めんどり聖書研究会


めんどり通信/2016年9月25日(日曜日)主が復活された記念すべき日曜日です!ハレルヤ!
<主のことばの完了の時を、「じっと待つ」ことについての思考>


★新約聖書 テサロニケ人への手紙 第一 3:3
   ・・・、私たちはこのような苦難に会うように定められているのです。
 
★新約聖書 ローマ人への手紙 8:28、29
   神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべて
   のことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。なぜなら、神は、あらか
   じめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです。
   それは、御子が多くの兄弟たちの中で長子となられるためです。
 
『うろこ雲よ あなたはこの高さまで、ひつじ雲はこの高さ、きり雲はここまで降りてよし・・・ 』
神が決められたそれぞれの高さをみんなきちんと守って、おのおの神の栄光を表しているか
のよう。」という出だしのメールをいただいた。 長い間、神の訓練試練の中で苦しみ、悩み、
痛み・・・。 そして、まだ試練の途中であるその方の短い文章の中に、その方の心の底からの
主に対する愛とじっと耐えて来られ砕かれた霊、砕かれた心を感じ、何とも言えない気持ちに
なり、思わず主を見上げた。 著者も著者と親しく交わっている二人の人も、その方と同じよう
に長い時間が経ったが未だ、神の訓練試練を受けているからだ。 「患難が忍耐を生み出し、
忍耐が練られた品性を生み出し・・」みことばが浮かび上がってきた。(ローマ5:3-5) 
 
ひとりの姉妹の言葉。 「待つって長いよな。」 約束のことばの成就、完了を約20年も待って
いる姉妹の本音。  もうひとりの人の言葉。 「じっと耐えるだけですが、いつまで続くのかと思
う時がある。」 それでも、二人とも、「神が定められた時」が「最善の時」と握っている。 悪しき
霊からの攻撃を受けて苦しみの絶頂のとき、自分の中に残るものは、「私は本当にキリストを
愛している」という主への愛だけだと言う。 不思議なものである。 明らかに、主が、そのよう
「神への愛」を彼女たちに植え付けてくださったとしか言いようがない。 
 
著者の場合。 キリスト者として「信仰」に固く立って、神の訓練試練が始まったとき、やはり、
「早く時が過ぎ去ってくれたらいいのに。」と何度も思ったことがある。 ただ、「早く時が過ぎ
去って」という思いは、訓練試練が始まった時というより、子どもの頃から、それに似た思いが
あった。 「早く歳を取りたい」とよく思ったのだ。 子ども時代が楽しくなかったというわけでは
ないが、なぜか早く年を取って、自分がどうなっているのか、何をしているのかを知りたかった
からだ。 それが、キリストの信仰に固く立ってから、いろいろ体験しているときにも、「早く歳を
取りたい」と思うようになった。  何年か後になったら、主の喜ばれる働きができるようになっ
ているのではないかと考えていたからだ。 訓練試練が厳しいと尚更、「早く歳を取りたい」
思ったものだ。 
 
しかし、数年前からは、じっと待つようになった。 じっと待つことを主が望まれている時には、
じっと待つ。 ただ、主のことばを握って、じっと待つ。 そのようにしている者が、神が望まれて
いる尊い器であり、神が定められた時こそが最善の時、最良の時であることを心の底から知っ
たと思ったからだ。(めんどり通信/2009年4月12日/2011年5月15日/2016年9月4参照) 
じっと待つ。 そうしながら、「いつも主と共にいる」ことに焦点を合わす。 それが著者の生きる
スタンスとなったからだ。
 
二人の姉妹はまだ若いが、著者もその方も還暦を過ぎた。 一般的に言っても、とうに人生を
折り返している。 「振り返ると人生のなんと短いこと。でもこれが神の定めた最も良い長さな
のだとも思います。」と、その方の文面に、「同感です」と思わず頷(うなず)いた。 著者も、主
が著者に望まれている「主の働き」が、まだできていないのではないかと思っている。 だから
足場が固まるのをじっと待って、20年を過ぎてしまった。(著者は教会を出てから20年になる) 
しかし、この20年だけでなく、それ以前の教会時代、また、救われる前の時代に起きた数えき
れないほどの出来事の一つ一つさえ、主は無駄にしておられないと感じる。 外側の見える状
態と違って、霊においては、ぐんと成長させていただいたと認識している。 
 
聖書の登場人物の多くの者たちが、「じっと神の時を待つ」という体験をした。 例えば、ダビデ
の場合。 サウルの死後、7年半、ヘブロンでユダ族の王となったが、神が語られていたのは、
全イスラエルの王となることだった。 ダビデは、「神の時」が来るまで、じっと待った。 「神の
最善、最良の時」、「神の最善、最良の方法」で、神のことば」が、その通りになることをひた
すら待つ者に、神は目を留めてくださる。(T歴代誌11章) ダビデは、この時ばかりでなく、神
に選ばれサムエルを通して、王としての油注ぎを受けてから長い間、全イスラエルの王となる
ことを、じっと待った。 何もしないで、じっと待ったのではない。 サウルに命を狙われるという
苦しみ、逃亡生活をする苦しみ、気が狂ったまねをするという苦しみ、助けた人々に裏切られ
るという苦しみ、・・・苦難の連続体験をしながら、それでも、「神のことば」の通りになる時を、
じっと待った。(Tサムエル16:13、23章、24:1〜) そして、ダビデは、「神に愛され神を愛する
者」と呼ばれるようになった。
 
ヨセフの場合。 将来、父、母、兄たち他、家族全員がヨセフの前にひざまずく日が来るという
夢をみた。(創世記37章) これらの夢は「神からの示し」すなわち、「神のことば」であった。 
そして、ヨセフは兄たちにエジプトに売られて奴隷となった。 ヨセフも、ダビデ同様、じっと待っ
た。 やはり、肉親に捨てられるという苦しみ、奴隷になり虐げられる苦しみ、濡れ衣を着せら
れ信頼を失墜させられる苦しみ、監獄に入れられる苦しみ、・・・苦難の連続体験をしながら、
それでも、「神のことば」の通りになる時を、じっと待った。 そして、ヨセフの苦難と栄光の生涯
は、キリストの受難と栄光の雛形(ひながた)といわれ、ヨセフは主イエス・キリストの型であると
いわれるようになった。
 
「主のことば」を与えられた者が、「主のことば」が、現実にその通りになるまで「待つ」ことにお
いて、何かをしながら待つ方がある意味、楽である。 クリスチャンであるなら、何かしら「主の
働き」と言われることをしながら待つ方が、待ちやすいかもしれない。 待っている間に「苦し
み」があったとしても、「主の働き」をしていることで緩和できる可能性があるからだ。 そして、
時間の経過が早く感じられる可能性があるからだ。 しかし、その何かをしながらが、「主の働
き」ではなく、試練や苦難であったら、たとえ、それが主の訓練とわかっていても、相当な苦し
みのために、また、その待つ期間が、あまりにも長いがゆえに、ため息をつきながら顔を空に
向け、父なる神に訴えるという者もいるかもしれない。 「じっと待つ」ことについては、神が介
入されていない一般的なことにおいても大変なことであるが、神が介入されての「じっと待つ」こ
とは、「苦しみ」を通る、すなわち「主からの試練、訓練」でもある。
 
パウロは、「あなたがたは、キリストのために、キリストを信じる信仰だけでなく、キリストのため
の苦しみをも賜わったのです。(ピリピ1:29)」と言っている。 主は決して、じっと待つ者を見放
してはおられない。 使徒時代だけでなく、使徒時代から現代に至るまでの間で、純粋にキリス
トのために苦難を通った人が多々いる。 主からの試練の中を通りながら、「主が定められた
最も良い長さ」の人生を、主が喜ばれる「信仰」をもって生き抜いた。 ある者たちは、殉教した
が、彼らにとって、そこまでの人生が、「主が定められた最も良い長さ」だった。 
 
「じっと待つ」ことは、ある意味、戦いでもある。 「キリストにとどまり続ける」ために、外側の敵
であるサタンや悪霊と内側の敵である生まれながらの自分(自己、自我、肉)との戦いがある。 
サタンや悪しき霊は、戦う者をどうにかして戦意を落とそうと攻撃してくる。 大砲や鉄砲などと
いう傍から見て物騒なものではなく、人の弱点を知っているサタンは、攻撃と見破られないよう
に一人一人に応じて巧妙な方法を使って、人を神から引き離そうとする。 この戦いには、痛
みや苦しみ悲しみが伴う。 嫌な思いをすることもあるかもしれない。 しかし、この戦いなくし
て、主の望まれる「キリストにとどまり続ける」ことはできない。 戦いの当初は、「キリストにと
どまり続ける」ことが難しいとしても、真剣に取り組んでいるものを主が導いてくださって、だん
だんと、「キリストにとどまり続ける」ことが、どういうことかが、分かってくるものである。 分か
るというより、悟る、身に着くと言った方がいいかもしれない。 
 
世の中で いろいろな種類の「じっと待つ」があるが、約束の「主のことば」を待つことこそ、本当
に真に待っている者にとって、一番の期待があり、また一番、忍耐がいることかもしれない。 
まして個人的に与えられた「主からのことば」を待つ者なら尚更である。  
 
終盤に入っているかもしれないこの人生。 それでも、一旦、主が語られたことばは、必ず成
就する、完了すると、今週も 主キリストに焦点を合わせて、じっと待つ。 主なる神は、すべて
のことをご存知である。 我々人間のすべてを知っておられる。 人の髪の毛までも一本残ら
ず数えられているとイエスは仰せられた。(マタイ10:30、ルカ12:7) 神は、我々の過去も現在
も未来(将来)も、すべて知っておられる。 我々の人生だけでなく、我々のすべて、それも心の
奥底にある「思い、考え、感情・・」なども知っておられる。 
 
「人の歩みは主によって定められる。主はその行く道を喜ばれる。たといその人が倒れても、
全く打ち伏せられることはない、主がその手を助けささえられるからである。」というみことばが
ある。(旧約聖書(口語訳)詩篇37:23、24) この中で「人の歩みは」の「人」は、英語の聖書
(KJV訳)では「a good man」=(善人)となっている。 主のことばの完了の時を、じっと待って
いる者は、神が見られて、「善人、良い人」である。 この世の基準とは違う。 主は人の心の
奥を見られている。(Tサムエル16: 7) 人間の心を探り窮める方である。(ローマ8:27) 
 
個人的に「主のことば」をいただいている者たちは、まだ、試練、苦難、苦しみを、「賜わってい
る」、「恵みである」と腹の底から諸手を挙げて喜べるところまでには達していないかもしれない
が、完了したら、そのように思えるであろう。 我々にも主が定められた道があり、主のご計画
がある。 とにかく、主によって定められた道を歩んでいきたいものである。 
 
★新約聖書 ローマ人への手紙 8:17
   もし子どもであるなら、相続人でもあります。私たちがキリストと、栄光をともに受けるため
   に苦難をともにしているなら、私たちは神の相続人であり、キリストとの共同相続人であり
   ます。
 
★旧約聖書 イザヤ書 46:9,10
   遠い大昔の事を思い出せ。わたしが神である。ほかにはいない。 わたしのような神はい
   ない。 わたしは、終わりの事を初めから告げ、まだなされていない事を昔から告げ、『わ
   たしのはかりごとは成就し、わたしの望む事をすべて成し遂げる。』と言う。
 
 



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