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2016年8月28日<「預言」、「神からの語りかけ」など、「神からのことば」についての思考> | |
約8年ほど前、ある教会の集会に招かれ出席したとき、その教会で預言の訓練をしていた。
預言の訓練をしている教会があると聞いたことはあったが、実際その様子を見たとき、思った
こと。 「これが『預言』の訓練? ただ、頭に浮かんで来たことか、もしくは、通読した聖書の箇
所の一部を自分の判断で語っているだけではないのか? 聖霊の導きや満たしも感じない。
しかし、そのような練習を繰り返していると主の望まれる『預言』が出来るようになる? こんな
もの? 早く、この集会から帰りたい。」と思ったことを鮮明に覚えている。
また、二十数年前、ある聖会に出席したときも、預言が与えられたと言って語りだした人がい
た。 そのとき、「旧約聖書の詩篇かイザヤ書か?どこかの箇所を暗記朗読しているのかな?
何の聖霊の感動も導きも感じないが? ここに出席している教役者たちは、『預言』だと受け
取っているのだろうか? おかしいな?」と思ったことも鮮明に覚えている。 もし、神から預
かったことば、「預言」であるなら、心の底からの「励まし」、「慰め」を感じたことであろう。 聖
霊の感動を受けたことであろう。 ただ、著者が出くわしていないだけで、主が「良し」とされる
「預言の訓練」をしている教会があるのかもしれないが・・・。
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