めんどり聖書研究会


めんどり通信/2013年9月15日。主が復活された記念すべき日曜日です!ハレルヤ!
同じようなことを繰り返しても、一方は主の御心の方へ前進し、一方は主から離れていく:ペテロと出エジプトしたイスラエル人たち



★新約聖書 ガラテヤ人への手紙 5:25
   もし私たちが御霊によって生きるのなら、御霊に導かれて、進もうではありませんか。
 
★旧約聖書 詩篇 119:71
   苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました。
 
★旧約聖書 申命記 8:16
   あなたの先祖たちの知らなかったマナを、荒野であなたに食べさせられた。それは、あな
   たを苦しめ、あなたを試み、ついには、あなたをしあわせにするためであった。・・
 
●パウロは、全ての人が罪を犯したことを、詩篇14編2、3節「・・・善を行なう者はいない。ひと
りもいない」のことばを引用して語っている。(ローマ3:23) 神から裁かれるべき罪人であった
者が、主イエス・キリスを信じ救われ、キリスト者(クリスチャン)になる。 クリスチャンとは、
では クリスティアーノス「キリストに従う者」という意味である。 しかし、救われたからと言っ
て罪を全く犯さなくなった、真にキリストに従えるようになったというわけではない。 キリストに
従うことができるようになるためには、自我が砕かれ、肉(生まれながらの神に従い得ない性
質)が切り取られる必要がある。 主なる神は、救われた者を訓練される。 訓練試練を通し
て、自我は砕かれ、肉は切り取られて、「神の子」として、真に「神を愛する」ことができるように
なり、思う「思い」において「話す言葉」において行なう「行動」において、「神の子」にふさわしい
者に変えられる。 
 
主の望まれる「神の子」に変えられる過程の中で、我々はともすれば同じ失敗や愚かな言葉、
行ないを繰り返していると感じることがある。 また、起きてくる事柄が、寄せては引く波のよう
に同じような事が繰り返されていると感じることもある。 同じようなことが繰り返されていると感
じるとき、自分のこともまわりのことも何か滞っているように感じるものである。 そこで立ち往
生しているとも感じるものである。 しかし、実際はその場に留まっているということはなく、前
進しているか後退(悪くなっていること)しているかである。 同じ位置でずっと維持できるもので
はない。 時が刻まれるように、進むか後退か、動いているものである。 キリスト者でいうな
ら、神に向かって前進か後退かである。 後退すればするほど神から遠ざかる。 神の守りか
ら離れる。 それこそ悪しき霊の思う壷でもある。
 
さて、同じようなことを繰り返しても一方は主から離れて行き、一方は主の御心の方へ前進し
ていくということがある。 例えば、出エジプトしたイスラエル人たちとキリストの筆頭弟子ペテロ
を比べてみる。 旧約と新約の違いはあっても同じ天地万物を造られた神を信じている者であ
る。 旧約のイスラエル、ユダヤ人は、新約でいうキリスト者(クリスチャン)である。 ペテロも
イスラエル人、ユダヤ人である。
 
起源前1440年頃、それまで430年間もイスラエル、ユダヤ人は、エジプトで過酷な奴隷としての
生活を強いられて苦しんできた。 その上厳しい政策「生まれた男の子は、一人残らずナイ
ル川にほうり込め。(出1:22)」まで発布された。 エジプトでのイスラエルの苦悩の叫びが頂点
に達したとき、モーセが神に召し出され、イスラエル人はモーセに率いられエジプトを脱出、出
エジプトした。 しかしエジプトを脱出する前からイスラエル人たちは自分勝手な不平不満、つ
ぶやきを言い放っていた。 出エジプトする前に、モーセがエジプト王パロに交渉している段階
で、イスラエル人たちは、モーセの交渉で自分たちが不利になると、モーセやアロンに余計な
ことをしてくれたと言わんばかりに食って掛かった。(出5:21) 長年の過酷な奴隷生活から解
放されるという「救い」を信じないで、目先の一時の現状に翻弄される有様だった。 
 
それでも哀れみの神は、エジプトへの十の災いを起こされ、イスラエル人はそれらの不思議を
見た。 その中での神の守りも体験した。 そしてエジプトを脱出した。 ところが、紅海の岸で
エジプト軍に追いつかれそうになるという絶体絶命の危機になると、昼は雲の柱、夜は火の柱
に守られながら進んできたにもかかわらず、またもや「私たちをエジプトから連れ出したりして、
いったい何ということを私たちにしてくれたのです。・・エジプトに仕えるほうがこの荒野で死ぬ
よりも私たちには良かったのです。(出14:11,12)」という有様。 しかし、どこまでも哀れみ深い
神は、水が真っ二つに割れる奇跡によりイスラエル人たちだけ紅海を渡らせた。 それなの
に、その3日後には、水が苦いと言って、民はつぶやいた。 へりくだって神に願い求めるでも
なく、素直に実情をモーセに話すでもなく、つぶやいた。 
 
その苦しみがおさまって別の苦しみが来ると最初の苦しさから解放されたことを忘れ、目の前
のことだけに囚われ、つぶやきは次々と続いた。 「食べるものがほしい。」「肉が食べた
い。」・・。 出エジプトしたときから、自分たちが苦しくなると、エジプトでの生活を引き合いに出
しては、つぶやきを繰り返した。 シナイで十戒を与えられたとき、民はみな口をそろえて「私た
ちは主が仰せられたことを、みな行ないます。」と答えたが、モーセが山から降りて来るのに手
間取っているのを見て、子牛をアロンに作らせ、「エジプトの地から連れ上った神」だと戯れ
た。 このように出エジプトしたイスラエル人たちは、何度も何度も同じようなこと、すなわち、つ
ぶやきと背きを繰り返し、ますます神から離れて行った。 神からも「うなじのこわい民」と言わ
れ、結局、出エジプトした成人のイスラエル人のうち、乳と蜜の流れるカナンの地へ入れたの
は、ヨシュアとカレブだけだった。 
 
一方、12弟子の筆頭かしらペテロ。 彼は多くの失敗を繰り返した。 当時、イスラエルはロー
マの属国になっていたから、そこから解放してくれる旧約で示されていたキリスト(救い主)を
待っていた。 ペテロはその中の一人だった。 ペテロの性格を端的に言うならば、直情でおっ
ちょこちょい、衝動的、性急、血気盛ん、臆病、それでいて自信過剰であった。 変貌山でイエ
スが天での栄光の姿を見せられたとき、そこにモーセとエリヤという、旧約聖書を代表する二
人が現れた。(マタイ17章) ペテロは驚きと恐れから思わず「三つの幕屋を造ります。」などと
わけのわからぬ言葉を発してしまった。 じっと事態を見守るという慎重さ、思慮深さがなく、と
にかく何か言葉をしゃべって、その場の緊張感に対応しようとする軽さもこの時のペテロには
あった。
 
また、ガリラヤ湖の荒れる波の上を歩かれるイエスを見たとき弟子たちは幽霊だと驚いたが、
それがイエスだとわかると、ペテロは「私に、水の上を歩いてここまで来い、とお命じになって
ください」と主にお願いした。 「来なさい。」とイエスの「ことば」により水の上を歩き出すも、イエ
スから目を離し荒れ狂う海を見て不信仰になり、沈み始めた。 漁師だったペテロが「主よ。助
けてください。」と叫んだ。 また「あなたこそ、生ける神の子キリストです(マタイ 16:16)」 と大
告白をした後、「下がれ。サタン。」とイエスにしかられたり、他にもまだ聖書に記されている。 
ペテロの失敗エピソードは実に多い。 極めつけは、「主よ。ごいっしょになら、牢であろうと、
死であろうと、覚悟はできております。」(ルカ 22:33)とイエスと弟子たちの前で公言したその舌
の根の乾かないうちに、「私はあの人を知らない」と三度も繰り返して言い、イエスを裏切った。 
 
しかし、そのようなペテロのことを主イエスはよくご存知で、前もって「今夜、鶏が鳴く前に、あな
たは三度、わたしを知らないと言います。(マタイ26:34)」と言われていたが、果たしてその通り
になった。 そのとき、ペテロは、激しく泣いた。(マタイ26:75) ペテロは失敗を繰り返すたび、
自分の弱さと愚かさに、傷つき苦しみ涙してきた。 失敗するたび、「自我という岩」にひびが入
り、その傷、ひびが増えるごとに、自分の無力さ虚しさを痛いほど思い知った。 
 
とどめが、主を裏切るということで「自我という岩」に致命的な切れ目、ひびが入った。 そし
て、ペテロの「自我という岩」が砕かれた。 だから、ペテロは主から離れなかった。 いや、離
れることができなかった。 自我が砕かれた者は、己の虚しさと、真に主を知る。 だから主か
ら離れることができない。  自我が砕かれていない者は、その人にとってのイザッというとき、
本心が浮き彫りにされたとき、自分が最優先であるから、主から離れる可能性が大いにある。 
自分を最優先する者は、自分が逃れること守られること嫌なことに合わないこと…など自分の
ことを考える。 また結構、自分を守るための回避の仕方がうまい。 
 
こうして見ると、出エジプトしたイスラエル人たちは、エジプトで奴隷として苦しんでいたが、その
苦しみは、具体的、現実的なものであったが、彼らの「自我という岩」が砕かれる苦しみ、痛み
ではなかった。 神は、荒野の実際的な訓練で、彼らの「自我という岩」を砕こうとされたが、イ
スラエル人たちは、つぶやきと背きで、神の訓練を拒否した。 いろいろな苦しみ、痛みがある
が、「自我という岩」が砕かれたり、「肉が切り取られる」という痛みや苦しみは、独特なもので
あると言える。 
 
また、イスラエル人たちは、その苦しみから解放されるのに、「苦しいときだけの神頼み」的であっ
た。 明確に主なる神に求めたとは思うが、聖書にはイスラエル人たちが、神に求めたとは書
かれていない。 「苦役のゆえの叫びは神に届いた」と記されている。(出2:23,3:7,3:9) ひと
つの苦しみがおさまると自分中心に生き、また別の苦しみが来ると最初の苦しみから神が解
放してくださったことを忘れ、また、目の前のことだけに囚われ、また「苦しいときだけの神頼み」的
な求めをする。 そのようなことを繰り返しながら、彼らの「自我という岩」はますます堅くなり、
神の御心から離れていった。 まさしく、後退である。 神から「うなじのこわい民」「強情な民」
「かたくなな民」と言われるのも無理はない。 
 
ペテロの場合は、イエスの「わたしについて来なさい。(マタイ4:19、マルコ1:17)」のひと言で、
漁師だったペテロはすぐに網を捨てて従った。 「苦しいときだけの神頼み」的求めの要素はない。 
ペテロという名はギリシャ語、「石」とか「岩のかけら」という比較的に「小さな石」を意味する。 
イエスによってペテロの「岩のような自我」は砕かれ、「肉(生まれながらの性質)」は切り取ら
れ鍛えられて、石ころのごとく 主の御前にへりくだった者に変えられた。 そして、(悪霊や困
難などの)洪水や大風が吹いても倒れない生き方をする者、主の喜ばれる器に変えられた。 
 
我々クリスチャンは、神の方に向かって前進することが御心である。 己、自我や肉からの思
いや願望、考え、想像こそ後ろに置いて、たとえ「苦しいときの神頼み」的な求めであっても、
結果は主のみこころを求め、選び取ることをしていきたいものである。 そのためにも我々は
信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないで、聖霊の流れに乗り続けて、
しっかり前を向いて、目標を目ざして一心に走っていきたいものである。
 
★旧約聖書 箴言 26:11
   犬が自分の吐いた物に帰って来るように、愚かな者は自分の愚かさをくり返す。
 
★旧約聖書 箴言 13:19
   望みがかなえられるのはここちよい。愚かな者は悪から離れることを忌みきらう。



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