めんどり通信/2017年5月28日(日曜日)主が復活された記念すべき日曜日です!ハレルヤ! <「教会の建て上げ」「教会作り」「教会のあり方」についての思考> |
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★旧約聖書 詩篇 32:8
わたしはあなたを教え、あなたの行くべき道を示し、わたしの目をあなたにとめて、さとす
であろう。
★新約聖書 マルコによる福音書 4:9
そしてイエスは言われた。「聞く耳のある者は聞きなさい。」
★旧約聖書 箴言 2:4、5
銀を求めるように、これを求め、かくれた宝を尋ねるように、これを尋ねるならば、あなた
は、主を恐れることを悟り、神を知ることができるようになる。
●「教会の建て上げ」「教会作り」「教会のあり方」などのテーマは短い文章で終われるようなも
のではないが、あえて思考しながら書いてみた。 多くのキリスト教会は、使徒行伝時代の教
会を模範にして教会づくりをしてきたと思われる。 特に、パウロの教えや手紙を中心に、教会
の教義や信仰を定義し、教会の形態を作ってきた。 よく言う「教会の建て上げ」は、パウロの
教えをもってキリストの言わんとされていることを理解するところから始めているところが多いと
思われる。 キリスト教の基礎を築いたのはパウロと言っても過言ではないと多くの教会は認
めているからであろう。 新約聖書27巻のうち、パウロの書簡は14巻もあることも、それを裏付
けていると言う者もいる。(へブル人への手紙をパウロの書簡と入れた場合)
このようにパウロの書簡は多いが、イエスから直接、教えを聞いた12使徒のものは少ない。
12使徒が著者となっているのは、マタイによる福音書のマタイ、ヨハネによる福音書やヨハネ
の手紙TUV、ヨハネの黙示録のヨハネ、ヤコブの手紙を書いたヤコブ(小ヤコブ) ユダ書
のユダ、ペテロの手紙TUのペテロである。 福音書を読んでいて、イエスの言動こそ 「わた
しはこの岩の上にわたしの教会を建てる」と言われたイエスご自身の教会の設計図のヒントか
あるのではないかと思った。 教会のあり方の原本が使徒行伝のパウロが建てた教会というよ
り、イエスの言動にあるのではないかという突拍子もない考えが起こってきた。 モーセが幕屋
の設計図を神から頂き、ダビデも神殿の仕様書(設計図)を神から示されたが、イエスは「ご自
分のからだが神殿(幕屋)」だと仰せられたからだ。(T歴代誌28:11,12,18,19、ヨハネ福2:21)
イエスは、ご自身が特別に選ばれた12使徒たちと、この地上で共におられたとき、神の国の奥
義の解釈を12使徒たちに直接、語られていたと思われる。(マルコ4:11、ルカ8:11) 12使徒
たちは、常にイエスのそばにいて直接、教えを受け、神のご計画、つまり奥義を受けていたと
思われるが、その詳しい内容は書かれていない。 四福音書に書かれているイエスのことばや
イエスのなさったことは、ほんの一部にすぎない。 ヨハネも「イエスのなさったことは、このほ
かにまだ数多くある。もしいちいち書きつけるならば、世界もその書かれた文書を収めきれな
いであろうと思う。(ヨハネ福21:25)」と、そのことを言っているからだ。
イエスから直接、神の深いご計画、天の御国の奥義、・・・などの教えを受け、訓練を受けたキ
リストの直接の弟子たちは12弟子以外にもいたと思われる。 また、その中にはマグダラのマ
リヤなどの女たちもいたと思われる。 イエスの宣教の旅には数人の女たちもいたことが書か
れている。(ルカ8:1-3) イエスが十字架にかけられる時にも、大ぜいの民衆と、悲しみ嘆いて
やまない女たちの群れとがイエスに従っていたと書かれている。(ルカ23:27) その中でも、イ
エスがガリラヤにおられたとき、いつもつき従って仕えていた女たちの名まえが書かれている。
マグダラのマリヤと、小ヤコブとヨセの母マリヤと、サロメ。(マルコ15:40,41) その女たちも、
イエスの一行の世話をしながら、少し離れた処で弟子たちと一緒にイエスの教えを聞いたもの
と推測できる。
女たちは、イエスに最期までつき従い、十字架にかかられたイエスを遠くから見守り、3日目の
イエスの復活では、イエスは一番最初にマグダラのマリヤに現われた。 そのような女たちに
ついて、聖書で多くは語られていないが、女たちもイエスから直接、神の深いご計画、天の御
国の奥義、・・・などの教えを聞いたであろう。 また、そのような体験をした女たちも、聖霊を受
け、12使徒たち同様、やはり、イエスにつき従って、イエスの十字架の死と復活、イエスが間違
いなく「主」であり「メシア(救い主)」であること、イエスから直接、学んだ教えを伝えていったの
ではないだろうか。 要は、直接、イエスから教えを受けた弟子たちも女たちも、「復活の証人」
として宣教していったと思われる。
最初は、口頭によって伝え、その後、口伝から文書へと転換していったようだ。 当初は、直接
イエスから教えられた者たちからの言葉ゆえ、リアルティのある口調と感じだったと推測でき
る。 文書になって後、長いキリスト教会の歴史の中で聖書は多くの人たちにより書き換えられ
たり、各国の言葉に翻訳された。 翻訳や編集されるとき、どうしても正確に伝えることが難し
かったとようだ。 原典で書かれている通りの正しい意味を伝えられなくなってしまった部分が
多かったと思われる。
それでも、聖書の中には、神のことば、主イエスのことば、主イエスの行動、奇跡、いやし、不
思議、・・などの事実と真実がある。 畑に隠してある宝を探し見つけ出すように、真に主に求
め探し出すことを取り組む者に、「宝」、すなわち「進むべき道」を示してくださるであろう。(マタ
イ13:44) そして、その示された「道」を「主と共に歩む者」を神の方が求めておられる。
さて、そういうわけで、福音書を見てみると、約30歳でイエスがキリストとして立たれ「悔い改め
よ、天国は近づいた」とガリラヤから宣教を始められた。(マタイ4:17) イエスはガリラヤの全
地を巡り歩いて、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、民の中のあらゆる病気、あらゆるわ
ずらいをおいやしになった。 イエスの評判はシリヤ全地にひろまり、人々があらゆる病にか
かっている者、すなわち、いろいろの病気と苦しみとに悩んでいる者、悪霊につかれている者、
てんかん、中風の者などをイエスのところに連れてきたので、これらの人々をおいやしになっ
た。 その後も、イエスが行かれるところには、教えを聞くため、病気をなおしていただくため
に、大勢の群衆が集まってきた。
集まってきた群衆にイエスは、たとえを用いて彼らに多くのことを語られた。 たとえを語られた
後、弟子たちには、「あなたがたには、天の御国の奥義を知ることが許されている」と言われ、
たとえの解釈も教えられた。 イエスがおられるところ、それは「教会」とも言えよう。 「ふたり
または三人が、わたしの名によって集まっている所には、わたしもその中にいるのである。」と
主イエスは仰せられたからである。(マタイ18:20) イエスを中心として大勢の群衆が、集まっ
て教えを聞いていたとしても、「教会」とは言えない。
やはり、イエスは「わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる」と言われたが、「あなた(イエ
ス)こそ、生ける神の子キリストです」と口先だけでなく、生き方、歩みが弟子の歩みをしている
者の上に、イエスはご自身の教会を建てられるということである。(マタイ16:16,18) イエスが
言われた弟子の条件は、@だれでも、父、母、妻、子、兄弟、姉妹、さらに自分の命までも捨
てて、わたしのもとに来るのでなければ、わたしの弟子となることはできない。(ルカ14:26) A
自分の十字架を負うてわたしについて来るものでなければ、わたしの弟子となることはできな
い。(ルカ14:27) B自分の財産をことごとく捨て切るものでなくては、わたしの弟子となること
はできない。(ルカ14:33) @〜Bまで、意味は同じことである。 要は、主のことを最優先せ
よということである。 言うなれば、家族は、キリストにあって愛するべきであり、自我や肉は砕
かれてキリストにあっての自分であるべきであり、財産もキリストにあって采配するものである
ということだ。
イエスと弟子たちだけがおるところ、そこがイエスの望まれる教会、イエスが建てようとされる
教会だったのではないだろうか。 ローカル・チャーチ(地方教会)のイメージではなく、「ユニ
ヴァーサル(普遍的)・チャーチ」を主は建てるといわれているのだと思う。
こうしてみると、イエスが建てられる教会は、世の会社のように組織化されていない。 今日の
教会の多くは、聖書のみことばを使うが、人が決めた様々な決まり事を制度化していることが
多いようである。 しかし、イエスがおられたときには、イエスが中心であり、人が決まり事を制
度化するということはない。 イエスがおられるところに光があり、その光を求めて人々は集
まってきた。 ただ、最終的に自分の利益を求めていた多くの群衆は、光であるイエスから離
れて行った。 このことは、今日も同じであろう。
初期のキリスト者(クリスチャン)たちは、イエスから直接、神の深いご計画、天の御国の奥
義、・・・などの教えを受け、訓練を受けた使徒たちやキリストの弟子たちの指導によって、世
的な組織に縛られない、人間の作った決め事を制度化しない、むしろ各々の形態をもっていた
と推測できる。 それが、具体的に どのような形態であったのかは、聖書に書かれていない
が、パウロが建てた後、組織化制度化された教会の形態とは違う形態だったのではないだろ
うか。
世界中のあちらこちらに イエスから与えられた「いのちの光」を持つ「光の柱」が建てられ、心
底「光」を求めていた人たちが、その「光」を見て引き寄せられて輝くという光景が、今後見える
だろうか。 「光の柱」は、主が「呼び出された者たち=教会(エクレシヤ)」である。 「光の柱」
は、建物ではなく、体制、組織でもない。 いずれにしても、キリストの弟子であるためにも「キリ
ストと自分」、「神と自分」、「主と自分」という一対一の「かかわり」「交わり」が確固たるものとな
るように真剣に取り組んでいきたいものである。
(「光の柱」について:めんどり通信/2014年12月14日<エルサレムから東のほう「日本」に注
目:「シュネムの女」と「四人の女」から思考>/2015年1月18日<終末に建て上げられる教会
について:旧約の神殿と新約の教会から思考>/2015年4月12日<なぜ、復活の主は最初に
マグダラのマリヤに現われたのか?>
)
★旧約聖書 詩篇 25:12
主を恐れる人はだれか。主はその選ぶべき道をその人に教えられる。
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