めんどり通信/2016年11月6日(日曜日)主が復活された記念すべき日曜日です!ハレルヤ! <アダムとエバから、いろいろ思考> |
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★旧約聖書(新共同訳) 箴言 3:32
主は曲がった者をいとい/まっすぐな人と交わってくださる。
★旧約聖書 エレミヤ書 20:12
正しい者を調べ、思いと心を見ておられる万軍の主よ。・・・・
●「アダムとエバ」から、今まで、いろいろ思考してきた。(めんどり通信/2009年12月13
めて、思考してみる。
神は、「人」を「われわれのかたち(神のかたち)」、すなわち、「男と女」とに創造された。(創世
記1:26,27) 聖書の中では常に、「わたし」と単数形で語っておられる神が、ここでは、「われわ
れ」と複数形で語っておられる。 それは、このことで「交わり」ということを示しておられ、「神と
人」が、「愛の交わりをする」ために、「人」を「特別な存在」として創造されたことを意味してい
る。(創世記1:28、5:2) 「神のかたち」とは、「父と子の聖霊による交わり」である。 「父なる
神と子なる神(イエス・キリスト)」が、「対等に向き合える、対話できる親しい愛の関係、愛の交
わり」である。(ヨハネ福1:1,2) 主イエスも、「父よ、あなたがわたしにおられ、わたしがあなた
にいる」、「わたしたち(父とイエス)が一つである」と言われた。(ヨハネ福17:21,22)
だから、神は、人(アダム)に「交わり」をさせるために、「人が、ひとりでいるのは良くない。・・
彼にふさわしい助け手を造ろう。」と、まず、造られたすべての家畜、空の鳥、野のあらゆる獣
を彼のところに連れて来られた。 神は、人(アダム)が、それらに合うふさわしい、どんな名を
つけるのかを見られた。 人は、それらを、よく観察し、それらに合う名をつけたが、結局、「ふ
さわしい助け手」は見つからなかった。 そうした経過の後、神は、人のあばら骨の一つから
「女(エバ)」を造られ、人(アダム)のところに連れて来られた。 彼は、「私の骨からの骨、私
の肉からの肉」と喜んだ。 女(エバ)こそ、男(アダム)に「ふさわしい助け手」であった。
「ふさわしい助け手」とは、原語では、「顔と顔を向け合っている相手」、「彼と向き合う者として
の助け手」といった意味だという。 また、「助け手」というのは、原語のヘブル語では、何ら従
属の意味は含まれず、むしろ神を形容する高貴な言葉であるという。 男(アダム)と女(エバ)
は、共に語り合い、共に助け合う「対等に向き合えるパートナー」であったということであり、ふ
たりは一体である。 すなわち「一つである」ということだ。 それこそが「神のかたち」である。
それでは、なぜ、神は、最初から、「ふさわしい助け手」として、「女エバ」を造られなかったのだ
ろうか? それは、最初、人(アダム)を造られたとき、神は人に「自由意志」を与えられた。
人は「自由意志」のないロボットとして造られたわけではないので、「自由意志」によって正しく
「交わる」こと、すなわち、「ふさわしい助け手」と、「対等に向き合えるパートナー」として「愛の
交わり」をすることができるようにとの、ある意味、訓練だったのかもしれない。 すべての家
畜、空の鳥、野の獣を人(アダム)に「自由に」観察させ、「自由に」名まえをつけさせることに
よって、「ふさわしい助け手」との「交わり」の重要性を教えようとされたのかもしれない。
また、すべての家畜、空の鳥、野の獣の本質を見抜くことによって、創造主である神のご本質
を少しでも理解し、すべての家畜、空の鳥、野の獣の名まえを「自由に」つけることによって、
神が「人」を被造物の中でも「特別な存在」として造られていることを教えようとされ、その「神と
の正しい交わり」を続けさせるためだったのかもしれない。 「神との交わり」は、人間中心で
あってはならないからだ。
アダムは、エバが造られる前、先にエデンの園に置かれ、そこを耕しながら、「自由に」園のど
の木からでも思いのまま食べることができた。 ただ、「善悪を知る木からは食べてはならな
い。 取って食べると必ず死ぬ。」と、神の命令の「ことば」があったので、たった一つの木、「善
悪を知る木」からは取って食べることはなかった。 これは、人類最初の「神の試し」であろう。
アダムが一人で園にいた時間、期間はどのくらいか、わからないが、アダムは、「善悪を知る
木」の実だけでなく、同じ園の中央に生えさせられていた「いのちの木」の実も取って食べたと
言う記述はない。
その後、エバが造られたが、アダムはエバに正しく、「神のことば」「神の命令」を伝えていたか
どうかは定かでないが、主なる神から、「神の命令のことば」を直接、聞くのと又聞きでは、正
確性に重大な違いが出てくる可能性は大いにあり得る。 正しく伝えたつもりでも、相手に理解
させようと、若干の違った言葉が入るなら、相手に、正しく伝わらなかったり、相手の方の聞き
取り方の問題で、相手が正しく受け取らなかったりということもあり得る。 エバは、アダムから
「神の命令のことば」を聞いたとき、「善悪を知る木」についてではなく、「園の中央にある木の
実」は食べてはならないと受け取っていたようだ。(創世記3:3) しかし、園の中央には、「いの
ちの木」と「善悪の知識の木」の2本あった。(創世記2:9) アダムは、「神の命令のことば」の
重大さを理解してエバに伝えたのではないのかもしれない。
なぜなら、エバが、蛇の問いかけの答えで、「園の中央にある木の実を食べてはならない」と、
「善悪の知識の木」に限定しておらず、「それに触れてもいけない」と「神の命令のことば」に付
け加えたり、「あなたがたが死ぬといけないからだ」と「食べると必ず死ぬ」と仰せられた「神の
命令のことば」をオブラートに包んだ言い方をしているのを、そばで聞いていたアダムは訂正
することなく、黙って聞いていたからだ。(創世記3:3) もしかしたら、蛇の「あなたがたは決し
て死にません。 あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが
神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。」という言葉を聞きなが
ら、いろいろと考えていたのかもしれない。 本来、選択の余地などないのに、「神のことば」を
取るか、「蛇のことば」を取るかなどと考えていたのかもしれない。 もしそうであるなら、まだ
「罪」は入っていなくても、アダムとエバの「霊」が成長していなかったから安易に騙されたのか
もしれない。
ということは、アダムが、神から直接、聞いた「神の命令のことば」を、重大かつ重要なことばと
して捉えていなかったということであろう。 結局、アダムとエバは罪を犯し、「神との交わり」が
絶たれてしまった。 霊的な死である。 アダムとエバは罪が入る前に、「神の試し」を受け、こ
とにアダムは、「神の訓練」を受け、「ふさわしい助け手」との「交わり」の重要性や「神との正し
い交わり」などを教えられていた。 しかし、アダムとエバは罪を犯し、主の声を聞くと、彼らは、
神である主の御顔を避けて園の木の間に身を隠した。 「罪」が、人を神から引き離した。 な
ぜ食べたのかと問われると、悔い改めのひと言の言葉もなく、人のせいにして言い訳をし、自
分の身を守った。 人の神に対する「愛」が失われると、人の「他の人」に対する「愛」も失われ
るようである。
このようにして見ると、いかに「神と自分」の「一対一の関係、交わり」は難しいかがわかる。
ただ、それを難しくしているのは「自分」である。 人間に与えられた「自由意志」は、神は直接
には触られない。 サタンも誘導、誘惑はできても直接には触ることができない。 人間の「自
由意志」は、人間一人一人に任されている。 「罪」が入っていないときにでも、生まれながらの
人間は、神の訓練により、鍛えられ、整えられ、変えられる必要があったということだ。 尚更、
罪が入った後は、「罪」が赦されるだけでなく、清められる必要がある。 「主と一対一の親しい
交わりを持つ」、「主の中にとどまり続ける」ためには、「主なる神、キリスト」を第一優先にする
べきである。 だから、イエスは、「自分を捨てよ」と言われたのだろう。
今日の我々には、キリストがおられる。 そして、最初の人間アダムは、「神の試し」に失敗した
が、最後のアダム、すなわちイエスは、父なる神が聖霊を通してイエスを試された「荒野の試
み」に勝利された。 イエスは、我々の罪の問題だけでなく、自我の砕きや、肉(生まれながら
の性質)の切り取りについても、解決された。 すべての解決は、イエス・キリストの十字架の
死と復活にある。 だから、難しいと思われる「キリストにしっかり、つながること」、「キリストに
とどまり続けること」すなわち、「主なる神と自分」が完全に「一対一の関係」になり、「一対一の
神との交わり」を、真剣に求めていく者を顧みてくださり、主の勝利に与らせて下さるであろう。
★旧約聖書 詩篇 139:23,24
神よ。私を探り、私の心を知ってください。私を調べ、私の思い煩いを知ってください。
私のうちに傷のついた道があるか、ないかを見て、私をとこしえの道に導いてください。
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