めんどり聖書研究会 TOPへ > 証しによるプロフィール一覧へ
2012年3月25日<法事> | |
著者は15年前まで単立の教会に在籍していた。 クリスチャンになって約30年。 教会時代、当初、家族はもちろんのこと、親族、近所、友だち、知人の誰一人クリスチャンは いなかった。28年くらい前のことではあるが、病気で入院した人がいると1軒に1人出て、 お百度参りをしていたほど考え方も環境も田舎だった。 当時、まだ、信仰に堅く立って いなかったときだが、お百度参りは、信仰が弱いながらも姑に断った。 田舎ならではの 様々な行事にも、偶像礼拝に関係することは参加しなかった。 著者自身、偶像礼拝から 救われたからである。 そのような環境の中で地元で伝道していき信仰を守って行くことは 困難を極めた。 当初、信仰が弱かった著者は正直、恐かった。 それでも、主のため、 と思い、皆が本当に救われてほしいという思いがあり、伝道など主のみこころに従うことをやめなかった。 二十数年前、近所の親しくしていた老女が亡くなった。 焼香へ行くように姑から言われるかも しれないと思い、前もって当時の教会の牧師にどうしたらよいかを尋ねた。 牧師の答えは 「インドでは気温が高く、土葬なので死体からの臭いがひどかった。 臭いを消すために線香をたいた。 だから焼香をしても偶像礼拝にはならない。」ということだった。 しかし、当時、聖書もあまり 知らなかった著者だったが、「焼香をする」ということが、とても心にひっかかった。 それで、 その思いが主のみこころならば焼香に行かなくてもいいようにしてくださいと祈った。 そして、その通りにしてくだった。 また、斎場ができるまでは葬儀は自宅か集会場で行なっていたので死人がでれば、一家に1人か2人、 葬儀のための手伝いに行っていた。 会社を休める人は、会社を休んで手伝っていた。 著者も手伝いに行かなければならないと思っていたが、主が不思議な方法をもって、 行かなくてもいいように配慮して下さった。 教会時代、1度、仏式葬儀に出ることがあったが、 そのときも主が不思議な方法をもって、葬儀の席に座らなくていいように配慮してくださった。 15、6年前にその教会を出てから後、葬儀や法事などの行事がある度に、主は聖書や祈りを通して、 どう対応したらよいかを教え、導いてくださった。 そのとき、「キリスト教会では、このようにすべき、 あのようにすべきと言われている」という考えを一切捨て、ただ聖書と主の導きだけを求め、 聖霊の流れにだけ乗った。 もし、間違っていたなら、主は必ず、止めてくださったり、 教えてくださったりして、決して失敗だった、罪を犯してしまった、だけに終わらせないことを 知っていた。 著者のそれまでの信仰生活の数え切れないほどの失敗さえも、主は益にして くださっていたからである。 実際、2年前に舅の葬儀があった。 当時、家族がみなクリスチャンではなく、姑の意向で、 斎場で仏式にて執り行った。 もし、15年前まで所属していた教会に、著者がまだいたなら、 「クリスチャンだから仏式の葬儀の席には参列しません。偶像礼拝に関係ないお手伝いだけ します。」と言っていたと思う。 もう人に対する恐れは全くなかった。 いつでも毅然と立つことが できた。 このことばに、多くのクリスチャン、キリスト教会は同意してくれるものと思われる。 しかし、当時、主に祈って祈って、聖霊の流れに乗った結果、その仏式の葬儀の席に参列 することになった。 聖霊の流れの中で身動きできない感じで、それも一番前の席。 お坊さんのすぐ斜め後ろ。 主に何度も「本当にこれが御心なのですか?」と尋ね続けたことを 覚えている。 不思議とお経の声は耳に入ってこず、祈りばかりしていた。 その葬儀に参列しておられる人々の救い、 著者がクリスチャンであることを近所の人たちは皆、知っているので、著者が参列したことが彼らが 救われるのに妨げとならないように、・・・いろいろ祈った。 身動きできないほどの聖霊の流れに 乗っているのだからと堂々としていた。 それでも、つい顔がうつむき加減になってしまった。 そのとき、「顔をあげよ」との声が聞こえたように感じた。 それで「はい」と顔を上げたが、 見えるのは 仏式の祭壇、坊さん。 心の中で主に叫んだ。 「何故、ここにいなければならないの でしょうか?!」と。 そして、またうつむき加減になった。 するとまた「顔をあげよ」と聞こえた。 そんなことを何回か繰り返した後、「これを益と成す」との声。 主が語られたと思った。 「主のみこころのままに、なさってください」とひと言、祈り、顔をあげたまま最後まで座っていた。 もちろん焼香の時は心の中で、死人のことを主にゆだね、黙祷した。 墓での線香もたかなかった。 その後、仏教でいう、1年目の法事が終わり、今年3年目の法事があった。 姑は「これが最後だ。 もう法事をすることもないだろう。私のときは (仏式で)しなくていい。」と言うようになった。 こうしてみるとき、結局、主の導きを聞くのが一番大切であるということだと思う。 一人一人、 信仰の強さ、周りの状況、環境、立場、・・などみな違う。 だから、信仰をしっかり持った上で、 主の導きに従うことである。 真にキリストとの深い交わりをしているなら、どのようにしたらよいのか、 自分はどうあるべきか、必ず聖霊の導きがある。 そして、たとえ仏式の葬儀、法事に参列 せざるをえなくなったときにでも、神はそれらをさえ、後に証しができるほどの益に変えてくださる。 そして、偶像から悪しき霊から守ってくださる。 主は、家族だけでなく、親族、知人、・・・ 未信者を救いたいと望んでおられることは確かなことである。 一人の者が救われるのに、 どのように救われるのか、我々にはわからない。 主の方法がある。 だから、どんなことでも 主の導きに従うことを最優先すべきとつくづく思う。 めんどり通信/2012年3月25日号へ |
|
めんどり聖書研究会 TOPへ > 証しによるプロフィール一覧へ