めんどり通信/2016年8月28日(日曜日)主が復活された記念すべき日曜日です!ハレルヤ! <「預言」、「神からの語りかけ」など、「神からのことば」についての思考> |
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★旧約聖書 箴言 4:20
わが子よ。私のことばをよく聞け。私の言うことに耳を傾けよ。
●新約聖書のコリント人への手紙 第一を読んでいるとき、御霊の賜物の「預言」について、気
になった。 それで、いろいろ考えてみた。 「預言」とは、「神からのことばを預かる」こと。
「預言者」とは、その預かった「神からのことばを語りだす者、代弁する者」である。
旧約時代、ノアに、「箱舟を造りなさい。(創世記12:1)」、アブラハムに、「あなたは、あなたの生
まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。(創世記12:1)」と、神は直
接、語られた。 また、アブラハムには、「あなたを大いなる国民とする(12:2)」「地上のすべて
の民族は、あなたによって祝福される(12:3)」「あなたの子孫にこの地を与える。(12:7)」
とも
直接、神は語られた。 当時、人は媒介者なしに直接的に神の声を聞くことができた。
しかし、旧約時代も進んでいくうち、罪が蔓延り、人は神から離れて行くようになった。 それ
で、直接的に「神からのことば」を預かる者が少なくなってきた。 そういう中で、「預言者」たち
が起こされた。 「預言者」たちは、神から直接、ことばを預かる以外にも御使いの口伝えや幻
によって、「神からのことば」を預かった。(出エジプト3:2-4、イザヤ1:1、ルカ9:28-36、使徒1
0:10,11、16:9,10、22:17-21、ダニエル7:1)
旧約時代の「預言者」には、預言したことばが完全に正確であることが問われた。 「ただし、
わたしが告げよと命じていないことを、不遜にもわたしの名によって告げたり、あるいは、ほか
の神々の名によって告げたりする預言者があるなら、その預言者は死ななければならない。」
とある。(申命記18:20) 神のことばを預かって語ることにおいて、預言者の命がかかっている
のである。 だから、自分の思いや願い、考えを一切、混入させてはならなかった。 それで、
「主はこう言われる」、「主はこう仰せられる」が、定型句となっている。
新約時代の「預言」、「預言者」については、教会により捉え方が、いろいろあるようだ。 共通
している解釈は、イエス・キリストが復活した後、その昇天後に、教会に賜物として与えられた
ということ。(Tコリント14:1) 「新約の預言」は、キリストのからだ(組織や建物ではない)の建
て上げのための働きであるということ。(エペソ4:11-13) 「新約の預言者」は、「旧約の預言
者」のように、絶対的な権威はないということ。(へブル1:2) 「新約の預言」は、聖書により、
吟味することが必要であるということ。(Tコリント14:29-32) 以上である。 「預言」には、徳
を高め、勧め、慰め(Tコリ14:3)、励まし、教え、予知、導き、・・などの働きがある。 将来の
出来事を告げるという意味での「預言」もあるが、それさえも、「預言」を与えられた者にとって
の「励まし」となる。
教会、キリスト者によって解釈の違う点は、「新約の初期の預言者」たちが、すでに「キリストの
一つのからだ」すなわち、「普遍的教会」の土台となっており、現代は、すでに神の真理を示す
完成された聖書が与えられているので、旧約のような「預言者」は必要ない、ということ。(エペ
ソ2:20) 一方、旧約時代にも新約時代にも、にせ預言者、自称預言者が沢山いたし、現に
いるが、その預言が一つも外れないで成就(実現)した旧約の本当の「預言者」のように、どの
ように強いこの世の権力や富にも負けない、力強い本当の「預言者」が必要だと感じているキ
リスト者もいるようだ。
また、「預言」は、主を信じる者は誰でもできると教えている教会も多い。(Tコリント14:31) し
かし、「新約時代の預言」には間違いが含まれるため、吟味が必要であるという。(Tコリント1
4:29-32) ただ、「預言」は、主を信じる者は誰でもできるというのは、少々、極端な言い方か
もしれない。
約8年ほど前、ある教会の集会に招かれ出席したとき、その教会で預言の訓練をしていた。
預言の訓練をしている教会があると聞いたことはあったが、実際その様子を見たとき、思った
こと。 「これが『預言』の訓練? ただ、頭に浮かんで来たことか、もしくは、通読した聖書の箇
所の一部を自分の判断で語っているだけではないのか? 聖霊の導きや満たしも感じない。
しかし、そのような練習を繰り返していると主の望まれる『預言』が出来るようになる? こんな
もの? 早く、この集会から帰りたい。」と思ったことを鮮明に覚えている。
また、二十数年前、ある聖会に出席したときも、預言が与えられたと言って語りだした人がい
た。 そのとき、「旧約聖書の詩篇かイザヤ書か?どこかの箇所を暗記朗読しているのかな?
何の聖霊の感動も導きも感じないが? ここに出席している教役者たちは、『預言』だと受け
取っているのだろうか? おかしいな?」と思ったことも鮮明に覚えている。 もし、神から預
かったことば、「預言」であるなら、心の底からの「励まし」、「慰め」を感じたことであろう。 聖
霊の感動を受けたことであろう。 ただ、著者が出くわしていないだけで、主が「良し」とされる
「預言の訓練」をしている教会があるのかもしれないが・・・。
「預言」は、主を信じる者は誰でもできると言っても、誰でもいい、というわけではないように思
われる。 「新約時代の預言」には誤りがあって吟味するから 誰でも何でも語っていいという
わけではないだろう。 神からのことばを預かるのである。 自分の願いや思いや考えを混入
させずに、正確に預かるには、預かる者の肉が切り取られ、自我が砕かれておく必要がある。
救われて間もない者であっても砕かれている者は、その人に応じて、神からのことばを預から
せてくださるであろう。 吟味するにおいても、やはり、砕かれた者であることが大切である。
「預言」を、聖書の裏付けで確認するにも、聖霊の導きが必要である。 「誰が、神からのこと
ばを預かるのか」、「どんな人が、主からのことばを預かるのか」、「誰が、吟味するのか」、「ど
んな人が、吟味するのか」が大事なのではないだろうか。 要は、「神と人との一対一の関
係」、「主と人との一対一の関係」がしっかりしていることが重要である。
神は、ある人に直接、または、誰かを通してその人に語りかけるということがある。 しかし、こ
れらのことは聖書的な預言の賜物ではないと言う意見が多い。 しかし、語られた内容が、教
会の建て上げに関することである場合、これは、もしかしたら、「預言」と言えるのかもしれな
い。 そのような内容で、主から、直接的に与えられた「ことば」、「声」、「ビジョン」、「霊的感
覚」、「夢」、「幻視」を受けるまで、また、受けてからの、その人が通る訓練試練は、相当、厳し
いものがある。
いずれの形ででも「主なる神からのもの」を受ける場合、受ける者の願いや考えや思いなどの
一点でも、混入してはいけない。 だから、厳しい訓練試練を通ることにより、人からのもの
が、ほんの僅かでさえ混入しなくなる。 もちろん、新約では、吟味をするように書かれている
が、旧約時代だけでなく、新約時代においても、どのような方法、形であれ、神からのものを預
かること、受け取ることは、相当、深いものがある。 旧約時代の預言者のように、間違った
ら、命を取られるということはないまでも、それほど、主なる神からの「ことば」を受け取るの
は、重大なこと、深いことである。(詩編105:19)
とにかく、「預言」にしろ、「神からの語りかけ」にしろ、「神からのことば」は、必ず成就する。
試練、試しを受けながら待たなければならないことも多いので、「成就する時」が来るのを待ち
遠しく思うが、「その時」は必ず来る。 その時まで、信仰の創始者であり、完成者であるイエス
から目を離さないで、祈り続けながら、じっと、それまでの時を過ごしていきたいものである。
★旧約聖書 詩篇 78:1
私の民よ。私の教えを耳に入れ、私の口のことばに耳を傾けよ。
★旧約聖書 詩篇 105:19
彼のことばがそのとおりになる時まで、主のことばは彼をためした。
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