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2016年9月25日<主のことばの完了の時を、「じっと待つ」ことについての思考> | |
著者の場合。 キリスト者として「信仰」に固く立って、神の訓練試練が始まったとき、やはり、
「早く時が過ぎ去ってくれたらいいのに。」と何度も思ったことがある。 ただ、「早く時が過ぎ
去って」という思いは、訓練試練が始まった時というより、子どもの頃から、それに似た思いが
あった。 「早く歳を取りたい」とよく思ったのだ。 子ども時代が楽しくなかったというわけでは
ないが、なぜか早く年を取って、自分がどうなっているのか、何をしているのかを知りたかった
からだ。 それが、キリストの信仰に固く立ってから、いろいろ体験しているときにも、「早く歳を
取りたい」と思うようになった。 何年か後になったら、主の喜ばれる働きができるようになっ
ているのではないかと考えていたからだ。 訓練試練が厳しいと尚更、「早く歳を取りたい」と
思ったものだ。
しかし、数年前からは、じっと待つようになった。 じっと待つことを主が望まれている時には、
じっと待つ。 ただ、主のことばを握って、じっと待つ。 そのようにしている者が、神が望まれて
いる尊い器であり、神が定められた時こそが最善の時、最良の時であることを心の底から知っ
じっと待つ。 そうしながら、「いつも主と共にいる」ことに焦点を合わす。 それが著者の生きる
スタンスとなったからだ。
二人の姉妹はまだ若いが、著者もその方も還暦を過ぎた。 一般的に言っても、とうに人生を
折り返している。 「振り返ると人生のなんと短いこと。でもこれが神の定めた最も良い長さな
のだとも思います。」と、その方の文面に、「同感です」と思わず頷(うなず)いた。 著者も、主
が著者に望まれている「主の働き」が、まだできていないのではないかと思っている。 だから
足場が固まるのをじっと待って、20年を過ぎてしまった。(著者は教会を出てから20年になる)
しかし、この20年だけでなく、それ以前の教会時代、また、救われる前の時代に起きた数えき
れないほどの出来事の一つ一つさえ、主は無駄にしておられないと感じる。 外側の見える状
態と違って、霊においては、ぐんと成長させていただいたと認識している。
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