることと、主が望まれていることに何かしら、ずれがある
ように感じられる。 キリスト教会が長年、言ってきたことだからとか、聖書に、こう書いている
から、こう解釈すべきだからということさえ、一つ一つ、主に尋ね聖霊の導きによって自分のも
のとして獲得させていただくことが必要な時代になったように思う
 
とにかく、我々キリスト者(クリスチャン)は、どのような「聖書のみことば」も、主に尋ねてキリス
トにしっかりつながった上、聖霊に導かれて、キリストにあって行なえるようになるために求め
ていくべきであろう。 キリストにつながっている者は、更に深みでつながっていくことを求めて
いくべきであろう。 そうしているなら、一つ一つ、主はキリスト教会の常識、世の常識ではな
く、神なる主の常識(みこころ)を、教えてくださり、表面上のかたちだけに囚われず、「主のみ
こころ」を知って、深みから主を愛し主に愛される者へと変えられていくであろう。 日々、絶え
ず、主イエス・キリストから目を離さず、主に尋ねること、いつも祈ること、神に依り頼むことを
していきたいものである。
 
★新約聖書 ヨハネによる福音書 15:13,14
 人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。わ
 たしがあなたがた に命じることをあなたがたが行なうなら、あなたがたはわたしの友です。



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