めんどり聖書研究会


めんどり通信/2017年11月5日(日曜日)主は復活され今も生きておられます!
<「平安の子」についての思考>


★新約聖書 ルカによる福音書 1056

どこかの家にはいったら、まず『平安がこの家にあるように』と言いなさい。

もし平安の子がそこにおれば、あなたがたの祈る平安はその人の上にとどまるであろ

う。もしそうでなかったら、それはあなたがたの上に帰って来るであろう。

 

ルカによる福音書106「もし平安の子がそこにおれば、あなたがたの祈る平安はそ

の人の上にとどまるであろう。・・・」「平安の子」について、いろいろ思考してみた。  主イエ

スは72人(70人)を選び、ご自分が行くつもりのすべての町や村へ、ふたりずつ先に遣わされ

たが、そのときに 彼らに与えた指示の一つに「平安の子」のことがある。 「平安の子」がそこ

(家)におれば、そこにとどまり、そこで提供されるものを受けよということである。 

 

この「平安の子」とは、どういう人かについて、いろいろ解釈があるようだ。 友好的な人、他の

人々と上手に付き合って行ける人、協調性のある善良な人という解釈。 また、まだ、救われ

ていない人で、福音を聞いたとき、キリストの救いを受け入れる人という解釈。 真理に渇いて

いて、生活を変えたいと望んでおり、自ら進んで主の教えを聞こうとする人という解釈。 神と

の平和の関係を持って、神の救い(キリストの救い)を受けるというメッセージに心が開かれて

いる人という解釈などである。 要は、そのような「平安の子」の心の奥底を神がご存知で、

に選ばれている人と言えよう。 

 

神に選ばれている人は、「神と自分の一対一の交わり」「キリストと自分の一対一の交わり」

持ちたいと願い、真にそのことに取り組み始めている人か、すでに取り組んでいる人であると

も言えよう。 もちろん、そのことは一時、熱心に取り組んだが、後になって冷めてしまったとい

うのではなく、祈りながら継続されていくことが重要である。 また、思い込みではなく、「神と

自分の一対一の交わり」「キリストと自分の一対一の交わり」は、実際のこと、現実でなければ

ならない。 真に取り組んでいるなら、最初は、浅いレベルでも主が導いて下さって深みへと

入っていくことができるようになる。 そうすると、神との関係、キリストとの関係が近くなり、主

と共に歩むということが、どういうことかわかってくる。

 

さて、マタイによる福音書101-14、ルカによる福音書91-6には、12使徒たちが、イエスから

支持を受けて派遣されたことが書かれている。 「その家にはいったなら、平安を祈ってあげ

なさい。 もし平安を受けるにふさわしい家であれば、あなたがたの祈る平安はその家に来る

であろう。・・(マタイ1012,13))」と言われたことばから、平安が家に来るということは、その家

の人たちがみな救われるという解釈も多い。 また 、パウロが看守に「主イエスを信じなさい。

そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。(使徒1631)」と言ったことばからも、家の

中で誰か一人が救われたなら、必ず、どんなことがあっても家、家族の全員が救われるという

解釈をする者も多いと聞く。 

 

しかし、「平安の子」がいる家では、弟子たちが祈る「平安」は、「その人(平安の子)」にとどま

ると書かれている。 また、使徒行伝1631のことばは、ギリシャ語(原語)では、「主イエスを

信じなさい。そうすればあなたは救われます。あなたの家族も。」と訳せるという。 ギリシャ語

の文法からみると、「救われます」ということば(動詞)は、「あなたの家族」よりも「あなたの救

い」、すなわち看守自身の救いに強調点がおかれているという。 看守の信仰が彼の家族を

救ったという意味ではなく、彼の身に起きたことと同じことが家族にも起こるチャンスが開かれ

ていたという意味であるという。 パウロは、「信じなさい」「救われます」も、看守自身に語っ

ており、家族の一人一人も、「主イエスを信じる」ならば、彼らも「救われる」ことだという。 

 

「平安」について関連あるみことばに「いと高きところでは、神に栄光があるように、地の上で

は、み心にかなう人々に平和があるように(ルカ214)」がある。 「平和」は、タイ10

の「平安」と同じ原語(エイレーネ)だという。 ということは、「平安」は、神のみこころにかなう

人に与えられるということであり、家の者みなに与えられるとは限らないと言うことだ。 「平安

の子」がいたら、その家の者たちが自動的に神の祝福、平安を得られるというのではない。 

「平安の子」がいて、家に与えられた「平安」は、その家の者たちも「平安の子」と同じ神の祝

福を受けるチャンスが与えられたということである。 結局、一人一人が、神とつながるかどう

か、「神の救い」、「キリストの救い」を受け入れるかどうかである。 

 

このように見ていくとき、「平安の子」とは、以前思考した「光の柱」となるべき者ではないかと

思う。 この「光の柱」については、以前、めんどり通信でも、いろいろ思考してみた。 「光の

柱」に関しての、「めんどり通信」参考はめんどり通信/@201658<終末のシュネム

の女について> /A201582「ひとりの女がひとりの男を抱こう」についての思考>

/B2016年612<使徒の時代に起きた奇跡は終末に起きるのか?今後どう生きるべき

か>/C20141214<エルサレムから東のほう「日本」に注目:「シュネムの女」と「四

人の女」から思考>/D2015412<なぜ、復活の主は最初にマグダラのマリヤに現わ

れたのか?>/E2016年515終末について:聖書、祈り、ビジョン、霊的感覚によって

推考>/F2015524<いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者は

まれである、について思考>などがある。

 

イエスが十字架にかかられる前日、木曜日の夜、弟子たちに語られたことばの中に平安を

あなたがたに残して行く。わたしの平安をあなたがたに与える。わたしが与えるのは、世が与

えるようなものとは異なる。」というのがある。(ヨハネ福1427) イエスが残された「平安」を受

けた者、受ける者が「平安の子」であり、「光の柱」であり、「キリストの真の弟子」であるという

ことだ。 そして、彼らが、「狭い門」から入る者である。

 

「狭い門」について主は「努力して狭い門からはいりなさい。・・・はいろうとしても、はいれなく

なる人が多いのですから。」と言われた。(ルカ1324 ここの「努力して」ということばの原語

(ギリシャ語)での意味には、「苦悩する」、「困難や危険と格闘する」があるという。 一般的に

いう肉の努力とは違う。 我々は何に格闘すべきか。 それは、「罪」であり、「自我」「肉」

ある。(へブル124 イエスは仰せられた。 「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自

分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。」(マタイ1624、マルコ834) 

分を捨てること、自我が砕かれること、肉が切り取られることは、痛みがあり、痛みは苦悩を

伴うものである。 

 

また、この「努力して」ということばをヘブル語で訳した場合、「雄々しくあれ」という励ましの意

味があるという。 「狭い門」「命にいたる門それを見いだす者が少ない多くの人が

入っていく「広い門」に背を向けて進んで行くことは、恐れが来るかもしれない。 それでも、正

しい道であるから雄々しく行きなさいと励ましている。 「狭い門」に入る者が少なくても「雄々し

くあれ」苦悩があったとしても「雄々しくあれ」とイエスは励ましておられる。 また、「狭い」

ことばの原語には「苦難が多い、まっすぐ」という意味があるという。 結局、「永遠の命に

至る」には、困難、苦難が伴い、苦闘するが、まっすぐな道を歩む必要があるということだ。 

 

「平安の子」「光の柱」「キリストの真の弟子」は、主なる神からの訓練試練を受けて、苦闘し、

小さくなった者である。 すなわち、幼な子のように自分を低くされた者である。(マタイ184

 いずれにしても、「キリストと自分」、「神と自分」、「主と自分」という一対一の「かかわり」「交わ

り」が確固たるものとなるように真剣に取り組んでいきたいものである。

 

★新約聖書 ルカによる福音書 1427

   自分の十字架を負うてわたしについて来るものでなければ、わたしの弟子となることはで

   きない。

 

★新約聖書 マタイによる福音書 713,14

狭い門からはいれ。滅びにいたる門は大きく、その道は広い。そして、そこからはいっ

て行く者が多い。 命にいたる門は狭く、その道は細い。そして、それを見いだす者が

少ない。

 



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