めんどり聖書研究会


めんどり通信/2016年9月4日(日曜日)主が復活された記念すべき日曜日です!ハレルヤ!
<神の最良の時こそ、人にとって最良の時>


★旧約聖書   伝道者の書 3:1
      天の下では、何事にも定まった時期があり、すべての営みには時がある。
  ・何事にも時があり/天の下の出来事にはすべて定められた時がある。(新共同訳)
 
★旧約聖書  伝道者の書 3:11
   神のなさることは、すべて時にかなって美しい。 神はまた、人の心に永遠への思いを与
   えられた。しかし、人は、神が行なわれるみわざを、初めから終わりまで見きわめること
   ができない。
 
旧約聖書 伝道者の書に書かれているとおり、この世界で起こる「すべての出来事には、定
められた時」がある。 神が支配する「定まった時」がある。 本来、「時は神が支配」されてい
る。 ただ、そのことを人が認めて、神の介入を受け入れているのか、また、そのことを認め
ず、神の介入を意識するしないにかかわらず拒否しているかで、歩む道の方向(行き先)が
違ってくる。 「神のことば」「神の権威」に従い、「神が定められた時」に行動を起こすならば、
神が介入され、そこに神の働き、神のみわざを見ることができる。 そしてその人の、神との関
係がより深まり、その人が、正義、愛、真実そのものである神に寄り添って生きることができ
る。 神と共に歩むことができる。 「神が定められた時」が、「神の最良の時」であり、神の最
良の時こそ、「人にとっての最良の時」である。
 
さて、そのことを聖書の人物から見てみる。 ヨセフの場合。 ヨセフは17歳で2つの夢を見た。  
畑でまっすぐに立っていたヨセフの束に兄たちの束がおじぎをしていた夢と太陽と月と十一の
星がヨセフを伏し拝んでいた夢。(創世記37:5-11) ヨセフは、この夢によって「神のことば」
与えられた。 ところが、兄たちに売られて、ヤコブの息子としての平和な生活は終わり、エジ
プトで奴隷となり、囚人となって、13年経った。 13年間はヨセフにとって試練訓練の時となっ
た。 そして、神の導き、采配により、ヨセフはエジプトの宰相となった。 中近東一帯を襲った
7年間の厳しい飢饉のとき、ヨセフは宰相として神の知恵により、全エジプトを治め、ヨセフの
具体的な提言は、パロとすべての家臣たちを感心させるほどであった。(創世記41:37) 
 
その厳しい飢饉のとき、世界中が穀物を買うために、エジプトのヨセフのところに来た。 ヨセ
フの兄たちも末の弟ベニヤミン以外が、食糧を求めて、イスラエルからエジプトにやって来た。  
彼らはエジプトの宰相がヨセフだとは知らずに近づいてきて、ヨセフの前で顔を地につけて彼
を伏し拝んだ。 ヨセフが40歳過ぎのときのこと。 夢の通りである。 ヨセフは一目で兄たちだ
と気づいた。 しかし、ヨセフは、そこでは兄たちに「自分は、ヨセフである」と名乗らなかった。 
突然のことで混乱したのかもしれないし、かつての記憶が生々しく蘇ってきて、複雑な心境に
なったためなのかもしれない。(創世記42:9) ヨセフは兄たちに、わざとスパイとしての嫌疑を
かけて、激しいことばを投げつけた。 ヨセフは兄たちに執拗に詰問した。
 
そして、彼らを監禁し一人だけが帰国して末の弟(ベニヤミン)を連れてくるように命じた。 ヨ
セフは彼らを三日間、監禁所にいっしょに入れておいたが、この三日間は兄たちにとっても神
の御前に清算されていない自らの罪を自覚させるときになったと思われる。 三日目に、兄弟
のひとりシメオンを彼らの目の前で縛り、監禁しておいて、あとの兄たちに穀物の袋に穀物を
満たし、また代価の銀をそれぞれの袋に返し、さらには道中の食糧を与えるようにした。
 
道中で彼らの袋の中に銀貨が返されていることを知った兄たちは身をふるわせながら、「神
は、私たちにいったい何ということをなさったのだろう。」と、恐れを持って、再び、神を見上げ
る機会となった。 同時に、自分たちが歩んできた道を振り返る機会ともなったと思われる。
 
カナンの地に帰った彼らは、再びエジプトへ食料を求めに行くために、ユダが父ヤコブを説得
した。 それまでには時間がかかった。 兄たちは贈り物を携え、二倍の銀を持ち、ベニヤミン
を連れてヨセフの前に立った。 兄弟たちは ヨセフ邸に招かれ、食事を出されたが、そのこと
でも恐れた。 そして、彼らは、また穀物を買い、帰途についた。 ヨセフは、再び部下に、兄弟
たちの袋に穀物を満たし、代価の銀をそれぞれの袋に返し、銀の杯を末の弟の袋の口に入れ
ておけと命じた。(創世記44:1,2) 
 
ヨセフが、すぐに名乗らなかった効果は、兄たちが、自分たちの「罪」について考え、知り始め
たこと。 ヨセフと同じ母から生まれた弟ベニヤミンと父ヤコブの安否確認ができたこと。 懸
念していた弟ベニヤミンと兄たちの兄弟関係の様子は良好だと知ることができたことである。
(創世記44:33) この後、ヨセフは自分の身を兄妹たちに明かした。(創世記45:1)
 
ヨセフが名乗ると、兄弟たちはヨセフを前にして「驚きのあまり、答えることができなかった」(創
世記45:3)と書かれているが、ここから 兄たちの本当の意味での悔い改めが始まったのかも
しれない。 ヨセフは、「今、私をここに売ったことで心を痛めたり、怒ったりしてはなりません。
神はいのちを救うために、あなたがたより先に、私を遣わしてくださったのです。」と兄たちを赦
す言葉を言った。(創世記45:5)) このヨセフが名乗り、このことばを語った時が、「神の最良
の時」であり、ヨセフにとって「最良の時」となった。 兄弟たちにとっても、「最良の時」となって
いたはずである。
 
しかし、ヨセフが、「神の最良の時」に名乗り語っても、兄たちは、父ヤコブが死ぬと、「ヨセフは
われわれを恨んで、われわれが彼に犯したすべての悪の仕返しをするかもしれない。(創世記
50:15)」と恐れた。 そして「赦してください」とヨセフの前に来てひれ伏した。 ヨセフは彼らの
ことばを聞いて泣き、再度、もう恐れることはないと慰め、彼らを養うことを優しく語りかけた
が、人間の心というものは、厄介であり、まだまだ深みがあるということだ。(エレミヤ書17:9) 
 
しかし、今や、主が十字架で死なれ、3日目によみがえられて生きておられるので、主に真に
寄りすがる者は、「悔い改め」さえ聖霊が導いてくださる。 いや、「悔い改め」も聖霊に導かれ
てするのでなければ、心底からの悔い改めができないものである。 我々が真の悔い改めをし
ているとき、聖霊が導いてくださっていることに感謝する!
 
さて、旧約時代のユダ国の13代目の王ヒゼキヤの場合。 ヒゼキヤは宗教改革をして神の命
令を心を尽くして行なった王であり、信仰深い王であった。(U列王記18章19章) ところが、ヒ
ゼキヤが病気になった。 「あなたの家を整理せよ。あなたは死ぬ。直らない。(U列王記20:
1)」と神から遣わされた預言者イザヤによって死が宣告された。 たとえ死の宣告の内容で
あっても、「主のことば」であり、その時がヒゼキヤがこの世を去る「神の最良の時」であり、
ゼキヤにとっても「最良の時」だった。 しかし、ヒゼキヤは大声で泣いて、神に訴えた。 
 
主は、このヒゼキヤの祈りを聞かれ、彼をいやされ、15年の寿命が延ばされた。 しかし、それ
はむしろ良い結果を生まなかった。 ヒゼキヤは、バビロンからの使者が、見舞いに来たこと
で喜び、心が舞い上がってしまったのか、使者に宝物倉を開いてすべてのものを見せてしま
う。 結局、バビロン捕囚となるきっかけをつくってしまった。 そして、長生きした15年の間に、
ユダ王国の中で最悪の王と言われたマナセを産んだ。 
 
神にとって「神の最良の時」であり、ヒゼキヤにとっても「最良の時」を拒否した結果かもしれ
ない。 最初に語られた「主のことば」に返って従っていたなら、マナセが産まれることはなかっ
た。 神が、ヒゼキヤの命を延長しなかったらよいのではないか、という考えもある。 しかし、
ヒゼキヤの願いの内容は、決して偽りを言っていないし、何よりも神は、我々の意思を尊重さ
れる方である。 だから、我々がどうしても・・・と強く願うとき、主は強いて止めさせようとはされ
ない。 
 
しかし、「神の最良の時」こそが、「人にとって最良の時」であることを、しっかり覚えておきたい
ものである。 ヨセフのように、遠回りだと思う時であっても、必ず、「神の最良の時」がある。 
また、ヒゼキヤのように、まだまだ自分にはやるべきことがある、と思う時であっても、そのや
るべきことは、「肉(人間の生まれながらの性質、自己中心、罪の性質)」からのもの、「自我」
の働きによるものという場合もある。 
 
神は、我々ひとり一人のことをよくご存知である。(U歴代誌6:30) 我々が、気づいていない
心の奥底にある「思い、考え、願い」も知っておられる。(T列王記8:39) その上で、一人一人
にとって「最良の時」を定めておられるのだと思われる。 神の方が、我々に対してご計画を立
ててくださっておられるのだ。 だから、「神の最良の時」を、自分の考えや思いで拒否すること
がないようにしたいものだ。 
 
我々が遠回りしていると思う時であっても、必ず、「神の最良の時」がある。 また、我々が、ま
だその時ではない、と思う時でも実は、その時が、「神の最良の時」ということがある。 結局、
「神の最良の時」を知るために、我々は主と親しく交わっていることが大事であろう。 そのた
めにも日々絶えず、主イエス・キリストから目を離さず、主キリストと深く深く交わりを続けていく
ことに取り組んで行きたいものである。
 
★新約聖書 ヘブル人への手紙 10:36
        あなたがたが神のみこころを行なって、約束のものを手に入れるために必要なのは忍
   耐です。
 
★旧約聖書 イザヤ書 46:10
   わたしは、終わりの事を初めから告げ、まだなされていない事を昔から告げ、『わたしの
   はかりごと(計画)は成就し、わたしの望む事をすべて成し遂げる。』と言う。
 



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