めんどり聖書研究会


めんどり通信/2014年7月6日。主が復活された記念すべき日曜日です!ハレルヤ!
<親の責任、子の責任についての思考:祭司エリから>


★旧約聖書 箴言13:24
   むちを控える者はその子を憎む者である。子を愛する者はつとめてこれを懲らしめる。
 
★旧約聖書 箴言 22:15
   愚かさは子どもの心につながれている。懲らしめの杖がこれを断ち切る。
 
★旧約聖書 箴言 22:6
   若者をその行く道にふさわしく教育せよ。そうすれば、年老いても、それから離れない。
 
●親が子をしつけする。 子は親のいうことをきく。 いつの時代にも、このことは、簡単なよう
で難しいものである。 社会的に立派な人が、きちんとした子育てができているとは限らない。 
一般的にいう立派な親に素直でいい子が育つとは限らない。 また、その反対に、ダメな親で
あっても、いい子が育つこともある。 聖書の登場人物の中で、主に最期まで従った勇士や主
のために大いに働いた信仰者の子どもたちが皆、親同様に立派な信仰を受け継いで主に喜
ばれたかというと、そうでもない。 すばらしい主の器が、人から見ると子育てに失敗したと見
える人もいる。 士師時代の祭司エリについて見てみる。
 
祭司は世襲制であり、エリには少なくとも二人の息子がおり、彼らも祭司だった。 ところが、
彼らは祭司であったにもかかわらず、よこしまな者で、主を知らなかった。(1サムエル2:12) そ
れは、イスラエル人たちが神へのささげものを持参すると、息子たちは、ささげる前に、最上の
部分を横取りして、神を侮ったこと。 主の宮で仕える婦人たちと姦淫の罪を犯していたことで
ある。 これらのことはイスラエルの中で噂となり、エリのところにまで聞こえてきた。 そのとき
エリが息子たちに訓戒した言葉は、「なぜ、おまえたちはこんなことをするのだ。 私はこの民
全部から、おまえたちのした悪いことについて聞いている。 子たちよ。 そういうことをしては
いけない。 私が主の民の言いふらしているのを聞くそのうわさは良いものではない。 人がも
し、ほかの人に対して罪を犯すと、神がその仲裁をしてくださる。 だが、人が主に対して罪を
犯したら、だれが、その者のために仲裁に立とうか。(1サムエル2:23-25)」である。
 
この頃、エリは非常に年をとっていた記されている。 一説には90歳であったと言われてい
る。 息子たちもそれなりに年齢を重ねていた可能性がある。 二人の息子が祭司になってど
のくらいの期間が経つのか、二人の息子の悪行はいつ頃から始まったのか、息子たちの噂の
一部始終が聞こえてくる前に、若干でもその類の噂がエリには聞こえていなかったのか(もし若
干の噂でも耳に入っていたなら、そのときに対処すべきである)、エリは二人の息子をどのよう
にしつけ、祭司としてどのような教育をしてきたのか、などわからない点が多いが、息子たちは
祭司になりたてという感じでもなさそうである。 そのような彼らに、エリのこのような訓戒は、
「ぬかに釘」、「豆腐に鎹(かすがい)」である。 エリの訓戒の内容は間違っていない。 正し
い。 しかし、エリが訓戒をするには時期が遅すぎるような感じも受ける。 だから息子たちに
とって、エリの訓戒など「痛くもかゆく もない」だろう。
 
エリがこの歳になるまでに、神は、何の警告も発せられずに、いきなり裁きをなさることはな
い。 必ず、忍耐強く、待っておられたはずである。 そして、何らかのかたちで諭そうとなさっ
ておられたと思われる。 イスラエル人たちが出エジプトしてから後、繰り返し繰り返し、神から
離れて偶像礼拝に陥っては、主のあわれみによって立ち返り、また罪を犯し、ということだっ
た。 士師の時代も同様に、イスラエルに敵対する民族から救われて、イスラエル人たちは平
安な日々を過ごしたかと思えば、また主の目の前に悪を行なって、敵に渡され、また、助けと
救いを求めて叫び、神が救ってくださる。 そしてまた、主の目の前に悪を行なって・・と何度
も何度もこういうことを繰り返していた。 こういう時、いつも主なる神は、イスラエル人たちが
悔い改めて正しい位置に返ることができるようにと様々な方法でご自身の「みこころ」を知らさ
れ、忍耐をもって待っておられた。 そういうことから考えるなら、90歳になるまで、神がエリに
何も知らせられなかったことはないはずである。 息子に関することで、何らかの指摘なり、示
しは  あったはずである。 
 
しかし、エリの息子に対する「情」が強すぎて、それらを見過ごしていたか、もしくは、このくらい
は大丈夫であろう、いずれ気づくだろうなどと見過ごしていた可能性がある。 エリの言葉か
ら、エリは人間的にはやさしい人物ではないかと思われるが、優しさが時に仇となる。 「情に
厚い」、「情けがある」ことは結構なことである。 しかし、「情」も、「世」とか「(自分も含めた)
人」を基準にしたところから「聖められる」ことが必要である。 聖められてくると、「情」が働くと
き、神に介入していただくことができ、主にとどまって言動することができるようになる。 神ご
自身が情け深い方であるからだ。
 
「肉の情」きよめられていない「情」は厄介である。 「神からの示し」に気づくことを妨げ、「神
からの語りかけ」を聞こえなくさせる。(ガラテヤ5:17) ましてエリは祭司である。 神と人々の
橋渡しをする立場の者である。 しかし、この頃、すなわち少年サムエルはエリの前で主に仕
えていた頃、「主のことばはまれにしかなく、幻も示されなかった。(Tサムエル3:1)」と記され
ている。 この「聖書のことば」からみるなら、エリという「親の責任」を問われるのは無理のな
いことである。 もちろん、「親の責任」だけではない。 聖書は、二人の息子について「エリの
息子たちは、よこしまな者で、主を知らず」と記しているが、「子の責任」もある。 その上、エリ
の場合は、「祭司の管理者の責任」もある。
 
何歳になっても親は親、子は子である。 しかし、子も成長して自分で物事を考え判断するよう
になる。 責任も持つようになる。 また持たなければならない。 子どものしつけは、すべて
「親の責任」となりがちだが、そうではない。 どちらがどのくらいの割合で非があるのかなどの
判別はなかなか難しいし、そうすることに、あまり意味はない。 その判別の基準は、多数決や
統計、過去の経験、実験の結果で決められるか、その人の考えで決められるかであろう。 そ
れらの基準のどれが正しいかなど完全に判別できるものではない。 親も子も一人一人の性
質はみな違う。 家族状況、家庭環境もそれぞれみな違う。 それなのに、すべて統一された
具体的な同じ基準を持つことは難しいものである。 
 
一人一人の性質、気持ち、環境、状況、・・などすべてを知っておられるのは、人間を造られた
神である。 神はすべてをご存知である。(Tサムエル2:3) その神がエリの息子たちの罪の
ことで、エリを責めておられる。 神から遣わされた神の人がエリに、神より息子たちを重んじ
て、神を侮ったから、エリの家は永遠に裁かれると宣告した。(Tサムエル2:27-36) また、少
年サムエルを通しても「自分の息子たちが、みずからのろいを招くようなことをしているのを知
りながら、彼らを戒めなかった」と罪に定め、そのために、「エリの家を永遠にさばく」とエリに宣
告した。(Tサムエ3:10-14) そして、恐ろしいことだが、「神のことば」はその通りになった。
(T列王記2:27) <エリについて:めんどり通信/2011年1月30日参照> 
 
いうなれば、神が責めておられないなら、人は責めるべきではない。 神が責めておられるな
ら、人はそれを認めて悔い改めるべきである。 エリが息子たちが幼いときに、そのことに取り
組んでいたなら「情」が先立って息子たちを放任するということがなかったかもしれない。 そう
とはいえ本当に、難しいものである。 ただ、主イエス・キリストを信じる前に子どもは成長して
しまった。 もう後に戻ってやりなおすことができない、という人も多いであろう。 また、主を信
じている時ではあったが、それほど祈ってしつけをしたわけではない。 やり直せるものならや
り直したいという人もいるであろう。 
 
著者の場合、子どもが幼いときに著者は、主イエス・キリストに出会った。 当時、主が「良し」
とされる「しつけ」がわからなかった。 祈って祈って「しつけ」をしたつもりではあったが、肉の
感情で子どもをしかったこと、親のいろいろな思惑で子どもに話しをしたこと、傍目(はため)を
気にして子どもを甘やかしたこと、・・など何度となく失敗した。 そのたび、二階へ駆け上がり
一人になって主の御前で泣いた。 著者の願いは、子ども一人一人が、直接、主イエス・キリス
トとしっかりつながってくれること、そのような「信仰」を受け継がせることであった。 しかし、そ
の熱心さが子どもにとってマイナスとなっていないかどうか、「しつけ」に失敗するたびに、悔い
改め、主の喜ばれない、いやむしろ、主が怒られる「しつけ」をしているのではないのかと、主
に何度か尋ね祈ったことがあった。 いつも、主の答えは「益と成す」だった。(ローマ8:28) 
人から見て「失敗だ。子どもにむやみな傷をつけた。」と見えたとしても、主が「良し」としてくだ
さったのだから、それでいい、と思えた。 そして、自分が感情的にした言動も、子どもたちに
とって必ず、益になると思えた。 失敗をも主は許してくださるだけでなく、主の支配のもとにあ
ることを泣きながら感謝したものだ。 そして、子どもたちは成人してキリストを信じているが、
それで安堵していない。  自分自身がキリストとのつながりが更に深くなることを祈るととも
に、子どもたち一人一人が、より深くキリストとしっかりつながり、常に主のところにとどまること
ができるようにと祈っている。 
 
さて、子育てを終えた者たちも途中である者も、必死にすべきことは、まず、自分がキリストと
しっかりつながっているかどうかを吟味すること。 また、しっかりつながるために取り組むこと
である。 真剣にそのように取り組むことで、自分が受けている「救い」の大きさ深さを思い知る
ことができるであろう。 そうすると、子どもに対する、「救われるように」という、とりなしの祈り
が深くなってくる。 そうしながら、子どもの「救い」、「信仰」について、必死に祈ることである。 
そして、自分は子どもに対して何をすべきか、どうあるべきか、「主のみこころ」を尋ね求めるこ
とである。
 
また、このことは、子どもだけでなく、家族や親族、友人など自分に関わる人たちの「救い」
願うときにも同じである。 人がキリストとのつながりをしっかりできるように祈るとともに、親族
や友人、友人の親子、知人、知人の親子や主が示される人たちのために祈ることを主は望ん
でおられる。 自分の子どものことにしろ、他の人たちのことにしろ、本当に主は「とりなし」をす
ることを望まれているからだ(Tテモテ2:1、イザヤ59:16、ダニエル9:3) いずれにしても、
主なる神、イエス・キリストを真に信じ受け入れて、「主のみこころ」を尋ね求めて祈っていきた
いものである。 
 
★旧約聖書 箴言 29:15
   むちと叱責とは知恵を与える。わがままにさせた子は、母に恥を見させる。
 






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