めんどり聖書研究会


めんどり通信/2012年7月29日。主が復活された記念すべき日曜日です!ハレルヤ!
<染み付いている「世」が取り除かれなければ、「主の奇跡」さえ無益になる>



★新約聖書 ガラテヤ人への手紙 5:1
   キリストは、自由を得させるために、私たちを解放してくださいました。ですから、あなたが
   たは、しっかり立って、またと奴隷のくびきを負わせられないようにしなさい。
 
★旧約聖書 歴代誌 第一 16:12
   主が行なわれた奇しいみわざを思い起こせ。その奇蹟と御口のさばきとを。
 
★新約聖書 コリント人への手紙 第一 7:22
   主にあって召された奴隷は、主によって自由人とされた者であり、また、召された自由人
   はキリストの奴隷なのである。
 
●ヨセフがエジプトの宰相の時、ヤコブの家族70人がエジプトに移り住んだ。 その後、イスラ
エル人は多産だったので、おびただしくふえ、すこぶる強くなり、その地は彼らで満ちた。 とこ
ろが、ヨセフのことを知らない新しいエジプトの王は、イスラエル人を恐れ、彼らに苦役を強い
た。 イスラエル人はエジプトで長い間、奴隷として生活していた。 出エジプトしたのは、ヨセフ
の死後、430年経ってのことであった。  古代エジプトは多神教だったが、イスラエル人は、
その長いエジプトでの奴隷生活の中で、エジプトの様々な生活習慣や偶像崇拝の習慣にも慣
れ親しんだ者も多かったと推測される。 
 
しかし、いずれにしても、奴隷生活は厳しいものだった。 イスラエル人の苦悩の叫びが頂点
に達した。 そのとき、神は彼らの嘆きを聞かれ、アブラハム、イサク、ヤコブとの契約を思い
起こされた。(出2:24) 神はモーセを選ばれ、イスラエル人を救い出すという良き知らせと、
アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」という永遠の神の名を民に聞かせた。 民は聞
いただけでなく、主からのしるしも見た。 民は、主のことばを信じ、礼拝した。(出4:30,31) 
モーセとアロンはパロのところに行き、イスラエルの民をエジプトから出て行かすように言っ
た。 ところが、救いの出来事はすんなりとはいかなかった。 パロは、神のことば通り、心を
かたくなにして、イスラエル人たちの労働をさらに過酷なものとした。 事が順調にいかず、状
況が悪くなると民はモーセとアロンを非難した。(出エジプト 2:21) 

しかし、神には神のご計画がある。 神の方法があり、神が事を行なわれる時がある。 みわ
ざを現される時がある。 それらの中には「イスラエル人を解放する。 救い出す。」ために、
詳細において神の配慮が込められている。 しかし、人は、自分の現状、出来事だけを見て、
自分自身のことを願うが、神のみこころを知ろうとしないところがある。 「だれもみな自分自身
のことを求めるだけで、キリスト・イエスのことを求めてはいません。(ピリピ2:21)」と書かれて
いるとおりである。 
 
主は、モーセを用いてパロと交渉させながら十の災い(不思議)を起され、エジプトにもイスラエ
ル人にも、全能の神が「主」であることを知らせようとされた。(出エジプト6:3、6、7:5) 神は、
イスラエル人を約束の乳と蜜の流れるカナンの地へ導くのに、遠回りをさせた。 最短コース、
近道であるペリシテ人の国を通れば、10日もあればカナンの地に到着する。 しかし、神は回
り道をさせた。 それは、「民が戦いを見て、心が変わり、エジプトに引き返すといけない。(出
エジプト13:17)」からだ。 また、人の心をよくご存知の主は、イスラエルの民が主の訓練を受
けて、彼らの内側が清められ、変えられなければ エジプトを出たことを悔いて、エジプトに
帰っていく、すなわち奴隷生活に帰っていくことを知っておられたからである。
 
主なる神は、エジプトに災いを下すことによって、エジプトやエジプトの王パロが、「わたしが主
であることを知るようになる。」ということ以上に、イスラエル人が「わたしが主であること」を知
るためであると言われた。(出7:5,17,10:2) イスラエル人は、十の災いを目の当たりに見た。 
また、その中で神の奇跡的な守りをも体験した。 
 
そして、主はイスラエル人を、集団ごとに、エジプトの国から連れ出された。 昼は雲の柱、夜
は火の柱をもって彼らを導かれた。 すなわち、神はイスラエルの民と共におられ、絶えず導
いておられたということである。 その後、紅海の海辺で宿営していたとき、エジプト軍が追って
きた。 そのことも神のご計画であったが、イスラエル人は恐怖に駆られた。 エジプト王パロ
は、以前は、すべてにおいて、彼らの絶対的な主人であっただけでなく、神にも等しい存在だっ
た。 イスラエル人は、エジプト時代の苦痛を思い出したかもしれない。 もし、エジプトに連れ
帰されたら、以前よりもっとひどく扱われる。 しかし生きていくことはできる。 ここでは殺され
てしまう・・・、など様々な思いが交錯したことであろう。 
 
結局、イスラエル人はモーセに「私たちを・・この荒野で、死なせるのか。荒野で死ぬよりエジプ
ト人に仕える方がましだ。と詰め寄り非難した。 自分たちは、どこから引き出されたのか。 
見てきた十の災い(不思議)、奇跡、その中での神の守りを少しも顧みようとしていない。 この
後も、イスラエル人は、何回も何回も神の御力、奇跡を見ても、「エジプトの国で、死んだ方が
ましだった。エジプトの方がよかった。・・・」とつぶやいた。 
 
イスラエル人は長年の奴隷生活で、性質も奴隷根性が染み付いたようである。 神が与えよう
とされる「自由」は、好き勝手するということではない。 本来、「自由」とは、ギリシャ世界にお
いては、社会的な概念であって、奴隷のように外からの束縛や支配、圧迫を受けない状態を
意味していたという。 自由人の共同体として市民政治が行われていたという。 本当の「自
由」には、責任が伴っている。 そういう意味合いで、神は人に「自由意志」を与えられた。 
 
ところが奴隷には、「自由意志」を活かしての責任を問われない。 命じられたことだけをすれ
ばよい。 だから、人のせいにしておけばすむ。 好き勝手に生きるという自由はないが、言わ
れたままを行なっていれば、リスクを伴うこともない。 自分の内面を見つめて、変えられなけ
ればならないと、そういう苦労をすることもない。 自我が砕かれる苦しみとか、肉(生まれつい
た性質)が切り取られるという痛みとは無縁である。 ある意味、楽である。 
 
この奴隷根性が、抜けなければ、神が示された御力も神の奇跡も、無益となってしまう。 イスラ
エル人はエジプトという「世」で生活してきた中で、この奴隷根性が身についた。 「世」で生活し
ている者は、この奴隷根性が身についている可能性がある。 「この世の君は悪魔(サタン)」
である。 だから、人の内に染み付いている「奴隷根性」やその他、「世のもの」の中には、人
をいつでも、「サタンの支配」へと引き戻すものがある。 そして、「主の奇跡」さえ信仰に立た
せることができない。  人の内から、取り除かれなければならない「世のもの」、「奴隷根性」な
どが削ぎ落とされるには、荒野の訓練、試練が必要である。 だから、神はイスラエル人にあ
えて遠回りをさせ、荒野へと導かれた。 すべては神のご計画であり、神のあわれみである。 
 
クリスチャンであろうとなかろうと人はみな、「世」に住んでいる。 何かしら「世」の影響は受け
ている。 「奴隷根性」も含め、「世」のものが染み込んでいる可能性がある。 だから、我々が
すべきことは、いつでも、どんなことでも主ご自身に拠り頼むことである。 基準を「世」ではな
く、「キリスト」にすべきである。 主が良くして下さったことや、すばらしい御わざを忘れず顧み
て、主に心を向け続けていくことである。 そうするなら我々にとって約束の地である、天の御
国に入らせるため、我々が持っていてはならない「世のもの」、「肉」、「自我」などを、主からの
試練、訓練によって削ぎ取って、聖めてくださるであろう。 
 
★新約聖書 ヨハネの手紙 第一 2:15,16
  世をも、世にあるものをも、愛してはなりません。もしだれでも世を愛しているなら、その人
 のうちに御父を愛する愛はありません。すべての世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、
 暮らし向きの自慢などは、御父から出たものではなく、この世から出たものだからです。
 



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