めんどり聖書研究会


めんどり通信/2012年3月25日。主が復活された記念すべき日曜日です!ハレルヤ!
<法事>




★旧約聖書(口語訳) 出エジプト記 20:3
   あなたはわたしのほかに、なにものをも神としてはならない。

★旧約聖書 申命記 8:19
   あなたが万一、あなたの神、主を忘れ、ほかの神々に従い、これらに仕え、これらを拝む
   ようなことがあれば、きょう、私はあなたがたに警告する。あなたがたは必ず滅びる。

●「偶像」とは何か? 一般的には、神として拝まれている様々なもの、人、他いろいろな神々
と呼ばれるものがあるが、パウロは「偶像なるものは実際は世に存在しない(Tコリント8:4)」
と言っている。 聖書には、「神はひとりであって、そのほかに神はない(口語訳マルコ12:32)」
「神は唯一です(Tテモテ2:5)」
と書かれている。 また、「金、銀、銅、石、木で造られた、見る
ことも聞くことも歩くこともできない偶像(黙示録9:20)」
という表現で書かれているが、これは
「神の器=人」のことを言い、「神の器」を崇拝することも「偶像礼拝」と聖書は警告している。

さて、器崇拝はさておき、日本における偶像礼拝について考えてみる。 今日、日本の場合、
キリスト教人口は長い間、1%未満だといわれている。 そのような中でも普段の生活において
は、大きな問題もなくクリスチャンとして過ごすことは可能であろう。 しかし、仏式葬儀や法事
になったとき、どう対応するかが問われることとなる。 家族や親族など自分の身近な人たち
がクリスチャンであるか、もしくはせめて家族だけでもクリスチャンである場合は、別段大きな
問題とはならないが、クリスチャンが自分だけとか、それも一家の主(あるじ)が未信者である
場合や、家制度が根強く残っている田舎では、信仰を守ることと周りとの兼ね合いで苦労する
ことが多い。 

著者は15年前まで単立の教会に在籍していた。 クリスチャンになって約30年。 教会時代、
当初、家族はもちろんのこと、親族、近所、友だち、知人の誰一人クリスチャンはいなかった。
28年くらい前のことではあるが、病気で入院した人がいると1軒に1人出て、お百度参りをして
いたほど考え方も環境も田舎だった。 当時、まだ、信仰に堅く立っていなかったときだが、お
百度参りは、信仰が弱いながらも姑に断った。 田舎ならではの様々な行事にも、偶像礼拝に
関係することは参加しなかった。 著者自身、偶像礼拝から救われたからである。 そのような
環境の中で地元で伝道していき信仰を守って行くことは困難を極めた。 当初、信仰が弱かっ
た著者は正直、恐かった。 それでも、主のため、と思い、皆が本当に救われてほしいという思
いがあり、伝道など主のみこころに従うことをやめなかった。 

二十数年前、近所の親しくしていた老女が亡くなった。 焼香へ行くように姑から言われるかも
しれないと思い、前もって当時の教会の牧師にどうしたらよいかを尋ねた。 牧師の答えは「イ
ンドでは気温が高く、土葬なので死体からの臭いがひどかった。 臭いを消すために線香をた
いた。 だから焼香をしても偶像礼拝にはならない。」ということだった。 しかし、当時、聖書も
あまり知らなかった著者だったが、「焼香をする」ということが、とても心にひっかかった。 それ
で、その思いが主のみこころならば焼香に行かなくてもいいようにしてくださいと祈った。 そし
て、その通りにしてくだった。

また、斎場ができるまでは葬儀は自宅か集会場で行なっていたので死人がでれば、一家に1
人か2人、葬儀のための手伝いに行っていた。 会社を休める人は、会社を休んで手伝ってい
た。 著者も手伝いに行かなければならないと思っていたが、主が不思議な方法をもって、行
かなくてもいいように配慮して下さった。 教会時代、1度、仏式葬儀に出ることがあったが、そ
のときも主が不思議な方法をもって、葬儀の席に座らなくていいように配慮してくださった。 

15、6年前にその教会を出てから後、葬儀や法事などの行事がある度に、主は聖書や祈りを
通して、どう対応したらよいかを教え、導いてくださった。 そのとき、「キリスト教会では、この
ようにすべき、あのようにすべきと言われている」という考えを一切捨て、ただ聖書と主の導き
だけを求め、聖霊の流れにだけ乗った。 もし、間違っていたなら、主は必ず、止めてくださっ
たり、教えてくださったりして、決して失敗だった、罪を犯してしまった、だけに終わらせないこ
とを知っていた。 著者のそれまでの信仰生活の数え切れないほどの失敗さえも、主は益に
してくださっていたからである。 

実際、2年前に舅の葬儀があった。 当時、家族がみなクリスチャンではなく、姑の意向で、
斎場で仏式にて執り行った。 もし、15年前まで所属していた教会に、著者がまだいたなら、
「クリスチャンだから仏式の葬儀の席には参列しません。偶像礼拝に関係ないお手伝いだけし
ます。」と言っていたと思う。 もう人に対する恐れは全くなかった。 いつでも毅然と立つことが
できた。 このことばに、多くのクリスチャン、キリスト教会は同意してくれるものと思われる。 
しかし、当時、主に祈って祈って、聖霊の流れに乗った結果、その仏式の葬儀の席に参列する
ことになった。 聖霊の流れの中で身動きできない感じで、それも一番前の席。 お坊さんのす
ぐ斜め後ろ。 主に何度も「本当にこれが御心なのですか?」と尋ね続けたことを覚えている。 

不思議とお経の声は耳に入ってこず、祈りばかりしていた。 その葬儀に参列しておられる
人々の救い、著者がクリスチャンであることを近所の人たちは皆、知っているので、著者が参
列したことが彼らが救われるのに妨げとならないように、・・・いろいろ祈った。 身動きできな
いほどの聖霊の流れに乗っているのだからと堂々としていた。 それでも、つい顔がうつむき
加減になってしまった。 そのとき、「顔をあげよ」との声が聞こえたように感じた。 それで「は
い」と顔を上げたが、見えるのは 仏式の祭壇、坊さん。 心の中で主に叫んだ。 「何故、ここ
にいなければならないのでしょうか?!」と。 そして、またうつむき加減になった。 するとまた
「顔をあげよ」と聞こえた。 そんなことを何回か繰り返した後、「これを益と成す」との声。 主
が語られたと思った。 「主のみこころのままに、なさってください」とひと言、祈り、顔をあげた
まま最後まで座っていた。 もちろん焼香の時は心の中で、死人のことを主にゆだね、黙祷し
た。 墓での線香もたかなかった。

その後、仏教でいう、1年目の法事が終わり、今年3年目の法事があった。 姑は「これが最後
だ。もう法事をすることもないだろう。私のときは (仏式で)しなくていい。」と言うようになった。 
こうしてみるとき、結局、主の導きを聞くのが一番大切であるということだと思う。 一人一人、
信仰の強さ、周りの状況、環境、立場、・・などみな違う。 だから、信仰をしっかり持った上で、
主の導きに従うことである。 真にキリストとの深い交わりをしているなら、どのようにしたらよ
いのか、自分はどうあるべきか、必ず聖霊の導きがある。 そして、たとえ仏式の葬儀、法事
に参列せざるをえなくなったときにでも、神はそれらをさえ、後に証しができるほどの益に変え
てくださる。 そして、偶像から悪しき霊から守ってくださる。 主は、家族だけでなく、親族、知
人、・・・未信者を救いたいと望んでおられることは確かなことである。 一人の者が救われる
のに、どのように救われるのか、我々にはわからない。 主の方法がある。 だから、どんなこ
とでも主の導きに従うことを最優先すべきとつくづく思う。 

クリスチャンとして、「偶像」「偶像礼拝」についてどう捉えておくべきかをしっかりと持つことは重
要である。 唯一の神は、偶像を造ること、拝むこと、仕えることを禁じていること。(出エジプト
20:4〜6)
  「偶像」=「空しい」であること。(イザヤ書44:9〜20、詩篇115篇4〜8節)、偶像を
礼拝することは悪霊と交わることになること。(Tコリント10:19,20) 信仰の根幹は決して揺る
がされてはならない。 焼香について。 香は聖なるものであるから人にたいてはならず、神に
向かって香をたいて礼拝すべきことが命じられている。(出エジプト30章) 

いずれにしても、日々絶えず、主イエス・キリストから目を離さず、主の御前にへりくだって祈
り、キリストとの交わりを深くしていき、聖霊の流れに乗って、主の導かれるまま歩んでいきた
いものである。

★新約聖書 ヨハネによる福音書 4:24
   
神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。




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