めんどり聖書研究会


めんどり通信/2016年12月11日(日曜日)主が復活された記念すべき日曜日です!ハレルヤ!
<カインとアベルから思考>


★旧約聖書 申命記 30:19、20
   私は、きょう、あなたがたに対して天と地とを、証人に立てる。私は、いのちと死、祝福と
   のろいを、あなたの前に置く。あなたはいのちを選びなさい。あなたもあなたの子孫も生
   き、あなたの神、主を愛し、御声に聞き従い、主にすがるためだ。・・・
 
★旧約聖書 申命記 11:26〜28
   見よ。私は、きょう、あなたがたの前に、祝福とのろいを置く。 もし、私が、きょう、あなた
   がたに命じる、あなたがたの神、主の命令に聞き従うなら、祝福を、もし、あなたがたの
   神、主の命令に聞き従わず、私が、きょう、あなたがたに命じる道から離れ、あなたがた
   の知らなかったほかの神々に従って行くなら、のろいを与える。
 
創世記4章に登場する「カインとアベルの兄弟」から、いろいろ思考してみた。 あらすじは、
こうである。 蛇の言葉を受け入れて、神のことば背き、善悪を知る木の実を食べて「罪」
入ったアダムとエバ。 エデンの園から追放となって、どのくらい経ったかわからないが、アダ
ムとエバとの間に長男カインと弟アベルが生まれた。 アベルは羊を飼う者となり、カインは土
を耕す(農耕をする)者となった。 
 
時を経て、カインは土の実りを主なる神のもとに献げ物として、アベルは彼の羊の初子の中か
ら、それも最良のものを献げ物として持って来た。 主はアベルの献げ物を受け入れたが、カ
インの献げ物は受け入れなかった。 カインは激しく怒って、顔を伏せた。 主は、なぜ、あな
たは憤っているのか。・・もしお前が正しいのなら、顔を上げられるはずではないか。正しくない
なら、罪は戸口で待ち伏せており、お前を求める。お前はそれを支配せねばならない。」と仰せ
られ、カインに悔い改めを迫られた。 しかし、神に背を向けたカインは、弟アベルを殺してし
まった。 人類初の殺人である。
 
そのことはすぐに神に知れ、カインは呪われ、地上をさまよい歩くさすらい人として、一生を終
えることを告げられた。 しかし、神のあわれみと恵みでカインに出会う者がだれも彼を殺すこ
とのないよう、兄カインに一つの印をくださった。 その後、カインはさすらいの旅を続け、エデ
ンの園の東、ノド(さすらいの意)の地に住み、妻を娶ったということ。 そして、カインは町を建
て、その町を息子の名前にちなんでエノクと名付けた、とのことである。
 
このところでは、アダムとエバ、カインやアベル以外に人間がいたのかどうかということが問題
視されることがあるが、創世記5章3節4節「アダムは、百三十年生きて、彼に似た、彼のか
たちどおりの子を生んだ。彼はその子をセツと名づけた。 アダムはセツを生んで後、八百年
生き、息子、娘たちを生んだ。」ということばから、アダムとエバは大家族を設けていたと推測さ
れる。 だから、カインに出会う者とは、アダムとエバの子孫であろう。
 
さて、なぜ主は、カインのささげげ物を拒否されたのだろうか。 聖書には肝心の理由が書か
れていないので、昔から様々な解釈がなされてきたそうである。 また、ここで思うのは、両親
であるアダムとエバは、神についてのこと、自分たちのこと(エデンの園での出来事)、神から
語られたことば(創世記3:16-19)を子どもたちに伝えたのだろうか、教えたのだろうか、という
ことである。 アダムとエバは、自分たちの愚かさを認めた上で話し、子どもたちを教えしつけ
たのだろうか、ということである。
 
アダムとエバが、神のたった一つの命令のことば、「善悪の知識の木からは取って食べてはな
らない。それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ。(創世記2:17)」に背いて、食べた
時、「罪」が入った。 アダムもエバも神に指摘された時、「あなたが私のそばに置かれたこの
女がくれたので食べたのです」、「蛇が私をだましたので食べたのです」と言い訳して悔い改め
なかった。 しかし、「罪」が入る前にしていた神との親しい交わり「罪」が入ってから後に
は、失われただけでなく、エデンの園を追放されて、自分たちの愚かさを知ったのではないだ
ろうか。 
 
そして、追放されるとき、いちじくの葉をつづり合わせて腰に巻いていたアダムとエバに、
は、皮の衣を作り、着せてくださったことで神の愛や神のあわれみ触れたと思われる。 
の衣を作るためには、動物を殺さなければならない。 血を流さなければ作れない物である。 
その動物とは、羊だったのではないだろうか。 神は、アダムとエバに、罪が赦されるためには
犠牲が必要であることを教えられたのかもしれない。 この「皮の衣」は、「血を注ぎ出すことが
なければ、罪の赦しはない(へブル9:22)」のことば通り、キリストの十字架の贖(あがな)い
予表している。 アベルが、彼の羊の初子の中から、それも最良のものをささげたのは、やは
り、アダムとエバから、「皮の衣」の重要な意味を聞いていたからであろう。 
 
ちなみに、神へのささげ物については、そのだいぶ後のモーセのときに規定が定められた。 
幕屋での礼拝規定が定められた時、最初にささげ物について語られている。 幕屋で神に近
づくための神へのささげ物には@「全焼のいけにえ(燔祭・焼き尽くす献げ物)(レビ1:3
〜)」、A「穀物のささげ物(素祭・穀物の献げ物)(レビ2:1〜)」、B「和解のいけにえ(酬恩祭・
和解の献げ物)(レビ3:1〜)」、C「罪のためのいけにえ(罪祭・贖罪の献げ物)(レビ4:3
〜)」、D「罪過のためのいけにえ(愆祭・賠償の献げ物)(レビ5:6〜)」の5種類ある。 その中
でも、「全焼のいけにえ」が一番重要である。 礼拝規定が定められる前にも、ノアとアブラハ
ムによって、「全焼のいけにえ」はささげられていた。(創世記8:20、20:2) ノアもアブラハムも
「全焼のいけにえ」の重要性を知っていたのである。 アベルも最良の羊の初子を屠(ほふ)っ
て焼いた「全焼のいけにえ」をささげたのかもしれない。  
 
このようにして見ると、アベルの兄カインも、神についてのこと、両親アダムとエバのエデンの
園での出来事、アダムとエバに語られた神のことばを聞いていたと思われる。 世間的には、
カインも好青年であっただろうと思われる。 アベルを殺すまでは、何か特別に「罪」を犯したと
は書かれていない。 カインもアベルも、働き者だったという感じを受ける。 しかし、ふたりの
違いは、一点、「主なる神のこと」を、どのように受け取っているかである。 どのように受け
取っているかで、思考、言動が違ってくるからである。 
 
アベルは、アダムに言われた、「土地は、あなたのゆえにのろわれてしまった(創世記3:17)」
ということばや「皮の衣」の意味合いの重要性、「罪」の入った人間の虚しさ、はかなさを思いつ
つ、神のもとにささげ物を持ってきていたのではないかと思う。 いわば、主なる神を真実な
神、全能の神としてあがめ、御前にへりくだっていたであろう。 「主と主のみこころ」を最優
していたからである。 ところが、カインは、神にささげ物を受け入れてもらえなかったこと
で、落ち込んだかと思いきや、アベルを妬み、殺した。 いわば、主なる神を真実な神、全能の
としていないのである。 自分の考え、思い、感情を最優先していたからである。 
 
今日、キリストを信じていない者たちの中には、キリスト者より、すばらしいと見える器がいる。 
しかし、基準が違う。 だから、どんなにすばらしい器であっても、キリストを信じていない、神に
出会っていないということが、神から見られると、「良い器」とは言えない。 神と何の関係もな
いからである。 世間的には、すばらしい親子関係、申し分のない息子娘と言われる者であっ
ても、神との関係が持たれていない者は、「一点」、足りないということである。 その、「一点」
が永遠に関わっていることであり、重要なことである。 
 
中には今、まだキリストのことも、福音も聞いていないという人がいるかもしれない。 そういう
人の中に「すばらしい」と言える器がいるかもしれない。 そういう人は、死後、神の御前に立つ
までに何らかの方法でキリストを知る、神に出会うことができるのではないかと思う。 しかし、
キリストのことも福音も聞いて知っているのに、キリストを自分の主としなかった者は、死の際
になってもキリストを真に受け入れることは難しいであろうと思う。
 
このように見ていくとき、結局、「神と自分」、「キリストと自分」という「一対一のつながり、交わ
り」が確固たるものになることが大切であるということだ。 神との親しい交わり「キリストの
十字架の死と復活」によって回復してくださっているのだから、しっかりと、「主にとどまり続ける
こと」、「主につながり続けること」、そして、「主なる神と自分」、「キリストと自分」が確実に「一
対一の関係」、「一対一の交わり」になること取り組みながら、とにかく、主の御前にへりく
だっていきたいものである。 <アダムとエバ関連のめんどり通信/2009年12月13日/2014年2
 
★新約聖書 へブル人への手紙 11:4
   信仰によって、アベルはカインよりもすぐれたいけにえを神にささげ、そのいけにえによっ
   て彼が義人であることの証明を得ました。神が、彼のささげ物を良いささげ物だとあかしし
   てくださったからです。彼は死にましたが、その信仰によって、今もなお語っています。



めんどり聖書研究会