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2016年9月25日主のことばの完了の時を、「じっと待つ」ことについての思考

著者の場合。 キリスト者として「信仰」に固く立って、神の訓練試練が始まったとき、やはり、
「早く時が過ぎ去ってくれたらいいのに。」と何度も思ったことがある。 ただ、「早く時が過ぎ
去って」という思いは、訓練試練が始まった時というより、子どもの頃から、それに似た思いが
あった。 「早く歳を取りたい」とよく思ったのだ。 子ども時代が楽しくなかったというわけでは
ないが、なぜか早く年を取って、自分がどうなっているのか、何をしているのかを知りたかった
からだ。 それが、キリストの信仰に固く立ってから、いろいろ体験しているときにも、「早く歳を
取りたい」と思うようになった。  何年か後になったら、主の喜ばれる働きができるようになっ
ているのではないかと考えていたからだ。 訓練試練が厳しいと尚更、「早く歳を取りたい」
思ったものだ。 
 
しかし、数年前からは、じっと待つようになった。 じっと待つことを主が望まれている時には、
じっと待つ。 ただ、主のことばを握って、じっと待つ。 そのようにしている者が、神が望まれて
いる尊い器であり、神が定められた時こそが最善の時、最良の時であることを心の底から知っ
たと思ったからだ。(めんどり通信/2009年4月12日/2011年5月15日/2016年9月4参照) 
じっと待つ。 そうしながら、「いつも主と共にいる」ことに焦点を合わす。 それが著者の生きる
スタンスとなったからだ。
 
二人の姉妹はまだ若いが、著者もその方も還暦を過ぎた。 一般的に言っても、とうに人生を
折り返している。 「振り返ると人生のなんと短いこと。でもこれが神の定めた最も良い長さな
のだとも思います。」と、その方の文面に、「同感です」と思わず頷(うなず)いた。 著者も、主
が著者に望まれている「主の働き」が、まだできていないのではないかと思っている。 だから
足場が固まるのをじっと待って、20年を過ぎてしまった。(著者は教会を出てから20年になる) 
しかし、この20年だけでなく、それ以前の教会時代、また、救われる前の時代に起きた数えき
れないほどの出来事の一つ一つさえ、主は無駄にしておられないと感じる。 外側の見える状
態と違って、霊においては、ぐんと成長させていただいたと認識している。 
 



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