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2014年7月6日< 親の責任、子の責任についての思考:祭司エリから>

著者の場合、子どもが幼いときに著者は、主イエス・キリストに出会った。 当時、主が「良し」
 とされる「しつけ」がわからなかった。 祈って祈って「しつけ」をしたつもりではあったが、肉の
 感情で子どもをしかったこと、親のいろいろな思惑で子どもに話しをしたこと、傍目(はため)を
 気にして子どもを甘やかしたこと、・・など何度となく失敗した。 そのたび、二階へ駆け上がり
 一人になって主の御前で泣いた。 著者の願いは、子ども一人一人が、直接、主イエス・キリス
 トとしっかりつながってくれること、そのような「信仰」を受け継がせることであった。 しかし、そ
 の熱心さが子どもにとってマイナスとなっていないかどうか、「しつけ」に失敗するたびに、悔い
 改め、主の喜ばれない、いやむしろ、主が怒られる「しつけ」をしているのではないのかと、主
 に何度か尋ね祈ったことがあった。 いつも、主の答えは「益と成す」だった。(ローマ8:28) 
 人から見て「失敗だ。子どもにむやみな傷をつけた。」と見えたとしても、主が「良し」としてくだ
 さったのだから、それでいい、と思えた。 そして、自分が感情的にした言動も、子どもたちに
 とって必ず、益になると思えた。 失敗をも主は許してくださるだけでなく、主の支配のもとにあ
 ることを泣きながら感謝したものだ。 そして、子どもたちは成人してキリストを信じているが、
 それで安堵していない。  自分自身がキリストとのつながりが更に深くなることを祈るととも
 に、子どもたち一人一人が、より深くキリストとしっかりつながり、常に主のところにとどまること
 ができるようにと祈っている。 


めんどり通信/2014年7月6日号へ


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