めんどり聖書研究会


めんどり通信/2016年10月30日(日曜日)主が復活された記念すべき日曜日です!ハレルヤ!
<神が介入された直観、直覚について:モーセの両親と老人シメオンから思考>


★新約聖書 テサロニケの手紙 第一 5:23
   平和の神ご自身が、あなたがたを全く聖なるものとしてくださいますように。主イエス・キリ
   ストの来臨のとき、責められるところのないように、あなたがたの霊、たましい、からだが
   完全に守られますように。
 
★新約聖書 ペテロの手紙 第一 1:21
   あなたがたは、死者の中からこのキリストをよみがえらせて彼に栄光を与えられた神を、
   キリストによって信じる人々です。このようにして、あなたがたの信仰と希望は神にかかっ
   ているのです。
 
●先週に続いて「へブル人への手紙」を読んでいくと、「モーセの両親」「信仰」が垣間見れる
箇所があった。 それで、いろいろ考えてみた。 聖書の中で、モーセについては多く書かれて
いるが、モーセの両親、特に「モーセの母親」については、旧約聖書で数行、登場するだけで
ある。(出エジプト2:1-3、2:7-10) モーセの誕生に関することが、出エジプト記1章1節〜2章
10節へブル人への手紙11章23節に書かれている。
 
内容はこうである。 ヤコブの時代にイスラエル人たちはエジプトに下った。 ヤコブの時代に
は、ヨセフがエジプトの大臣であったので、平穏無事に暮らしていた。 長い年月の間にエジプ
トの地でイスラエル人たちは膨大に増えた。 その後、ヨセフのことを知らない新しい王がエジ
プトに起こり、それまで異民族による侵略王朝(ヒクソス朝)であったエジプトを、エジプト人たち
による新王国に成立させた。 新王国をますます強固にするのに立ちはだかるのが、増え続
けるイスラエルたちであった。 新しいエジプト王は、イスラエル人を苦役で苦しめたが、苦しめ
れば苦しめるほど、この民はますますふえ広がったので、「ヘブル人の女の産む男の子はみ
な、ナイルに投げ込まなければならない(殺すということ)」との命令を出した。 
 
その頃、モーセが産まれた。 出エジプト記2章2節に、「女(ヨケベデ)はみごもって、男の子を
産んだが、そのかわいいのを見て、三か月の間その子を隠しておいた。」と書かれている。 
モーセの両親は、赤ちゃんをナイル川に捨てることなどできなくて、3か月間は隠した。 赤ちゃ
んも3か月も経つと泣き声が大きくなってくる。 それで、隠しきれなくなり、パピルス製のかごを
手に入れ、それに瀝青と樹脂とを塗って、その子を中に入れ、ナイルの岸の葦の茂みの中に
置いた。 その子の姉が遠くに立って、どうなることかと様子を見ていると、パロの娘が水浴び
をしようとナイルに降りて来た。 
 
かごを取り上げ、中を見ると男の子が泣いていた。 彼女はその子をあわれに思い、自分で育
てようとしたとき、姉が飛びだし、乳の出るヘブル女のうばを呼んで参りましょうかと提言する。 
パロの娘は、その提言を受け入れると、姉は、その子の母親を乳母として呼んで来た。 パロ
の娘は、その子の母親を乳母として採用し、その子を託した。 しかも、その子に乳を飲ませ
育てるのに、その子の母親は、パロの娘から賃金さえ与えられた。 そして、その子が大きく
なったとき、母親は、パロの娘のもとに連れて行き、その子は王女の息子になった。 パロの
娘は、その子をモーセと名づけたということである。
 
これらの箇所から、モーセの両親は、それほど言及するような「信仰」、「働き」とは見えないか
もしれない。 しかし、モーセの命が、彼らを通して助けられたことは事実であり、神は、彼らの
「信仰」「働き」を重要視されたことも事実である。  
 
モーセが生まれたときの際立った特徴は、「かわいらしい(使徒7:20)」、「美しい(へブル11:2
3)」であった。 この箇所の原語(ギリシャ語)は、新約聖書でこの2箇所でしか使われていない
という。 モーセの両親は、この子が尋常ではないほど、「かわいらしい」、「美しい」のを見て、
この子は隠さなければならないと「直観」したのではないだろうか。 これほどの「かわいらし
さ」、「美しさ」は、何か、神のご計画のための「サイン」ではないのかと「直観」したのかもしれな
い。 だから、この子を「生かす」ことを考えたのであろう。 
 
「直観」と言っても肉からの「直感」ではない。 人間には、五感や第六感(直感、山勘、霊感)
いう感覚があるが、そのようなものとは違う。 「直観」もしくは「直覚」の意味は、広辞苑では、
「直観 一般に判断・推理などの思惟作用の結果ではなく、精神が対象を直接に知的に把握
する作用。」とあり、goo辞書では、「哲学で、推理を用いず、直接に対象をとらえること。また、
その認識能力。直覚。」とある。 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典では、「直覚とも訳さ
れる。元来みることを意味する」とも書かれていた。
 
要は、大切なことは、神が介入された「直観」であることだ。 ある意味、神が介入された「霊的
な感じ方」、「感覚」、「霊的な見方」である。 「直観」、「直覚」には、「自分の常識や自分の直
感、自分の願い、自分の・・・」など、「自分」が入ってきてはいけないし、入ってきた時点で、神
が介入された「直観」、「直覚」、「霊的な感じ方」「霊的感覚」、「霊的見方」ではない。
 
モーセの母親は、パロの娘が水浴びに来る時間や場所なども綿密に調べていた可能性があ
る。 何とか、パロの娘のところまでたどり着いてくれたならば、と願っていたのではないだろう
か。 かごに瀝青と樹脂とを塗るときにも、その願いを込めていたのではないかと推測できる。 
瀝青とは、アスファルトのことであり、防水作用がある。 これは、ノアの方舟を造った時に、防
水で使ったものである。(創世記6:14) 
 
ただ、ノアの方舟とは違って、造りにおいて、防水において、完全ではない。 「その子の姉が
遠くに立って、どうなることかと様子を見ていた」と書かれているが、姉(ミリヤム)が自ら、見て
いたのか、母親に言われて見張っていたのか明確に書かれてはいないが、へブル人への手
紙11章23節ことばからすると、母親が姉に見張り役をさせたのではないかと推測できる。 
自分たちの体を張って、赤ちゃんを三か月もの間、隠したのだから、むざむざと見殺しにする
ことなどできないと思うからだ。 
 
また、パロの娘は、かごの中の赤ちゃんが泣いているのを見た時、ヘブル人の子どもだと察知
したと思われるが、その子の「かわいらしさ」、「美しさ」の中に、パロの娘は、主なる神を知って
いなくても、直観的に何かのための「サイン」と感じたから、育てようと思った可能性はある。 
ただ、それは、明らかに、神の采配であり、神の摂理のなせるわざである。
 
尋常ではないほとの「かわいらしさ」、「美しさ」を持つ人は他にもいたかもしれないし、通常は
「かわいい」、「美しい」と言われるだけで終わってしまうことが、ほとんどである。 神のご計画
云々などと感じることなど、キリスト者であっても、希有なことであろう。 しかし、モーセの両親
には、神が介入された「直観」が働く足場が確立されていたと推測できる。 それは、彼らが、
@「神の約束のことば」を信じ固く握っていたこと。 いわば神に期待し、神に信頼し続けてい
たこと。 厳しい奴隷生活の中でも、A「主とともに歩んでいたことによる。
 
この「神の約束のことば」とは、神がアブラハムに語られたことばである。 アブラハムの子孫
は、異邦の国で寄留者となり、四百年の間奴隷として仕え、苦しめられるが、アブラハムの子
孫がカナンの地に4代目になって戻って来ると言われた。(創世記15:13-16) また、あなたを
大いなる国民とする、子孫繁栄。(創世記12:2、13:16) 地上のすべての民族は、あなたによっ
て祝福される(創世記12:3)、万民祝福。 あなたの子孫にこの地を与える(創世記12:7)土地
獲得、を語られた。 @Aの言葉を、口先だけで言うだけなら、簡単なことであるが、実際は、
なかなか難しいことである。 
 
夢も希望も持てないほど過酷な奴隷生活の中でも、心の底から、「神の約束のことば」を握っ
ていたということは、本当にすごいことである。 常々、心の底から握っていたから、赤ちゃんの
「かわいらしさ」、「美しさ」を見た時に、「神のご計画」、「神のみこころ」と、「直観的」に感じるこ
とができたのだと思われる。 我々人は、どのような状況、状態、環境の中でも、「主と主のこと
ば」を心の底から握ることは可能だということだ。 そうできるかできないかは、へブル人への
手紙11章23節によるなら、その人の「信仰」によるということだ。 そして、この「信仰」は、神か
ら与えられたものである。 神からの「信仰」を受け取る心の足場が、モーセの両親は確立して
いたということであろう。 厳しい奴隷生活をする中で砕かれることも多かったと推測できる。
 
さて、神が介入された「直観」が働いた人物は、聖書の中に多くみられると思うが、ルカによる
福音書2章に、突如として現われたシメオンもその中の一人である。 ルカによると、この人は
正しい信仰深い人で、イスラエルの慰められるのを待ち望んでおり、聖霊が彼の上にとどまっ
ておられたという。 また、主のキリストを見るまでは、決して死なないと、聖霊の示し受けて
いた。 この老人シメオンは、「主のキリスト」に会うために、常に宮の入口で待っていたわけで
はないが、「その時が来た」ことを、聖霊に導かれて「救い主キリスト」に出会うことになった。
 
シメオンについては、この箇所だけであるが、その短いことばから、シメオンのそれまでの歩み
を推測することができる。 神からの訓練を何も受けずに、シメオンのようになれるわけではな
い。 ここまでの道のりの中で苦労し、砕かれ整えられてきたのだと思われる。 そして、「生き
る」ということを神に問いかけ神を求め続けてきたのではないだろうか。 そのようなシメオン
だから、「聖霊が彼の上にとどまっておられた」のだと思われる。 だから、幼児イエスの顔を
見ただけで、直観的に「救い主キリスト」と分かったのだ。 言うなれば、シメオンの場合も、
が介入された「直観」が働く足場が確立されていたということだ。 
 
このようにして見ると、神が介入された「直観」が働く足場が確立されている者は、「主と主のこ
とば」、「約束の神のことば」をしっかりと握って離さないということ。 そして、日々の生活を、
「主とともに歩み」、聖霊が存分にその人に働くことができるということである。 へブル人への
手紙12章6節に、「主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられ
るからである。」とあり、12章8節には、「もしあなたがたが、だれでも受ける懲らしめを受けてい
ないとすれば、私生子であって、ほんとうの子ではないのです。」と書かれている。 結局、本当
の神の子であるなら、神からの懲らしめ、訓練試練、は避けられないということだ。 その
ようなところを通って、自我が砕かれ肉が切り取られ整えられて、神が介入された「直観」、「直
覚」が働く足場、「霊的な感じ方」、「霊的感覚」、「霊的見方」ができる足場が確立していくので
ある。 日々、絶えず、主イエス・キリストから目を離さず、ひたすら神を仰いでいきたいもので
ある。 そして、聖霊のか細い御声を聞き逃すことのないようにしていきたいものだ。
 
★旧約聖書 詩篇 16:8
   私はいつも、私の前に主を置いた。主が私の右におられるので、私はゆるぐことがない。
 
 
 



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