めんどり聖書研究会


めんどり通信/2017年5月7日(日曜日)主が復活された記念すべき日曜日です!ハレルヤ!
<神に選ばれ主によって定められた道を歩むことについて:モーセの生涯からの思考>


★旧約聖書 詩篇 37:23、24
   人の歩みは主によって定められる。主はその行く道を喜ばれる。 たといその人が倒れ
   ても、全く打ち伏せられることはない、主がその手を助けささえられるからである。
 
★新約聖書 エペソ人への手紙 1:3〜5
   ・・・神はキリストにあって、・・・みまえにきよく傷のない者となるようにと、天地の造られる
   前から、キリストにあってわたしたちを選び、わたしたちに、イエス・キリストによって神の
   子たる身分を授けるようにと、・・・愛のうちにあらかじめ定めて下さったのである。
 
★旧約聖書(新共同訳) 伝道の書 3:1〜8
   何事にも時があり/天の下の出来事にはすべて定められた時がある。 生まれる時、死
   ぬ時・・愛する時、憎む時/戦いの時、平和の時。
 
●モーセはキリスト者(クリスチャン)だけでなく、一般的にもよく知られている人物である。 
「十戒」「エクソダス神と王」という映画にもモーセの生涯が取り上げられているようである。 
モーセについては、旧訳聖書 出エジプト記やレビ記、民数記、申命記などに書かれている。 
 
モーセの生涯は、120年で、40年ずつ3区分されている。 @最初の40年は、エジプトの王パロ
の娘の子として王宮で過ごし、A次の40年は、王宮を出てミデヤンの地で羊飼いとして過ご
し、B80歳の時、神に召し出され、エジプトから民を救い出して荒野をさまよう40年を過ご
し、120歳の時、モアブのピスガにおいてその生涯を終えた。(申命記34:1-7)
 
@モーセの誕生のことについては、めんどり通信/2016年10月30日。<神が介入された直観、
直覚について:モーセの両親と老人シメオンから思考>を参照してほしい。 ただ、王宮での生
活のことは、書かれていない。 「モーセが成長して後、ある日のこと、同胞の所に出て行っ
て、(出2:11)」、「信仰によって、モーセは、成人したとき、パロの娘の子と言われることを拒み
(へブル11:24)」と書かれているが、モーセは、いつ自分の出自がへブル人であることを知っ
たのか、誰がそれを知らせたのかは書かれていない。 また、モーセがへブル人を打っていた
エジプト人を殺し、へブル人同士の争いを仲裁しようとしたことを誰がパロに知らせたのか、王
宮で40歳まで暮らしていたモーセをパロは何故、殺そうとしたのか、・・・など、いろいろわから
ないことが多いが、40歳という「神が定められた時が来たから、王宮を出るようになった」ので
あろう。
 
A40歳〜80歳まで、ミデヤンの地で過ごした。 パロに命を狙われてモーセは、ミデヤンの地
に逃れた。 そこで、ミデヤンの祭司リウエルの娘チッポラと結婚した。 王宮で生活していた
暮らしとは、打って変わって羊飼いという単調な生活、男の子が与えられ、家族で静かで穏や
かな生活。 しかし、そのような生活はモーセにとって必要だったと思われる。 詳細はわから
ないが、「神からの訓練の40年」だったかもしれない。 いずれにしても、40年という月日は、
の働きを始めるまでの過程として必要だったことは間違いない。 モーセを生まれる前から選
んでおられた神は、モーセが経験することの何一つ無駄にはされなかった。 
 
Bそして、(神の)時が来ると(主が芽を出させ)実を結ばせる(詩編1:3)」すなわち、「神が、
ご自身のためにモーセを用いられる時が来た」のだ。 80歳の時、モーセは、神の山ホレブの
柴の中に、燃え上がる炎のようなものを見た。 ところが柴は燃えているのに、燃え尽きず、や
がて、その炎の中から声がした。 そして、「さあ、わたしは、あなたをパロにつかわして、わた
しの民、イスラエルの人々をエジプトから導き出させよう。」召命のことば語られた。 (出
3:10) モーセが、その声の主に名を尋ねると、その声は「わたしは、有って有る者」と言われ
た。(出3:14) ここからモーセのイスラエル人たちを率いての出エジプトの荒野の旅が始ま
る。 神が約束された乳と蜜の流れるカナンの地へ向かっての旅である。 出エジプトについて
は今後、少しずつ思考していきたいと考えている。 (今までに書いた出エジプトに関して:めん
どり通信/2012年8月19日/2012年7月29日/2013年9月15日。参照) 
 
それから、モーセが120歳の時、主はモーセをネボ山のビスガの頂に立たせ、神が約束された
地の全貌を見させた。 しかし、モーセは、カナンの地には入れなかった。 モーセは、イスラエ
ルの民を主のことば通り、後継者ヨシュアに託した。(申命記31:23) モーセは、イスラエルが
カナンの地に入る直前に、モアブの地で死に、モアブの谷に葬られた。 ただ、モーセの墓の
位置は当時も現在も特定されていないという。(申命記34:6) 「モーセは死んだ時、百二十歳
であったが、目はかすまず、気力は衰えていなかった。(申命記34:7)」と書かれている。 
 
このように見てみると、40年、40年、40年ときちんと区分されているのは、神が最初からモーセ
に対してご計画されていたからということを我々に教えておられるのかもしれない。 そして、そ
れはモーセだけでなく、神は、我々にもあり得ることだと語っておられるようにも思う。 120歳で
「目はかすまず、気力は衰えていなかった」状態のモーセをあえて死ぬことを「良し」とされた
主なる神。 モーセの死は、志半ばにして倒れたように見えるかもしれないが、そうではない。 
何もかもが神のご計画の中にあった。 モーセは律法を代表し、後継者ヨシュアはイエスの型
である。 だから「モーセの死」は、「新しい始まり」を意味していた。 「モーセの死」は、意味の
ある死、重要な死であった。 
 
律法を人間の力で行なうには限界があること、人間が自らの力で律法を成就することができな
いこと、人は律法を行なうことによっては救われないことを我々人は知ることになったからであ
る。 律法はキリストでなければ成就することはできないのである。 イエスは「わたしが律法や
預言者を廃するためにきた、と思ってはならない。廃するためではなく、成就するためにきたの
である。」と言われた。(マタイ5:17) こうしてみると、神が定められた120歳という死の時が、
モーセの「一番良い時」、「最善の時」であったいうことだ。 そして、モーセは、神のご計画のた
め、神に「選ばれていた者」であったということだ。
 
聖書には、「神の選び」について書かれている箇所が多々ある。 それらによるとモーセだけで
なく、「天地の造られる前から、キリストにあって選ばれている者たち」、「ご計画に従って召さ
れた者たち」がおり、それは、創造主で陶器師である神と被造物で陶器の人間の関係であとい
うことだ。 そして、創造主が被造物を創造主の思うままに取り扱うのに、当然の権利がある。 
イエスは弟子たちに「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ
のである。」と言われた。(ヨハネ福15:16) 「神の選び」の主権は神にある。 「万物は、神か
らいで、神によって成り、神に帰するのである。」と書かれている通りであるからだ。(ローマ1
1:36) 
 
だから、このことを弁(わきま)えていたモーセは徹底して「主のことば」に従ったが、この「神の
選び」のことを知ると、多くの人たちは、神は不公平だという。 しかし、神の側に不正は絶対
にない。(ローマ9:14) 創造主で陶器師である神はモーセに、「わたしは自分のあわれもうと
する者をあわれみ、いつくしもうとする者を、いつくしむ」と言われた。(出33:19、ローマ9:15) 
「選びの主権」は神にあるが、神は、人の自由意志を無視してはおられない。 人の側が「神
は不公平だ」と言うことが、すでに高ぶり、「神の救い」を拒否していることになる。 「神に選ば
れている」というのは、人が、自分の人生の中に神の介入を認めるということであり、主イエス・
キリストを救い主として受け入れるということである。 すなわち、「神なる主と自分の関係」がで
きるということである。 主に定められた道をまっすぐ歩むことである。 そのように取り組みな
がら歩んでいる者が、失敗したり、つまずきそうになっても、全く打ち伏せられることのないよう
に主が助けささえてくださる。
 
聖書を読んでみるなら、自分がどれほど罪深いかを思い知る者も多い。 本来なら、自分の罪
のために滅んでも仕方がないはずの我々である。 しかし、神なる主は罪人を責めておられな
い。 むしろ、「ひとりも滅びることがなく、すべての者が悔改めに至ることを望んでおられる。
(Uペテロ3:9)」  それで、神の方が一方的に我々をあわれんでくださり、ご自身のひとり子
を十字架にかけることを良しとしてくださった。 ヨハネは「わたしたちが神を愛したのではなく、
神がわたしたちを愛して下さって、わたしたちの罪のためにあがないの供え物として、御子を
おつかわしになった。ここに愛がある。(Tヨハネ4:10)」と言っているが、本当にその通りであ
る。 「神に選ばれる」というのは、ある意味、人がこの「神の愛」を受け入れるかどうかの問題
である。
 
いずれにしても、「神に選ばれている」者は、主によって定められている道を歩む。 だから、
モーセの生涯のように、主なる神は、その人の人生の大きいことから小さいことまで、貴重な
出来事から出来事とは言えないくらいの普段の些細なことまで、何一つ無駄にはなさらない。 
モーセのような大きな者でなくても、たとえ小さい小さい者でも、主にとっては、大切な者、神に
愛される者として数えてくださる。 とにかく、「主によって定められた道」を歩むことができるた
め、行くべき道を示していただけるよう主に求めていきたいものである。
 
★新約聖書 マタイによる福音書 22:14
   招かれる者は多いが、選ばれる者は少ない。
 




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