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2017年7月23日<「もし盲人が盲人を手引きするなら、ふたりとも穴に落ち込む」についての思考> | |
この間、近所の人が亡くなった。 同じ組内なので遺族を慰める意味で通夜に行った。 著者
が、キリスト者であることを近所の方々はみな知っていた。 お坊さんがお経を上げていると
き、心の中でずっと祈っていた。 焼香はしなかったが、遺族の方と顔を合わせて「大変だった
ですね。・・・」と言葉をかけた。
この地域の寺のお坊さんは、お経を上げるだけでなく、教会の牧師みたいにメッセージをす
る。 お坊さんのメッセージを聞いたとき、20年以上前、まだ当時、教会に所属していた頃、聖
会へ行ったときに聞いた牧師のメッセージを思い出した。 その牧師のメッセージは上手かっ
た。 人を惹きつけた。 しかし、聖霊の香りがせず、聖霊を感じなかった。 そのとき思った。
メッセージが上手いのと聖霊が働かれるのとは違うのだな。 聖霊の香りがしなくても、賛美歌
を大勢で唄うことによって人は盛り上がるのだな、と。 しかし、主は本当に喜ばれているのだ
ろうかと、いろいろ思ったことも思い出した。
さて、そのお坊さんもメッセージが上手かった。 聞いている人たちを見ると、みなうなずいてい
た。 死者に「引導を渡す」役目をお坊さんがしているという。 まっすぐ仏さんの方へ行けるよ
うに、あの世へ行けるように、お坊さんが導いていると言う。 そこへ行けば、お父さんもお母さ
んもおばさんも親族も・・・も皆いると言っていた。 聞きながら、この地上で生きている間、仲
が良かった者たちなら良いが、いがみ合っていた人には会いたくないだろうにと思った。 人は
いつかは死ぬ。 それまで、精一杯生きることを考えてほしいというようなことを言っておられ
た。 「死ぬこと」、「生きること」について、曖昧な言葉で終わっているなという感じがした。 結
局、「死と死後、生」について、本気で向き合うことを日本人の多くは嫌うのかな、とも思った。
「死後」について、事実わからないことが多いのだから。
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